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第 1 章 植民地時代から独立まで
モブツが生まれたこのコンゴという巨大な国がどのようしてベルギーの植民地となっていたの
か、しかも最初は何故ベルギー国王の個人的な所有物であったのか、その辺の歴史的経緯に 少しばかり触れておきましょう。1960年に独立を果たした時に、国民が、そしてモブツがどん な社会的、政治的な立場にあったかをより良く理解するためです。
1−1 ベルギー国王レオポルド2世の野望
ベルギーが1830年オランダから分離独立して、2代目の国王、レオポルド2世は、若い頃か
ら世界各地を旅行し、地理学に深い関心を持っていました。そして、オランダがジャワ・スマトラ を初めとしてアジアで多くの植民地を持ち、自国の経済的繁栄を図っていたのを目の当たりに して、自らも何時か第二のジャワを持つことを夢見ていました。しかし、財力も、軍力もない小国 ベルギーとしては、当時の列強の植民地争奪戦に割り込むには、知恵と外交手腕をもってする しかありませんでした。
アジアや南米ではすでに植民地分割に割り込む余裕がない状況であったので、国王は、アフ
リカに目を着けました。アフリカもアクセスの容易な東アフリカや西アフリカでは、すでにスペイ ン・ポルトガル・英国、フランス、ドイツなどが自国の国旗を掲げて、植民地領有権を確立してい ました。ただ、コンゴ盆地などの中部アフリカの内陸部では、まだ暗黒大陸の呼び名で、大きな 土地が手付かずで残されていました。
レオポルド2世は、1876年9月にブラッセルで国際地理学会を招集し、このアフリカに中央
部における学術的探検を促進し、奴隷貿易廃止するという人道主義的運動を起こす目的で、ア フリカ国際協会を設立し、自らその会長の座に就きました。この協会は実は、国王が植民地経 営に乗り出すための野心を巧みにカモフラージュするための手段だったのです。
レオポルド2世は、コンゴ河下りの大旅行から1878年1月に帰ってきた探検家のスタンレー
に、この協会のために働いてくれるよう要請しました。国王は、このコンゴの潜在的な経済的価 値を高く評価していたからです。国王はさらに一歩踏み込んで、コンゴ盆地において一つの政 治的な機関を設立する目的で、1878年11月オー・コンゴ調査委員会を創設し、後にコンゴ国 際協会と改称しました。そしてスタンレーは、その委員会のために新たに探検に出掛けることを 承諾しました。1879年8月4日、スタンレーはコンゴ河の河口に到着し、10月にはヴィヴィと いう場所に最初の根拠地を置きました。現在のボマの近くです。
コンゴ国際協会は、その政治的な野心を次第に明らかにしてきました。学術調査と人道主義
という仮面の裏で、スタンレーは各地の酋長と交渉して、一定の金品と引き替えに、農業や通 商に関する独占権を国際協会に認める協定を次々に結びました。レオポルド2世としては、何 よりもこの協会を国際的に認知してもらい、それによってこの地域への領土権を確保したかっ たのです。
フランス、ポルトガル、ドイツなどがすでにこの地域に対して、それぞれの歴史的関わりと実績
に基づき、自国の権利を主張する中で、レオポルド2世は、米国、フランス、ドイツなどと個別に 言葉巧みに交渉し、騙しに近い空約束や、コンゴ盆地における通商と航行の自由を保障するこ とで、これらの国々から国際協会を行政上の機関として認めてもらうことに成功しました。これら の国々も自らの財力と兵力を投じて、コンゴを支配することまでは考えておらず、ただ、競争相 手国がこの地を占有することには非常に神経質になっていました。その辺に小国ベルギーの 国王が旨く立ち回る余地があったのです。
しかし、そのような2国間の合意で、全ての国が安心した訳ではなく、この地域に関する国際
的話し合いの場が必要となってきました。1884年11月から3ヶ月にわたるベルリン会議にお いて、レオポルド2世は、自分の野望をひた隠しにして、皆が安心できるようにこのコンゴ盆地 をコンゴ国際協会のような中立で、無害な人道的機関の下に置くということで列強の代表を口 説きました。その結果、1885年2月にコンゴ問題に関するベルリン議定書が調印されました。 これによりフランスは現在のコンゴ(ブラザヴィル)の地域、ポルトガルは現在のアンゴラの一部 の領有を認めら、残りのコンゴ盆地は、コンゴ自由国として、レオポルド2世の個人の手に委ね られました。条件として、あらゆる国の貿易や宣教活動に門戸を開放することなどが定められ ました。
コンゴに住んでいた多くの人種や部族の人々は、誰が、どうしてこんなことを決めたのか、説
明さえされず、レオポルド2世という個人に支配されることになった運命を受け入れるしかなか ったのです。
このベルリン議定書が調印されてから2ヶ月後の1885年4月にベルギーの上下両院は、ベ
ルリン会議の結論を承認しましたので、レオポルド2世は国際的にも、国内的にもコンゴ自由国 の主権者となりました。この点に関して国王は次のような言葉を残しています。
「コンゴに対する余の権利は、何びととも分かちあえない。それは余自身の努力と出費の成果
である。……王は建国者である。この国の組織者であり、所有者であり、絶対主権者である」。 (*1)
そうなると、国王は誰憚ることなく、これまでつぎ込んだ資金を手っ取り早く回収することに取
りかかります。スタンレーに対しては以前からコンゴ河流域で可能な限り沢山の象牙を買い集 めるよう指示していました。
しかしながら、レオポルド2世にとってこの植民地経営は、規模が大きいだけに、財政的に行
き詰まるのに時間は掛かりませんでした。1889年に、国王はベルリン議定書で禁じられてい るコンゴでの輸入税の導入を、メンバー国の了承を取り付けて、強行しました。それでも国王の 出費は嵩むばかりで、国王は1890年ベルギー政府に2500万ベルギー・フランの前借りを要 請しました。その代償として、国王は、10年以内にその借款を返済できない時は、コンゴをベ ルギー国に譲渡することを承諾しました。
巨額の資金を必要とした事業の一つに挙げられるのは、レオポルドヴィルからマタディにいた
る鉄道建設です。スタンレーは「この鉄道なしでは、コンゴは一文の価値もない」とまで言ってい ます。コンゴ河はその間、瀑布がいたるところにあるため船の航行は不可能です。従ってその 間の物資の輸送は人力による運搬に頼るしかありませんでした。そこで国王は資金を集めて、 その390キロに及ぶ水晶の山と呼ばれていた地帯に鉄道を建設しようとしました。それは189 0年から8年間に及ぶ難工事であり、莫大な資金と人命がつぎ込まれました。建設工事は難航 を極め、最初の2年間には僅か9キロしか進まず、その間2メートルにつき一人の犠牲者が出 たと記録されています。連れて来られた500人の中国人労働者の内300人以上が死亡してい ます。この地域の自然条件の激しさと仕事の過酷さを物語るものです。でもこの鉄道ができた お陰で、コンゴの奥地で集荷された物資は、コンゴ河を船でレオポルドヴィルまで、それからこ の鉄道でマタディまで運ばれ、マタディ港から船で次々とヨーロッパに持ち出せるようになりまし た。
国王の代理人たちは、コンゴの奥地、特に東部においてその支配を確立するために古くから
王国を築いていた大酋長や、奴隷と象牙密貿易をしていたアラブ人たちと衝突することになり ました。最後は絶対的に優位な武器を用いて、有力な部族たちやアラブ人たちを排除し、植民 地政府としての権威を確立しました。鉱物資源の宝庫であるカタンガ地域の中心地にエリザベ ートヴィルという鉱山都市を建設し、この地域に鉄道網を張り巡らし、鉱山開発に着手しまし た。この鉱山開発に関するユニオン・ミニエール社の事業については第6章で詳しく述べること にします。
レオポルド2世は何よりもこのコンゴ自由国の富を手っ取り早く、最大限に搾取できる体制を
作ろうとしました。1885年7月に全ての空き地は国家の所有物とする旨の勅令を公布し、その 条文は極めて広義に解釈されました。1891年天然ゴムと象牙は国家の独占の下に置かれ、 ベルリンの総括議定書により宣言された通商の自由は事実上無視されました。1896年の秘 密勅令によって、カサイ川とルキ川との間に広大な王室領地が創設され、王室財団によって管 理されることになりました。この地域にダイヤモンドが埋蔵されていることが分かったからです。 幾つかの王室領地を合計すると国土の10%に及びましだ。
強制労働を住民に課すことにより、またゴムと象牙の独占貿易により国王は、莫大な利潤を
吸い上げるようになりました。象牙の輸出は1887年の40トンから1899年の298トンに、天 然ゴムの輸出は1895年の500トンから1901年の6000トンに増えました。
しかし、徹底的な搾取は多くの弊害をもたらしました。強制労働を拒否する現住民やノルマを
満たせない農民などを殺戮したり、その手首を切り落としたりする野蛮な行為が、国王の兵士 たちにより繰り返されていました。国王はコンゴで行われていることをひた隠しにしようと様々な 手段を講じていました。しかし、全ての人の口を塞ぐことは所詮不可能でした。余りにも惨い行 為は宣教師たちやイギリスの領事などを通じて、ヨーロッパにも伝えられました。
ベルギーの議会はコンゴで起きている反人道的な出来事に無関心ではいれなくなり、激しい
論争を引き起こしました。報道界も世論もレオポルド2世の責任を追及し、イギリスは自国の利 益にもなることから、人道主義的な反国王運動を支援しました。1904年と1905年にわたり、 国際調査委員会がコンゴに派遣され、その結論として、この国の構造改革が勧告されました。
ベルギー議会は国王に対してコンゴ自由国をベルギー国に譲渡するよう求めました。国王も
この要請を受け入れざるを得なくなり、1907年11月28日国王はベルギー国と条約を結び、 国王が「自分自身の創作物、辛苦の結集」と呼んでいたコンゴは、ベルギー国の植民地となり ました。王室財団も1908年3月5日付けの付属議定書によりベルギー国に引き渡され、国王 はその代償として、十分過ぎるほどの財産を手中にしました。そして、1908年11月14日コン ゴ自由国は正式にベルギー植民地となったのです。
レオポルド2世は生涯一度もこのコンゴを訪れませんでしたが、そこから得た富で、ラーケンと
シェルニョンにある王宮を豪華なものに改築し、中部アフリカの美術品の最高傑作を集めたテ ルヴューレン王室美術館、ブラッセルの50周年記念アーケード、スパとオスタンドの温泉保養 地などの建設を行いました。それと同時にコンゴからもたらされる富は、小国ベルギーの国家 経済を潤わすものでした。
国王の個人的支配体制に終止符が打たれ、新たにベルギー政府がこの植民地を管理する
ようになった結果、多くの分野において改革が行われました。現地人労働力の過激な使用を避 けるため、黒人社会の伝統的な形態を尊重するため、そしてコンセッション取得企業の特権を 制限するために、数多くの政令が制定されました。植民地コンゴは、国王の代理者たちによっ て築かれた体制から少しずつ離れ、人道主義的な観点からコンゴ人の生活が見直されるよう になりました。
だからと言って、植民地主義が変り、コンゴの富が搾取されなくなったという訳ではありません
でした。すでにレオポルド2世が着手していたカタンガの羨ましいほど豊かな地下資源の開発 が始まり、ベルギー領コンゴは銅、コバルト、ダイヤモンド、ラジュウムなどの世界的な生産国と なりました。それがベルギー経済の発展にどれほど寄与したか分かりません。
植民地政府は原住民の生活様式まで踏み込み、文明開化の名の下で、植民地経営に都合
の良いような社会体制を作り上げようとしました。特に、教育の面でベルギーは特徴のある方 針を貫いていました。初等教育については他のすべてのアフリカ諸国を上回る普及率であるこ とを自負していました。しかし、中等教育となるとごく限られたものであり、それも職業上の実務 教育を中心としたものでした。大学教育については、明確に否定的な考えを持っていました。そ れは「白人と同等の生活水準に達していない原住民に大学教育を施すことは、不満分子と煽 動者の育成を促すだけである」という考えでした。(*2) その結果、1960年の独立時に一人の 大学卒業者もいないという事態が起きました。
その植民地政策に深刻な問題があったことは、1926年に現地を訪れて、自国の政府に警
告を発した皇太子殿下の言葉を聞いても分かります。
「ベルギー政府当局に対して警告が発せられたが、それは英国あるいは米国の新聞記者で
もなく、このような問題で世論を喚起しようとしていた評論家でもなかった。それはレオポルド2 世の後継者であるアルベール国王の息子であり、将来ベルギーの国王となるべきレオポルド 殿下が、現地の旅行から帰ってからの発言であった。この殿下は、白人の植民地化が強制し た束縛に耐えていくことができなかったため、原住民の人口が劇的に減少していることに気付 いたのである。原因は強制労働であり、公安軍での義務的な徴兵であり、急速に発展した都市 部、特に鉱山業地域の都市に食糧を供給するために、農業に従事していた住民に課された重 荷であった。この皇太子殿下は、道路や鉄道の建設、カタンガの鉱山開発のような大規模な工 事に投入された労働者の恐るべき死亡率を自らの目で確かめたのである」。(*3)
第一次世界大戦の間、ベルギー領コンゴの植民地軍隊は、同盟国軍の一員としてドイツ軍と
戦うために、1916年タボラ(現在タンザニアの都市)の制圧作戦に参加し、また東部アフリカ のドイツ領の西側戦線において、戦闘に参加しました。この軍事協力のお陰でベルギーは、そ の後イギリスとの合意にもとづき、旧ドイツ領であったルワンダ・ブルンディを国際連盟からの信 託委任統治領として、配下に置くことになりました。ベルギーはこの両国とコンゴを併せて、3つ の植民地の宗主国となったのです。
第2次世界大戦においてベルギーはドイツにより占領され、ベルギー政府はロンドンに亡命し
ました。ベルギー領コンゴは同盟国の一員として、戦争の遂行に必要な戦略物資を供給する最 大の輸出国となりました。ジャワやマレーシアが陥落した後は、コンゴの天然ゴムは貴重な資 源でした。軍需産業のために銅、錫、その他の金属の増産が行われました。さらに原爆製造の ために、カタンガで産出するウラニュウムが使用されました。このような鉱物資源の活用でベル ギー領コンゴは繁栄し、それが大戦の終わった直後におけるベルギーの経済躍進の大きな要 因となりました。
〔脚注〕
*1 ピーター・フォバス著、田中昌太郎訳「コンゴ河−その発見、探検、開発の物語−」ページ 3 66 下段 *2 Jules Chome著 "L'ascension de Mobutu" ページ 8 *3 Colette Braeckman 著 Le dinosaure -Le Zaire de Mobutu ページ 117 * |
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