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     12−2 成功した帝国石油の石油開発
  モブツ体制の下でザイールが社会・経済面でひどい混乱状態に陥っていた中で、石油開発
の分野で1970年から現在に至るまで、ノンオペレーター(脚注)ながら、共同事業に参加し
て、収益面では立派な実績を残している日本の石油開発企業を紹介しましょう。それは日本国
内の油田・ガス田の開発では最も長い実績を持っている帝國石油(株)が、海外の探鉱・開発に
も目を向けていた中で、1970年に出会ったプロジェクトでした。
  石油資源の探鉱はリスクの非常に高い事業であり、油田を発見するために新しい地質構造
に掘削される井戸はワイルド・キャットと呼ばれていますが、このワイルド・キャットが成功に結
びつく確立は100本に1つあるかないかというのが現実です。そのような中で、開発にまで漕
ぎ着ける探鉱プロジェクトの利権を獲得し、そこに参入することは、至難の業であり、それなり
のリスク・マネーを投じなければなりません。それは海上でこれらの試掘井を1本掘るのに10
億円単位の資金が必要となるからです。従って、このようなハイリスクの石油探鉱・開発プロジ
ェクトは、通常幾つかの企業が共同して取り組むケースが多いのです。
   探鉱・開発プロジェクトへの参入
  帝国石油は1960年代後半アラスカにおいてガルフ石油と共同で石油開発事業に取り組
み、その機会にガルフとの関係を深めることができました。そのガルフを通じて、1970年3月こ
のコンゴにおける利権の譲渡の話が持ち込まれたのです。それは、ガルフがベルギーのコメト
ラ・グループと共同で独立直前から保有していた探鉱開発権の一部をコメトラが譲渡する用意
があるという情報でした。このようなオファーは通常期限付きであり、帝石は急遽、検討の結
果、このプロジェクトに参加することを決め、同年7月に共同事業協定を締結しました。
  コンゴは大西洋に面して僅かに40キロの海岸線しか持っていませんが、その沖合には石油
埋蔵の可能性が高かったのです。それはガボン、コンゴ・ブラザヴィル、アンゴラなど隣国の沖
合では、すでに1950年代後半から石油探鉱・開発が進められていたからです。
  帝石に提案された権益の対象鉱区は、その40キロの沿岸線を一辺とする三角形を成す海域
であり、北側の一辺はアンゴラの飛び地であるカビンダの領海との境であり、南側の一辺はア
ンゴラ本土の海域との境界です。その面積は1000平方キロほどです。ガルフ石油は、すでに
この北側のカビンダのオフショアで1968年以来開発段階に入って、原油を生産していました。
さらに、このコンゴ海域でも、ガルフは空中磁気探査と地震探査により、有望な石油埋蔵構造
があることを確認していました。そして、コンゴの独立後、コメトラとガルフは鉱区期限の延長を
求めると共に、モブツ政権と交渉し、1969年8月にコメトラ、ガルフ両社は、コンゴ政府との三
者間で基本利権協定を締結しました。
  帝石は、ガルフ石油が仲介してくれたこのオフあーについて、前向きに取り組むことを決断
し、直ちにコメトラ社とロンドンにおいて交渉することにしました。その結果、同社の保有する3
4.75%の権益の内の49%を取得することでコメトラ側と合意に達しました。これは鉱区全体
の権益の17.07%に相当します。
  この権益取得の対価として、帝國石油はコメトラのこれまでの出資金5万ドルの49%に相当
する24,500ドルを支払うと供に、後発参入者の負担金として、1970年以降の探鉱・開発作
業費のコメトラ負担分を200万ドルを上限として、帝石が単独で支払うことになりました。
  さらに、その2年後の1972年3月に帝石は、オペレーター(脚注1)であるガルフの保有する
65.25%の内の15.25%をガルフから譲り受けることにつき両社間で合意しました。これに
より、帝石はこれまでの17.07%にこの15.25%を合わせて、32.28%の権益保有者とな
ると共に、ザイール政府の理解も得て、これまでのコメトラ・グループを通じての間接的な事業
参加から、この比率の鉱業権保有者として、共同事業へ直接参加することとなりました。
  なお、1971年11月の国名変更に伴い、それ以降、社名などをコンゴの代わりにザイールと
いう名称に変えることにしました。
  この鉱業権の保有という面では、ザイールの国内法上、ザイール法人でなければ、その保有
は認められないので、ガルフ、コメトラ、帝石もそれぞれ現地法人を設立し、その法人が鉱業権
の保有者となっていました。そして、その各現地法人については、ザイール国の参入(無償で2
0%)が義務づけられていました。
  外部の者が見れば極めて複雑なことですが、3社は、事業推進のための会社として外国法人
を設立し、ガルフは米国法人ザイール・ガルフを、コメトラは米国法人ムアンダ・オイルを、帝石
は日本法人ザイール石油をそれぞれ設立し、そこにザイール法人の保有する権益の内、鉱業
権を除くその他の経済権益をすべて移しました。このような複雑な仕組みをザイール政府当局
に認めさせたのは、石油開発という国際的な事業の重みでもありました。ザイール経済が混乱
を極める中でも、何とか事業を継続することがでたのも、この辺に秘訣があったのでしょう。
  コメトラとガルフがコンゴ政府と締結した基本利権協定の概要は次のようなものです。
  1000平方キロに及ぶ対象鉱区の探鉱期間は、1969年10月から5年間とし、その後、5年
間ずつ2回の延長が可能です。油田が発見され、開発段階に入ると、生産期間は30年間にわ
たり、その後20年間ずつ2回の延長が可能となっています。
  探鉱開発の経済的条件については、当初締結した基本協定の内容は、その後数度にわた
り、租税面での負担が重くなる方向で改訂されました。それは、資源ナショナリズムの波が世界
的規模で高まってきたことと、一方ではザイールの経済情勢の悪化に伴い、国際金融機関の
圧力により、ザイール政府当局が外貨獲得について厳しい対応を迫られたことにもよります。
   探鉱・開発の段階に入る
  このような経営環境の下で、探鉱作業が始められました。石油探鉱のためには、色々な技術
と手法が講じられますが、先ずは地震探鉱(脚注)という段階を経て、地質構造の基礎的な把
握に取り組みます。次に、石油が埋蔵されている可能性の高い構造に試掘井を掘削すること
になります。この掘削は、非常にコストの掛かる作業鉱ですが、それにも拘わらず、そのリスク
の高さは冒頭で述べたとおりです。
  幸いこのプロジェクトにおいては、1970年10月に掘削を開始した試掘井第1号により有望
な地質構造を確認することができ、テスト生産で1日当たり4,000バレルの出油を確認できま
した。この量は、この年の日本国内の総生産が1日当たり約16,000バレルであったことを考
えれば、立派な成績でした。
  その後も次々と試掘井が掘削され、1994年末までに掘削された23坑の試掘井のうち、油
田の発見につながったものは12坑に上り、その結果、8つの油田で生産段階に入ることがで
きました。逆に言えば23坑のうち11坑は不成功だったということです。因みに、これらの試掘
井は、深いもので4,300メートル、浅いものでも2,500メールくらい掘り下げるものです。
  そして、最初に発見された油田は、1975年12月に1,800バレル/日レベルで生産を開始
し、1976年11月にはピーク時に3万5,900バレル/日にまで達しました。その後も1994年
11月までに8つの原油埋蔵構造が発見され、生産が維持されてきました。2006年現在でも、
なお16,000バレル/日のペースで操業が続いています。
  油田の生産開始の当初は、石油が埋蔵されている地層の圧力が高いので、原油は自力で噴
出しますが、次第に圧力が低下して、人工的に生産量を維持する作業が必要となります。その
作業の代表的なものがガス・リフトというものです。それは、原油と共に噴出するガスを分離し
て一旦貯蔵し、その上で再度、コンプレッサーで加圧して、残存する原油の圧力が上がるよう
に、地層に注入する方法です。もう一つの技術は水攻法と呼ばれるもので、地層の構造を十分
に解析して、加圧した水を地層に注入して、埋蔵されている原油の採取が最も効率的に行われ
るようにすることです。これらの方法がこのムアンダ沖の油田に対しても実施され、その効果も
あり、1994年には生産量が4万バレル/日に達したこともありました。その年の末までには累
計1億8千万バレルの水が注入されている。東京ドーム23個分を満たす水量です。
  その結果、この共同事業全体で1976年には約900万バレル、1980年には約650万バレ
ルという生産量を記録しています。900万バレルという原油量は、1975年に日本が輸入した
原油量の1日当たりの平均量が約450万バレルですから、2日分に相当します。因みに、200
5年末までの累計生産量は2億1,700万バレルに上っています。この生産量の32.28%(利
権シェア)がザイール石油としての引取量となるわけです。
   経済的なサクセス
  さて、このプロジェクトが投資効果の面では、極めて優秀なものであったことを2005年末の
資料に基づき見てみます。
  その時点までにザイール石油として、このプロジェクトに支出した探鉱資金は約190億円に
上りました。その探鉱資金のうち開発が決定される前の68億円(出資金)は、探鉱が成功する
かどうか分からない段階での、いわゆるリスク・マネーであり、市中銀行から借りられる性質の
ものではありません。その意味で、このリスク・マネーについては自主開発石油の確保という国
家的見地から、当時の石油公団が行っていた制度的な資金援助を得て、その公団の出資金
(43%)と親会社の帝國石油の出資金(57%)によって賄われました。その後の探鉱資金はザ
イール石油の自己資金で負担されるようになりました。
  開発が決定されると、その後の開発資金は輸出入銀行とそれに協調する形での市中銀行の
融資によることになります。2005年末までにザイール石油として負担した開発資金は約280
億円に上り、さらに生産に関わる費用の負担は、約560億円に及びました。
  1975年に生産開始してからの数年間は、利権協定の財務条件もまだそれほど厳しくなかっ
た時代であり、それに油価も高水準にあり、しかも円高もまだそれほど進まず、280円〜220
円/ドルの段階でした。そのため、資金的には相当な余裕が早くも出てきて、投下資金を早々
に回収することができました。帝國石油と石油公団がリスク・マネーとしてザイール石油に出資
した68億円のうち、47.6億円は1979と80年に買取消却により、株主に還元されました。配
当率も当初の10%から、ピークの19890年には120%に達し、その後10から100%の間
で推移しました。2005年までに、株式の買取消却と配当とを併せて、250億円が株主たる帝
石と石油公団に還元されています。一時期は、親会社の帝國石油の利益を大きく上回る利益
をこのザイール石油が稼いだこともありました。
  なお、2005年石油公団が解散したことにより、帝石が石油公団保有のザイール石油の株式
を買い取り、帝石がザイール石油の100%株主となっています。
  それと同時にザイール(コンゴ)政府にも原油の引渡、納付金、その他の租税公課の負担によ
り、財政的に大きく寄与してきました。ザイール石油として、これまでにこれらの財政的寄与の
累計は、1000億円を超えています。特にこの寄与は直接外貨によるものだけに、外貨不足に
悩む政府にとっては、貴重な財源の一つです。このことは、ザイール(コンゴ)で事業開発を行
ってきた帝石グループにとって、何よりも幸せなことです。
   プロジェクト成功の秘訣は
  モブツ体制の下でザイールは経済的、社会的混乱を経験しながらも、このように事業を継続
できたこと、そして、モブツが失脚した後も、カビラ政府の下で事業を続けており、収益を上げ続
けていることは、ある意味では奇跡的なこととも言えます。
  何よりも第一に挙げられる成功の理由は、とにかく投下したリスク・マネーを回収し、立派な利
益を生み出す油田群を発見できたことです。
  もちろん、世界の石油業界のメジャーの一社であり、オペレーターであるガルフ石油(脚注)
が、開発途上国での操業のノウハウを持ち、万全の危機対応体勢をとっていたこと、色々な技
術面、管理面での問題解決能力を持っていたことの結果でしょう。
  また、ノン・オペレーターとしてのザイール石油(帝石)もこの間に筆舌に尽くしがたい苦労があ
ったことを目撃してきました。それは鉱業権の保有者となる現地法人をキンシャサで立ち上げ、
日本法人であるザイール石油の現地事務所を開設する必要があったからです。その上で、ザ
イール政府当局との折衝、オペレーターとの事務的、技術的折衝、さらには、もう一つのパート
ナーであるコメトラ・グループとの協調関係を維持しなければなりませんでした。
  キンシャサに出張中の役員が東京とのテレックス交信のため中央郵便局に出掛け、そこから
出たところで暴漢に襲われ、負傷するというアクシデントは、治安の悪化を示す象徴的なアクシ
デントでした。現地事務所の所長が、モブツ大統領も出席したパーティに参加し、その帰りに社
宅の前で2台の車にブロックされて、所持していたもの全てを強奪される事件も起こりました。
また、1991年9月の暴動(第16章4節(2)参照)の際には、ついにザイール石油の現地駐在
員は、キンシャサからブラザヴィル経由で緊急に引き揚げることを余儀なくされました。その暴
動の余波は、開発の基地となっていたムアンダにまで及びました。
  そんな状況にも拘わらず、事業を継続し、しかも利益を確保し続けることができたのには、幾
つかの理由があります。
  その一つは、石油開発がある意味で、装置産業であることによります。生産開始までには莫
大の資金を投下し、大規模な生産設備を建設しなければなりませんが、一旦その装置が完成
すれば、その生産維持のための必要人員は、他の産業に比較すると、非常に少なくて済みま
す。さらに、このプロジェクトは海上の鉱区で行われるので、その施設へのアクセスは一般的に
は非常に難しいことがあります。それに生産された原油も海上で直接タンカーによって引き取ら
れ、輸出されるという点も、治安の悪化の影響を受けない要因の一つです。前節のソデミザと
の操業環境の違いが明確です。
  そして、オペレーターであるガルフ石油は、世界的メジャーとしての存在感も十分に発揮し、こ
の事業を推進する企業として米国法人ザイール・ガルフを設立しました。この会社が鉱業権を
除く全ての経済権益を持って、プロジェクトの実施に当り、探鉱・開発・生産について、できる限
りザイール側の干渉を直接受けないようにしました。特に売り上げのドル資金の管理につい
て、ザイール政府の直接の干渉を排除できたことは、このシステムのお陰であり、これがなけ
れば、経済のザイール化による混乱の影響を実質的に回避できなかったでしょう。
  また、ガルフは、現地スタッフの活動と生活の安全および便宜を図るため、コンパウンドと呼
ばれる外界から保護された敷地に、住居と事務所を設けていました。それが、キンシャサ在勤
者の業務遂行と安全の面で、大きなプラスとなりました。
   参加パートナーの変遷
  最後に付言しておきたいことは、従来から国際的石油業界においては、経営環境や経営戦
略に応じて、企業間の統合、合併、買収が繰り返されており、このプロジェクトについても数度
にわたりパートナーの変更がありました。まず、オペレーターであったガルフ石油は、1985年
3月にもう一つのメジャーであるシェブロンに統合されて、その傘下に入りましたので、このプロ
ジェクトのオペレーターもシェブロンに引き継がれました。さらに、シェブロンはテキサコをも吸
収合併したので、社名もシェブロン・テキサコと変わりました。そして、2004年7月にこのシェブ
ロン・テキサコはこのムアンダ沖油田事業をフランスの独立系石油会社であるペレンコに売却
しました。従って、現在のオペレーターは、このペレンコ社となっています。
  同様に、もう一つのパートナーであるコメトラ・グループもこのプロジェクトの権益を1985年4
月に米国のユノカルに売却し、さらに2005年8月にシェブロンがユノカルを買収したことによ
り、第3のパートナーはシェブロンとなっています。
また、帝石自身も2006年4月に、世界的規模での石油開発事業の競争激化の中での戦略展
開のために、国際石油開発(株)と経営統合することを決断し、2008年に合併することが決ま
っています。従って、この共同事業の現在のメンバーは、ペレンコ(50%)、国際石油開発帝石
(32.28%)、シェブロン(17.72%)の3社となっています。
  なお、1997年5月に国名は元のコンゴ民主共和国に戻されたので、社名などもザイールがコ
ンゴに戻されています。
  (以上)    



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