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第 12 章 ザイールに進出した日本企業
12−1
苦心惨憺の日本鉱業の銅鉱山開発
12−2
成功した帝國石油の石油開発

  モブツ政権時代に日本の民間企業がこの国に行った投資の中で次の2つのケースを取り上
げて見たいと思います。1つ目は非鉄・石油の日本鉱業(現在の新日鉱ホールディングス=以
後日鉱と略す)の銅鉱山開発であり、2つ目は帝国石油の石油開発です。前者は1983年に
すでに経営をザイール政府に譲渡して、事業から撤退してますが、後者は現在でも事業を継続
しています。この2つのプロジェクトの概略を述べると共に、モブツ物語の一巻としてこの開発
事業がモブツ政権の下で経験した諸問題に焦点を当ててみたいと思います。

   12−1 苦心惨憺の日本鉱業の銅鉱山開発
 @ プロジェクトの準備期間
 この銅鉱山開発は、民間企業のザイールへの投資プロジェクトとして最大のものであり、政府
援助によるマタディ橋の建設の約2倍の規模の資金が投入されされました。プロジェクトの準備
段階から考えると20年以上にわたる事業でしたが、11年余りの間生産活動を行った後、諸般
の事情から1983年にその事業をザイール政府に譲渡して、撤退を余儀なくされました。この
プロジェクトのために設立された現地法人ソデミコ(コンゴー鉱工業開発会社、国名の変更と共
にソデミザと改称。以後ソデミザと称する)への投入資本金を含めて、総投資額は720億円に
上りました。
 このような大規模な投資プロジェクトをアフリカの未知の国で敢えて行った背景には、その当
時の日本における「いざなぎ景気」と呼ばれた高度経済成長の中での銅の消費量の急速な増
加という問題がありました。昭和40年に入ってから、日本の銅の消費量は毎年、すざましい勢
いで増え続けていました。因みに昭和40年(1965年)の日本の銅需要は43万トンでしたが、
その5年後の昭和45年にはついに100万トンを超え、その翌年の1973年にはピークの120
万トンに達しました。
 このような状況に対応するため日鉱、住友金属鉱山、三井金属鉱業など産銅各社は昭和40
年代に、その溶錬能力を倍増する設備の拡張を行ってきました。問題はその原料となる銅精鉱
の調達でした。鉱山から採掘された銅鉱石は、通常細かい粒子に粉砕され、物理的処理で選
鉱され、銅の含有量を30%以上に高めた銅精鉱として輸入されます。しかし、このような急激
な需要の増大に対応するだけの銅精鉱を通常の世界のマーケットで調達することは極めて困
難になりました。そのため、産銅各社は融資買鉱や銅鉱山の自主開発という手段を講じるしか
ありませんでした。融資買鉱とは、新しい鉱山開発や既存鉱山の拡張や再開発のための資金
を提供し、その見返りとして、安定的に生産物の銅精鉱を引き取るというやり方です。自主開発
は読んで字のとおり、鉱業開発権を取得して、自ら単独で、あるいは数社で共同して鉱山を開
発することです。
 日鉱はすでに1960年代の初め頃からアフリカの非鉄資源に着目し、自主開発の可能性を
調査するために南アフリカのヨハネスブルグに事務所を開設していました。その中で特に、独
立したばかりのコンゴーのカタンガ州における開発の可能性に着目し、関係筋との接触を図っ
ていました。それは、ザンビア北部とこのカタンガ州にわたり、幅約50キロ、長さ500キロに及
ぶカッパー・ベルトと称される銅鉱石を埋蔵する鉱床が存在するからです。その埋蔵量は世界
の銅の推定埋蔵量の約23%に相当すると評価されており、その当時でザンビアとコンゴーだ
けで年間100万トン以上の銅を生産していました。
 しかしながら、コンゴーでは独立直後の政治的混乱やカタンガ州の分離独立などで、具体的
調査を行うには1965年まで待たねばなりませんでした。政治的混乱が収束の段階に入った
その年の9月に、日鉱は先ずカタンガ州政府から探鉱調査に関する合意を取り付けて、基礎的
な調査活動を開始しました。その2ヶ月後の1965年の11月、すでに第3章の3で述べたよう
に、モブツがクーデターで政権を掌握しました。モブツ大統領は、その翌年に州の自治権限を
大幅に制限し、強化な中央集権体制で国の統一と政情の安定化を図りました。それと共に、1
966年6月にはこれまでの鉱業コンセッションを根本的に見直し、鉱物資源についての主権を
ベルギーから取り戻すため、バカジカ法(*1)を制定しました。モブツとしては、旧宗主国のベル
ギー以外の欧米諸国や日本などから投資が行われることを積極的に歓迎する政策を打ち出す
一方で、資源ナショナリズムの動きに支えられ、対等な立場で外資を迎え入れようとしていまし
た。時あたかも、石油のOPECに相当する銅のCIPECが結成され、産銅国が結束して先進工
業国に圧力を掛けようとしていました。
 このため日鉱は、交渉の相手を州政府から中央政府に切り替え、1967年1月にはカタンガ
州における一般的調査探鉱許可書を鉱山省から取得しました。これに基づき、直ちに現地調
査団の派遣を開始し、それと平行して、このバカジカ法に基づく第1号の鉱業協定を結ぶべく、
鉱山省と鋭意交渉を重ねました。これがコンゴー政府にとっても最初のケースだけに、フランス
人顧問を交渉に参加させ、慎重を期しており、また、丁度その時期、第6章で述べたベルギー
資本のユニオン・ミニエールの国有化交渉が紛糾していたため、この日鉱の協定にはなかなか
決着がつきませんでした。この67年の9月にようやくこの国有化についてベルギー側と合意に
達したことで、日鉱の鉱業協定も最後の詰めに入り、その年の12月18日に日鉱代表とコンゴ
ー側の鉱山大臣および大蔵大臣の間で調印の運びとなりました。この鉱業協定の骨子は次の
通りです。
  (a) 合計36,000平方キロ(ほぼ9州に相当する)に上るシャバ州の2つの地域について排他
的探鉱権を日鉱に付与  する。探鉱結果に基づき5年ごとにこの面積の半分が削減される。
ただし、開発コンセッションに移行した面積につ  いては、その削減の対象から外す。
  (b) 開発のために合弁会社ソデミザを設立し、そのシェアーの割合を日本側85%、コンゴー
側15%とする。その1    5%は日本側が無償提供する。コンゴー側はその持ち分を50%
まで引き上げるオプションを5年間保有する。
  (c) 日本側は探鉱活動のために約4百万ドルの投資をコミットする。
  (d) 日本側はソデミザの生産物の全量を買い取る権利と義務を持つものとする。
  (e) 操業開始後5年間は、資機材の輸入、生産物の輸出に関する税、およびその他全ての租
税を免除する。6年目    から20年目までの期間も税制上の低減措置が講じられる。
  (f) その他、国外で発生した操業に必要な経費を支払うための外貨の送金、および日本人を
含む外国人の自由な出   入国を保証する。
  注目すべき要点は以上の通りですが、資源ナショナリズムが世界中で高揚していた環境の
中で、このような趣旨を盛り込んだ鉱業協定とその付属合意書を締結できたことは、日本側に
とっては満足すべき投資環境が確保されたことを意味します。特に、朝令暮改的な法令の改正
がたとえあったとしても、それに対応できるよう、法制上の安定性を少なくとも協定上では明文
化したこと、さらにこの協定以後にもっと投資側にとって有利な税制が付与された場合は、その
税制を選択する権利を日本側が持つことが明文化されました。この規程は、具体的にその権
利を援用する事態が発生しただけに、大きなメリットでした。また、コンゴー側の外貨不足の事
態が十分予測できただけに、そのための対応を十分協定の中で明記すると共に、別途、操業
開始と共にコンゴー中央銀行と交渉し、売上代金の75%を外貨でコンゴー国外に留保する制
度を承認してもらったことは、その後の財政・金融面での混乱にも拘わらず操業継続を可能に
した大きなポイントでもありました。
  この鉱業協定は1969年1月にモブツ大統領によって承認され、正式に発効しました。この協
定に基づきその4月には現地法人ソデミザも設立されました。また、日本においてもこのプロジ
ェクトを金融・技術・人材などあらゆる分野でサポートするために、コンゴー鉱山開発(株)(以後
便宜上「ザイール鉱山」と略称する)が設立され、日鉱は鉱業協定上の全ての権利と義務をこ
の「ザイール鉱山」に譲渡しました。そして、輸出入銀行や海外協力基金などの政府系の金融
機関からの融資を受けるために、日鉱だけでなく、住友金属鉱山、3井金属鉱業、東邦亜鉛な
ど他の非鉄企業もこの「ザイール鉱山」の株主(*2)としてプロジェクトに参加することになりまし
た。
   
 A ムソシとキンセンダにおける鉱山建設
  鉱山開発には探鉱活動が何よりも重要なことです。これによってどれだけの品位(*3)の鉱石
がどれだけ埋蔵されているかが確定されるからです。この探鉱については鉱業協定のコミット
額を遙かに超える42億円が開発段階で投入されました。その結果、平均品位3.6%の開発
対象となる埋蔵鉱量3,000万トンが確認されたムソシ鉱山の開発が決定され、1969年7月に
このムソシ地区の鉱業コンセッションがコンゴー政府によって承認されました。
  ムソシは、ルブンバシの南方約100キロのところに位置しており、ザンビアとの国境に接して
います。鉄道が鉱山の直ぐ近くを通っており、モザンビークのベイラ港、アンゴラのロビト港、南
アのダーバン港などと結ばれており、機材の輸入や生産物の積み出しには有利な環境にあり
ます。また、ザンビアとカタンガ州の鉱業地帯を結ぶ高圧送電線がムソシから8キロのところを
通っており、買電の設備投資も比較的小規模で済むことになりました。このサバンナの中の小
さな村に突如として鉱山施設と4千人に近い従業員の住宅、病院、学校、供給所などの福利施
設が建設されることになりました。日本人を中心とした幹部社員の住宅は少し離れたカスンバ
レッサに建てられました。
 鉱山建設はすでに1969年の4月から始まり、1972年の10月に予定通り生産開始を迎え
ました。開山式にはモブツ大統領も出席しました。モブツは、この鉱山開発が独立以後ベルギ
ー以外の新規参入者による投資案件だったことから、特に関心を寄せ、建設途上の1971年1
2月にも視察を行っています。
 建設のピーク時には日本人の数はソデミザ社員以外に下請け、医師、教師、厨房要員などを
含めると550人に上り、家族を入れると665名の及びました。結局、ムソシ鉱山の起業費総計
は323億円に上り、当初計画の20%増となりました。
 探鉱の時期にすでに、ムソシの西方約40キロにあるキンセンダに高品位の銅鉱床があるこ
とが分かっており、その後のボーリング探鉱により、開発対象鉱量737万トン、品位6%以上
の鉱床が確認されました。このキンセンダ地区についても1976年10月に鉱業コンセッション
が付与されました。キンセンダ鉱山の建設には約39億円が投入され、1977年10月に生産
が開始されました。このキンセンダの鉱石はトラック輸送でムソシに運ばれ、ムソシの鉱石に混
入して選鉱処理をされ、それによって全体の平均品位を引き上げることに寄与しました。
 生産物の銅精鉱はムソシからアンゴラとの国境の町ディロロ経由でアンゴラのロビト港までト
ータル2,199キロを鉄道輸送されました。

 B 予測できなかった操業期の諸問題
 準備段階においてできる限りの事前調査を行い、開発計画が練られました。それは単に探
鉱、採鉱、選鉱など技術的な面に限らず、政治、経済、保健衛生、地場産業、電力、運輸状況
など広範囲にわたるものでした。しかし実際、操業が開始されると、予期できなかった色々な問
題が出てきました。それは、生産面での技術的な問題、3千人以上に及んだザイール人従業員
の技能向上の問題などから経営環境の問題にいたるまで、多岐にわたるものです。ここでは生
産面での技術的な問題を除き、ソデミザの経営に深刻な影響を及ぼした問題を幾つか挙げて
みましょう。
  1.   ニクソン・ショックによる為替相場の変動: 未だ建設途上であった1971年8月に金とド
    ルの交換停止といういわゆるニクソン・ショックに見舞われ、これまで1ドル360円に固定
    されていた為替相場はそれ以降、変動制に移行しました。その年の12月にはスミソニアン
    合意が成立し、円は16.88%切り上げられ、1ドル308円の上下2.25%で変動するこ
    とになりました。その後も円高傾向は続き、事業から撤退した1983年には230円台にな
    っていました。このことは開発資金のほとんどを日本国内で調達し、その上でドルに交換し
    てソデミザに貸し付けてきた日本サイドとしては大変な為替差損が発生すること意味しま
    す。プロジェクト撤退までにこの為替差損額は120億円に達しました。
  2. ザイール側無償株式比率の変更: 操業を開始してから10ヶ月目の1973年6月に、ザ
    イール政府から鉱業協定上全く不条理な要請を受けました。それは、ザイール政府がソデ
    ミザの無償持ち株比率15%を20%に引き上げるようにと、一方的に通告してきたことで
    す。その理由は閣議においてソデミザのザイール側持ち分は他社と同じレベルにすべしと
    の結論が出されたというものでした。このような変更は鉱業協定上はあってはならないこと
    ですが、資源ナショナリズムが国際的に高揚してきたこともあり、この点を係争問題化する
    ことの是非を慎重に勘案した上で、今後の協定遵守の確約を取り付けた上で、協定の修
    正に応じました。その1973年末のソデミザの資本金は6百万ドルとなりましたので、当時
    の為替レート270円で計算しますと、日本側の提供した無償株の価額は3億2400万円
    となります。
  3. 経済のザイール化問題: すでに第8章の3でこの問題を取り上げましたが、このモブツの
    無謀な経済政策のためにソデミザも深刻な影響を受けました。これまで現地で調達してき
    たガソリン、重油、セメント、砂利、木材などがそれまでのように入らなくなり、自らその資材
    の確保に奔走したり、周辺国から輸入しなければならなくなったからです。もちろん調達の
    困難さは価格の上昇につながり、経営を圧迫しました。それに、主食のトウモロコシ粉の
    調達も難しくなり、南アなどから直接輸入して、社員に配給しなければならなくなりました。
    その他、これまでも供給所を通じて、最低必要限の食料品を会社が社員に供給してきまし
    たが、その調達先の商人がこれまでほとんどベルギー人、ギリシャ人、イタリア人、インド
    人など外国人であったため、この食料品の調達が非常に難しくなったのです。
  4.  トウモロコシ農園の開発要請: シャバ州(*4)の住民の主食はキンシャサなどと違ってミ
    ルミルと称するトウモロコシ粉を熱湯でこねて、柔らかい餅状にしたものです。その大切な
    ミルミルが不足し、州政府にとっても深刻な問題となってきました。そもそもは、人口増加に
    見合ったトウモロコシの国内での増産努力をなおざりにしたため、国内産のトウモロコシが
    不足するようになりました。経済のザイール化により、外国人によって経営されてきたトウ
    モロコシのプランテーションが荒廃したため、この不足量はさらに大きくなりました。その不
    足分はザンビア、ジンバブエなど周辺諸国からの輸入で補うしかありません。ところが外
    貨事情が悪化して、この輸入がこれまでのように続けられなくなったのです。モブツは経済
    のザイール化演説の中で、鉱山会社に農業開発にも取り組むよう要請していました。それ
    を受けて、1974年7月シャバ州知事はジェカミン、SNCZ(国有鉄道)、ソデミザなどの大
    手企業の代表を呼んで、各社自らトウモロコシ農園を開発し、自給自足体制を目指すよう
    命じ、ソデミザに対しては最終目標として1,000haの開墾を要請しました。農業について
    のノウハウが全くないソデミザとしては農業技術面と資金面で対応に苦慮し、州当局と折
    衝を続けましたが、最終的にトウモロコシ栽培に踏み切るしかありませんでした。1975年
    から撤退の1983年までキンセンダ鉱山の北側で650haの開墾と栽培を行いました。そ
    の間JICAの専門家の技術的支援を得て試験栽培を行い、資金的にもJICAから約1億円
    を借り入れました。しかし、この8年間で3,600トンの生産しかできず、生産性は目的の3
    分の1程度でした。資金収支的にも7億8,000万円の赤字でした。
  5.  ベンゲラ鉄道の閉鎖による輸出経路の変更: ベンゲラ鉄道とはシャバ州とアンゴラの国
    境上のディロロからアンゴラのロビト港までを結ぶ鉄道で、植民地時代にカタンガの鉱産
    物を運び出すために最も経済的な路線として、ユニオン・ミニエールの株主でもあるタンガ
    ニイカ・コンセッション・グループによって建設されたものです。1975年8月、アンゴラの独
    立を目指して戦ってきた2つの政治集団のUNITA(アンゴラ全面独立国民同盟)とMPLA
    (アンゴラ解放人民運動)の間の対立が激化して、内戦が勃発しました。前者は欧米諸国
    の支援を受けており、後者はソ連、キューバなどの支援を受けて、ある意味では米ソの代
    理戦争のようなものでもありました。この内戦勃発とともにこのベンゲラ鉄道の運行は停
    止しされ、ソデミザはその生産物の輸出ルートを絶たれてしまったのです。次善の策として
    すでに独立を果たしたモザンビークのベイラ港への輸送に切り替え、その1975年の10
    月にはベイラ港向けの鉄道輸送が再開されました。距離的にはロビトよりも324キロ遠く
    なりました。しかし、このベイラ・ルートも4ヶ月間しか続きませんでした。それはアパルトヘ
    イト問題が根底にあるローデシアとモザンビークとの対立で、この両国間の国境が1976
    年2月に閉鎖されてしまい、ムソシからザンビアとローデシアを経由した貨車がモザンビー
    クに入れなくなったからです。第3の積み出し港はもう南アフリカにしかありません。でも精
    鉱という特殊な、そして汚染の可能性のある貨物を受け入れてくれる港は簡単には見つ
    かりません。1976年5月にようやく南アのイーストロンドン港からの積み出しができるよう
    になり、ムソシから3,372キロという距離を鉄道輸送することになりました。ロビト・ルート
    より実に1,200キロも長くなりました。札幌と鹿児島を直線で結んだ距離の2倍強に相当
    します。輸送の時間的な問題だけでなく、運賃の面でも厳しい負担増となり、プロジェクト
    の継続に深刻な打撃を与えました。
  6. ソザコム問題: ソザコムとは「ザイール国営販売会社」の略称ですが、国営鉱業精錬会
    社であるジェカミンの生産物の販売権を取り上げて、モブツがその売り上げの外貨を直接
    管理するために設立した会社です。このソザコム構想は例の大統領の側近でモブツの利
    益しか考えることのできないセティ・ヤーレの入れ知恵に外なりません。1980年2月4日
    の演説でモブツは鉱山会社の販売条件に不明な点が多く、国家の外貨収支の改善に寄
    与していないことに鑑み、これからはソザコムが全ての鉱山会社の生産物の販売を担当
    する旨を明らかにしました。これを受けて、同2月21日大統領府、中央銀行、関係各省の
    代表を列席させた上で、ソザコムのルクサ総裁がソデミザの代表に対して、販売権をこれ
    からはソザコムが持つことになる旨を告げました。そのために、ソデミザと日本の「ザイー
    ル鉱山」の間に結ばれている販売契約を改定して、ソザコムがそこに介入することを趣旨
    とする3社間の販売に関する契約案を提示してきました。これに対して、ソデミザ側からこ
    の提案が鉱業協定の生産物販売に関する条項に違反しており、もしこのような協定の変
    更を強行するというのであれば、それはソデミザの経営の基盤を揺るがすもので、とうてい
    受け入れることはできないことを明らかにしました。その上で現在の販売契約の内容を説
    明して、それが公明正大なものであり、国際的にも何の問題もないことを強調しました。ザ
    イール政府は日本大使館にも協力を要請し、政府ベースで本件の決着をつけようとしまし
    た。日本大使館としては鉱業協定の遵守がソデミザ存続のための最重要課題であり、大
    使館が直接介入するべき問題ではないとの立場を明らかにしました。それから約2ヶ月に
    わたり、ルクサ総裁はベルギー、日本、米国などに赴き、鉱山会社の親元のマネジメント
    に直訴する手段にも出ましたが、具体的結論を得ることはできませんでした。その間ソデミ
    ザは、他社との連携を保ちつつ、ソザコムと鉱業省と交渉を続け、最終的には大統領令で
    このソザコムの販売権問題は原則論であり、政府の資本参加がマイノリティである鉱山会
    社については、その販売をソザコムがコントロールするということをはっきりさせ、幕引きに
    なりました。ソデミザについては従来どおりということで、一応の決着を見ましたが、政府の
    出資比率の大きい他の鉱山会社は販売権を取り上げられ、経営が困難になったところも
    出てきました。ジェカミンはこのソザコムの介入以後、操業のための資金繰りがつかなくな
    り、大幅減産に陥り、ザイール化によって総裁に任命されたウンバ氏は、1981年10月に
    再びベルギー人のクレム総裁にとって替わられます。
  7. 随伴鉱物と現地精錬問題: ジェカミンの産出する鉱石が銅だけでなく、コバルト、亜鉛、
    鉛、錫など有用鉱物を含有しているだけに、ソデミザの鉱石も同じようにこれらの銅以外
    の副産物を含んでいるのではないかと機会ある毎に疑われていました。ソデミザとして
    は、その都度政府当局と疑惑の表明者に対して、銅以外の鉱物の含有量が極めて低く、
    経済的に回収できないことを説明していました。必要な場合は分析のために銅精鉱のサ
    ンプルを提供してきました。特に、キンセンダの鉱石にはコバルトが多少含まれているた
    め、銅精鉱の完全分析をすれば、0.15〜0.17%レベルのコバルトが検出されます(鉱
    山省も独自に国立核研究開発センターで分析し、1,362ppmという含有量を確認してい
    ます)。この問題が国会で取り上げられた1979年の銅精鉱生産量82,000トンにこのパ
    ーセントを乗しますと理論的には130トンのコバルトが含まれていることになります。ただ
    し、このレベルでは経済的に回収できないのです。このことをザイール当局に完全に理解
    してもらわなければなりませんでした。シャバ紛争の後、コバルトの価格が暴騰しただけ
    に、ソデミザへの疑惑はなか収まりませんでした。逆に言えば、もしソデミザの鉱石がジェ
    カミン並みにリッチで随伴鉱物が入っていれば、ソデミザの財政状態はもっと楽なものであ
    ったでしょう。
C 難渋したソデミザの経営
  何はともあれ、ソデミザは内外に公約した1972年10月に生産を開始し、銅精鉱の出荷が始
まりました。しかし、この生産を予定どおりに開始するために計画以上の資金を投入し、さらに
坑内の採掘準備作業が十分できないまま生産段階に入らざるを得なくりました。採掘作業に必
要な人員もザイール人と日本人共に2倍にして生産量の確保に務めました。ザイール人の技
能の向上を図るのも大きな負担でした。そのために日本おけるようなきめ細かい採掘技術をそ
のままムソシ鉱山に適用するのに時間が掛かり、大型の坑内機械の能率も予定どおりに上が
りませんでした。必要な資機材が思うとおりに、必要な時期に入らないこともありました。一時期
は建設に必要なセメントが不足して、アフリカ以外を含めてあらゆる供給源を探し回らねばなり
ませんでした。
  このようなことを背景に1972年10月から1976年12月までの4年と3ヶ月間、採掘された
銅鉱石量は約612万トンで、計画の86%でした。その鉱石の品位は計画の3.6%をかなり下
回り、2.5%に留まりました。そのため選鉱処理して産出された銅精鉱に含有される銅量は1
32,000トン余りで、当初計画の銅量の58%に過ぎませんでした。1977年10月以降はキン
センダの鉱石が混入されるようになり、品位は改善され、生産も新しく策定された計画に沿って
行われるようになりました。
  この期間の銅価について見てみますと、生産開始後間もなく銅不足の時代は過ぎ、銅価低迷
の時代に入ってしまいました。第1次オイルショックや第4次中東戦争などのため、一時的には
高騰したこともありましたが、平均銅価はソデミザにとって、厳しいものでした。トン当たりの平均
銅価をその年の平均為替レートで円に換算すれば、1972年(3ヶ月のみ): 32.1万円、19
73年: 47.4万円、1974年: 57.6万円、1975年:36.5万円、1976年: 41.6万円と
なっています。因みに、2006年現在、銅価は高騰しており、70万〜80万円で推移していま
す。当時如何に銅価が低迷していたかが分かります。
  このように様々な困難が降りかかったため、生産開始の2年目から運転資金が不足すること
になりました。しかし、ソデミザ自身でその資金を調達することは、その信用度とカントリー・リス
クから不可能ですから、日本側からその不足運転資金を供給してもらうしかありませんでした。
プロジェクトを通じて、その額は170億円に及びました。設備投資とソデミザ資本金とこの運転
資金を合わせますと、このプロジェクトのために使われた資金総額は720億円に上りました。

 D プロジェクトからの撤退
  キンセンダの生産が開始されたにも拘わらず、銅価の低迷、長距離輸送費によるコスト高、予
想以上の円高の進行などで、ソデミザの収支は改善することができませんでした。1978年に
生産規模の縮小を含む抜本的な経営改善計画がスタートしましたが、その年の5月には第2次
シャバ紛争が勃発し、コルウェジで130人に及ぶ外国人が犠牲になりました。フランス・ベルギ
ー両国の軍事的介入で、反乱軍を国外に排除することができましたが、政治的にはモブツ体制
が根底から揺さぶりを掛けられたこと、軍事的にはザイール国軍の脆弱性が暴露され、脱走兵
が各地で治安上の不安を呼び起こしたことなどから、ザイールの企業活動に衝撃を与えまし
た。
  コルウェジはルブンバシから直線距離では240キロしか離れていないこともあり、この事件は
ソデミザにとっても大きな動揺を与えました。その年の8月には、治安状況の悪化もあり日本人
の家族全員が帰国しました。最悪のケースは全日本人従業員がムソシ・キンセンダからザンビ
アに脱出する計画も周到に用意されていました。
  その翌年の1979年に日鉱はこれ以上のプロジェクトを継続することは総合的に判断して無
理であるとの結論を出し、撤退方針を固めました。しかし、ソデミザに直接・間接的に依存して
生活している1万人に及ぶザイール人のことを考えれば、この撤退を慎重にとり進めることが
絶対に必要でした。さもなくば、暴動が起きる可能性もあり、日本人の生命の安全を期するた
めにも、この撤退計画を極秘裏に、しかも慎重にとり進めざるを得ませんでした。
  この1979年にはモブツ体制下では考えられなかった労働者のストライキが国営会社のジェ
カミンで起きました。これは労働運動の規制が事実上ジェカミン労働者により無視されたこと、コ
ルウェジ事件の後遺症に苦しむジェカミンがこれまでのように従業員の生活を確保できなくなっ
たことを意味します。そして、そのストライキの余波をソデミザも受けて、その年の4月にソデミ
ザでも初めてのストライキが起きました。
  ソデミザとしては、撤退できるまでの損失をできる限り少なくし、幹部社員のザイール化をこれ
までの計画以上に急いで進め、ザイール人に管理ポストを譲り渡すことができる体制を目指し
ました。操業維持のために必要な日本人の数を最小にするためです。
  一方でソデミザの事業を引き継いでくれる企業を探さねばなりませんでした。フランスの
BRGMがコンサルティングという名目で現地調査に入り、かなり詳細な経営分析を行いました
が、たまたまジスカール・デスタン大統領が選挙で敗れて、社会党のミッテラン政権に替わった
ことも影響して、引き継ぎについて前向きの結論は出ませんでした。その後、ジェカミンもソデミ
ザの買収に興味を示しましたが、ジェカミン自身の経営が危機的になったこともあり、この可能
性もなくなりました。
  結局、1982年12月、日本側としてこれ以上ソデミザを支援できない極限に来ていることをザ
イール政府に十分理解してもらい、ザイール政府が操業を続けられる状態でソデミザをを引き
取ってくれるよう、鉱山大臣に強く申し入れました。幸い、その時の鉱山大臣はその年の5月ま
でジェカミンの総裁の地位にあったウンバ氏であり、鉱山経営については最もよく理解できる人
物でした。日本側が背水の陣で交渉したことにより、ザイール側も事態の重大性を認識し、モブ
ツ大統領もこの経営譲渡にゴー・サインを出しました。
 1983年5月14日に日本側「ザイール鉱山」代表と鉱山大臣の間でソデミザ譲渡協定が調
印されました。これにより日本側は鉱業協定に基づく全ての権利と義務をザイール政府に譲渡
すること、日本側が保有していたソデミザの株式24万株を無償でザイール政府に譲渡するこ
と、日本側はソデミザに対する全債権を流動資産見合いの3千万ドルを除き、全て放棄するこ
となどが合意されました。この3千万ドルの債権については、無利息でザイール側に貸し付けら
れ、5年間の据え置き期間の後、10年賦で返済されることになりました。また、当面のソデミザ
操業継続に必要な運転資金として、日本側は2千万ドルを融資し、この貸付金は有利子とし、1
984年6月以降10年賦で返済されることになりました。日本側からザイール側への円満なる
譲渡を行うために、一部の日本人職員は1983年12月31日を期限として、残留することにな
りました。
 この協定の実施期日である6月10日にムソシにおいて譲渡式が執り行われ、鉱山大臣、証
券省副大臣、シャバ州知事代理などが出席しました。その際、ザイール政府は、日本代表たる
ザイール鉱山社長、それにソデミザ社長以下の日本人役員に対して、叙勲をもってこれまでの
ソデミザのザイールにおける社会・経済上の貢献に報いました。
 ザイール政府はその後、日本人社員にとって替わり、ソデミザの経営を担当する外国の企業
を国際入札で募集しました。フランスのBRGM、ベルギーのSGM、カナダのPBK(Phillips 
Barratt Kaiser Engineering Co. Ltd.) などが応札し、最終的にこのカナダのPBKが応札に成功
し、経営受託企業として選ばれました。これにより、日本人残留チームはこのPBKの要員に対
して業務を引き継ぐこととなりました。
 日本人の残留期限である1983年12月の時点で、日本人数は34名でしたが、PBKの22
名から成る受託チームの到着が遅れ、結局、1ヶ月の残留延長を受け入れざるを得なくなり、
全ての引き継ぎを終えて、最終組の日本人がザイールを離れたのは、1984年の1月末でし
た。操業を続けたままの、しかも運転資金を用意した上での、見事な撤退ぶりでした。
 数百人に及ぶ日本人が吹き出す汗を流し、血のにじむ努力を重ね、次々と出てくる困難と取
り組み、ここまでムソシとキンセンダの2つの鉱山を経営してきましたが、残念なことに未回収
投資金は約600億円に上りました。その11年間でソデミザが生産した銅精鉱の量は95万トン
に上り、メタルとしての銅量にすれば約36万トンになります。この量は国内有数の日立鉱山が
76年にわたり採掘した鉱石の含有銅量44万トンに及ばざること僅かに8万トンです。

 E ソデミザがザイールに残したもの
 サバンナの中の寒村に2つの鉱山を開発し、3千人以上の雇用を産み出し、その家族や関係
者をと合わせると1万人にも及ぶ町造りをしたことは一大事業でした。それに関連して、病院を
開設し、日本人医師と看護婦、それにヨーロッパ人医師やザイール人医師を擁し、1日400人
以上の診療活動行っていました。州当局の要請でソデミザ関係者だけでなく、一般の住民の診
療も受け付けていました。診察だけでなく、薬品の提供もしていたため、住民からは大変評価さ
れていました。噂を頼りに国内だけでなくザンビアからも国境を越えて診察に来る人々もたくさ
んいました。
 さらに、これだけの住民が集まれば、学校が必要になります。小学校と中学校の先生と学校
そのものの運営は国とカトリック・ミッションの手で行われましたが、校舎を始め全ての施設はソ
デミザが全て提供し、学校関係者の主要食料品と住宅などの面倒もすべてソデミザが行いまし
た。撤退の時点でのムソシの生徒数は小学校が3,600人(教師数:58人)、中学校が400人
(教師数:16人)でした。さらに、キンセンダにも生徒数860人の小学校を建てていました。
 経営が苦しかったために、ソデミザは生産開始から6年間は法人税を初めとする全ての租税
公課を免除されましたが、1979年から包括税(脚注)という形で納税を始め、1982年末まで
に8,833,000ドルの税金を支払いました。82年の平均為替レートで換算すると、約22億円と
なります。
 最後にザイール側がこのプロジェクトをどう見ていたかについて一言触れましょう。ソデミザの
財政状態が危機的なものであることは理解しながらも、日本側はその裏で買鉱条件など生産
物の引き取りや、随伴鉱物の利益などにより、実質的にはある程度の利益を確保しているので
はないかという議論が政府内部でも根強かったのです。ソデミザ批判の一例として、ムルンバ
証券大臣の意見を紹介しておきましょう。証券大臣はソデミザの20%の持ち分を管轄する立
場にあり、1981年当時ムルンバ大臣は、国連の開発途上国問題を検討する場において、鉱
業協定の問題を取り上げ、ソデミザについて次のように述べています。
  「ザイール国は、言わばソデミザに与えたコンセッションと引き替えに無償で株式を得たが、将
来配当を受けるまでは、実質的に何も得るものがない。種々の税制上の特典を考慮するとソデ
ミザからの税収入は期待できない。もちろん、ソデミザが操業を開始したことにより、サバンナ
の野原に近代的な経済社会が開かれ、学校、病院、社宅などが建設された、生活水準の向上
が図られたが、これらの利益はソデミザに与えられた特典に比べたら、僅かなものである。会
社は日本の産業のために銅精鉱という原料を提供する。この原料は精錬のために日本に輸出
されるが、これは実際上、ザイールおよびザイール人労働者の犠牲の上に立った経済活動、
雇用の移転を意味する。ムソシ・キンセンダの鉱山開発は3,000人以上のザイール人の雇用
を生んだが、これらの労働者のほとんどは未熟練労働者である。鉱業協定は上級幹部のアフ
リカ化の制度について何ら規定しておらず、従って会社の経営は長期にわたり外国人の手に
残るようになっている。彼らが会社の拡張方針、利益の分配などにつき決定を下すが、外国に
依存するところの多い鉱業セクターの性質上、会社の拡張は必ずしもザイール経済にプラスの
影響を与えることにはならず、 むしろ逆に、外国への依存度を高めることになる恐れがある」。

(脚注:)
*1: 第6章の2参照
*2: その他このプロジェクトに当初より参画していた日商岩井も参加。非鉄企業としてはその
後東邦亜鉛が撤退した   が、1974年に三菱金属と同和鉱業が参入。
*3: 鉱石中に含有されている銅量をパーセンテージで表示したもので、開発計画の経済計算
において重要なファクタ   ーをなすものである。
*4:1971年11月に国名と共に都市やその他の固有名詞をアフリカ化した際、カタンガ州はシ
ャバ州となった。


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12−2 成功した帝国石油の石油開発
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