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    18−4 国名は再びコンゴーに!
  (1)カビラがキンシャサに凱旋
  これはモブツ物語ですから、モブツなき後のことまで言及しませんが、モブツを権力の座から
引きずり下ろした人物として、ローラン・カビラのコンゴー民主共和国大統領としてのスタートの
様子だけは書いておきましょう。
  カビラは、5月17日にAFDL軍がキンシャサを制圧しても、慎重な行動をとり、ルブンバシに
留まっていました。別にぐずぐずしていた訳ではありませんが、自分が行く前に、先ずは安全の
確保と、それなりのお膳立てをしておきたかったのです。まず、AFDLの書記長であるD.ブゲ
ラを翌18日にキンシャサに送り込みました。ブゲラは、政治活動や安全を担当するいわば組
織の側近幹部を連れて、AFDLの本拠のあったルワンダの首都キガリからキンシャサに到着し
ました。ブゲラは、13−3.(3)でも触れたように、ツチ族系のコンゴー人で、すでにキヴ州北部
の行政と軍事を担当する知事役も兼ねていました。彼のキンシャサでの最初の仕事は、先ず
キンシャサの関係者にローラン・カビラがどんな意図でこれから政治をやっていくのかを説明
し、その人たちに安心感を持ってもらうことでした。
  その2日後の5月20日、これまでカビラのスポークスマン的な役割を果たしてきた、外務担
当のビジマ・カハラと経済担当のマワパンガをキンシャサに先行させました。そのて、カビラ自
身はその日の夜7時頃、特別ジェット機でルブンバシからキンシャサに密かに到着しました。A
FDL軍がキンシャサに入って3日目でしたが、未だ完全に治安を確保できていませんでしたの
で、慎重なカビラとしては、この到着を事前に公表することはありませんでした。彼を迎えたの
はブゲラ書記長に率いられるAFDLの少数幹部だけでした。カビラは、直ちにコンゴー河沿い
にある歴代の首相の公邸に入り、そこを拠点としました。
  カビラ大統領は先ず暫定政府の組閣に取り組み、22日にはその内容が発表されました。首
相と国防相は空席で、カビラ自身が兼務し、その他13名の大臣が任命されました。その内の9
名はAFDLの幹部で占め、UDPSから2名、残りの2名は左翼の愛国戦線から選ばれました。
AFDLはすでに政党活動を一定期間禁止することを主張していましたので、このAFDL以外か
ら選ばれた4名も、政府の統一を図るということで、AFDLに編入されることなり、1990年に始
められた複数政党制は、ここで再び崩されました。制度的には、モブツのMPR時代に逆戻りと
いうことです。
  内務と財政の主要ポストについた大臣はそれぞれ最近まで米国に留学しており、これまでの
コンゴーの政治のバックグラウンドが変化していくことを思わせる人事でした。コンゴーはフラン
ス・ベルギーを中心とするヨーロッパ大陸の影響から離れ、むしろ米英、アングロサクソンの影
響下に入ったと言えるでしょう。カビラの進撃をザイールにおけるフランス対アングロサクソンの
戦いと表現した記者もいました。
  UDPSから選ばれた2名の内、一人は初代の大統領カサヴブの娘で公職制度を担当し、も
う一人のバンドンバは農業を担当することになりました。チセケディは、閣僚の大半がAFDLか
ら選ばれたことに抗議する態度を直ぐにも表明し、その翌日から抗議のキャンペーンを始めま
すが、このチセケディの行動については次の節でまとめて書くことにします。
  カビラが大統領としてキンシャサにその本拠を構えたことから、国際社会は次々とこの新しい
政権を承認することになります。先ず、南アはこれまでカビラ政権の誕生に尽力してきただけ
に、18日にこの政権を承認する最初の国となりました。アメリカとイギリスも早々にカビラに祝
電を送ったほどですから、承認に問題はありませんでした。
  ただ、フランスはこれまでモブツを支援してきただけに、そして、「独裁者モブツを倒すのにも
う一人の独裁者は必要ない」とまで言い切っただけに(13−4.(2)参照)、新政権との関係が
良い訳はありません。さらにフランスは、EUと国連安保理の場でルワンダ・フツ族の虐殺問題
に関しAFDL軍の行動を糾弾してきたので、新政権とってフランスは少なくと友好国ではありま
せんでした。また、キンシャサの市民の間でもフランス人に対する反感は高まっていました。フ
ランス人はモブツ体制を支持してきたからには、彼らも掠奪者である。フランス人にはもういて
欲しくない。というのが街の人々の声でした。そんな雰囲気の中で、カビラがキンシャサに到着
した20日に事件が起きました。それは、フランスの民間人2名がリメテ地区の事務所に一緒に
いたところを銃で殺害されたのです。一人は建設会社の現地責任者であり、もう一人はプラス
ティック加工業の技術者でした。目撃者の証言によれば、侵入者は4名で、着ていた服装から
彼らは明らかに軍人であったとのことです。
  ブゲラ書記長は記者団にこの事件について訊ねられると、AFDLの評判を落とす目的でフラ
ンス人たちが仕組んだ事件ではないかと答えたそうです。AFDLのスポークスマンもこれと同じ
反応を示していました。
  5月24日、米国と英国の両大使はカビラ大統領と正式に会談する機会を与えられました。し
かし、フランス大使は接見を申し込んだにも拘わらず、カビラと会うこともできませんでした。パリ
の外務省は事態を憂慮して、本国より特使を派遣し、急遽フランス大使と共に外相に就任した
ばかりのカハラ氏と会談しました。その際、フランス側は自国民2名の殺害事件に言及し、新政
権に対して在留フランス人の安全の保証を要請しました。フランス大使がカビラと会談できたの
は6月に入ってからでした。
  因みに、日本の外務省はカビラ大統領が就任宣誓式を行った日の翌日、5月30日にカビラ
政権を承認しました。ただし、その承認には、「新大統領が国民的基盤の上で政治を行うこと、
経済の正常化を図ること」という要望が付されていました。

  (2)チセケディの政治生命は?
  17日のAFDLのコミュニケで予告された暫定救国政府のメンバーがどうなるのか、すでにそ
の組閣の議論が始まっていました。反モブツを貫いた政治家の入閣も噂され、チセケディも有
力なポストを与えらるのではとう情報も流されました。ルモンド紙のF.フリッチャー記者が22日
に現地から伝えた情報によれば、AFDLの安全担当のP.カボンゴは次のような事実を明らかに
したとのことです。すなわち、「チセケディには21日に発表される内閣で重要なポストを用意さ
れていたが、チセケディ自身がブゲラ書記長との会談を拒否し、このチセケディの入閣は実現
しなかった」ということです。それは、ブゲラ書記長がチセケディをAFDLの事務局となっている
ホテル・インターコンチネンタルに呼んで、会談しようとしました。しかし、チセケディは、モブツ体
制と闘った同志としてカビラを迎え、そのカビラと対等に話し合いたかったので、ブゲラ書記長な
ら当然彼の方が自分に会いに来るべきと思ったでしょう。
  AFDLはすでにチセケディを味方と考えていないことを明らかにしており、本当にチセケディ
を取り込んで、新しい政治を始めようと考えたわけではないでしょう。チセケディのキンシャサに
おける人気、そして、彼の背後にいるカサイ州の人々の重みを勘案して、一応彼にも配慮を行
ったことを明らかにしたかったのでは、と考えられます。欧米諸国もカビラに対して、チセケディ
を含む多数政党との連合内閣の成立を勧告していました。チセケディを支援してきた人々は、
彼が長年モブツに圧力を掛け、変革を仕掛け続けてきたからこそ、AFDLはザイール国民に抵
抗なく受け入れられたのだと信じていました。それだけに、人々はカビラとチセケディが早々に
衝突したことに大変ショックを受けました。
  カビラがキンシャサに到着して4日経ってみると、彼がやろうとしている政治の輪郭が市民に
も見えてきました。政党の活動を禁止し、国会議員選挙を2年間先送りし、AFDL一党に絞った
内閣をスタートさせ、人気のあるチセケディを疎外するということです。これでは、モブツを倒し
たヒーローとしてカビラを迎えようとしたキンシャサ市民も、何だという思いです。しかも、カビラを
取り巻く側近のほとんどがルワンダ系の人たちであることに危機感を募らせます。
  チセケディは、閣僚の大半がAFDLによって独占されたことに反発し、翌23日から直ちにU
DPSの闘士たちに抗議行動を起こすことを勧め、サボタージュを組織的に広げようとしました。
これに党員と多くの市民が同調して、市内の各地でデモ行進が始まりました。学生たちもこの
反カビラの行動に参加しました。このチセケディ支持者たちの叫びは次のようなものでした。
 「コンゴーをコンゴー人の手に!」、「カビラをルワンダ人から解放せよ!」、「カビラはコンゴー
を抹殺する者だ!彼は我々の国をルワンダ人に売った!」。
  このような市民の動きに対して、AFDLは、政治的示威行為を禁止し、新しいコンゴー軍の兵
士は威嚇発砲により、デモ行進する市民や学生たちを解散させます。逮捕されて、トラックで連
れ去られる人たちもいました。数名の死者も出ました。そして、6月に入ると早々に、チセケディ
は兵士たちによる弾圧を受けるようになります。悲運のチセケディは、モブツなき後、またもや
別の独裁者と闘わねばならなくなります。
  一方でAFDLを歓迎し、新しい政治体制に協力しようとするキンシャサの政治家もいました。
彼らも小規模ながらこのUDPSの動きに対抗して、カビラを歓迎するデモを行いました。この人
たちは、もちろんのこと、兵士たちから蹴散らされることはありませんでした。

  (3)カビラの大統領就任式典
  5月28日夜の国営テレビの放送で、カビラ自身が署名した大統領令が読み上げられまし
た。それは、5月17日以来カビラが事実上掌握している立法上の、行政上の、軍事上の全て
の権限を自らに付与するというものでした。モブツが1965年にクーデターを起こした時と全く
同じことです。
  自らの権限を法制化した上で、その翌日の29日、午後1時頃からカビラは大統領就任式典
を執り行いました。場所はモブツが「カマニョラ・スタジアム」と名付けていた場所です。もちろ
ん、AFDLが来てから直ぐ、「聖霊降臨祭の殉教者スタジアム」と呼び方が変えられました。中
国の援助によるこのスタジアムは、モブツによって4人の政治家が聖霊降臨祭の日に公開処
刑された場所に建てられているのです。(5−2.参照)
  スタジアムが溢れるほどとは言えませんが、4万人ぐらいの市民が集まってきました。カビラ
がモブツを倒して歴代3番目の大統領として宣誓を行うところを見たいからです。それはコンゴ
ー人の自然な反応でしょうが、沢山の人々が集まると喜怒哀楽を歌や踊りで表現し、興奮した
気持ちになるようです。そのきっかけを作るのはモブツ時代にアニマトゥールと呼ばれていたダ
ンサーたちです。この人たちが最後にモブツのために踊ったのは半年前の12月17日、ンジリ
空港でのことでした。モブツが治療のために長期のヨーロッパ滞在から帰って来た時です。そ
の同じアニマトゥールが今度はカビラのために「コンゴー国民の解放者、万歳」、「パパ・カビラ、
おめでとう、頑張って!」と歓声を上げていました。
  一方で学生たちはグループを作って座り、「チセケディは何処に!」と叫んで、興奮の余り観
客席からグラウンドに下りてくる者もいました。この規律破りの若者たちに警備の兵士たちが駆
けつけ、観客席に彼らを押し戻しました。
 先ずは貴賓席にブルンディのP.ブヨヤ大統領が案内されました。次いで、ルワンダのP.ビズィ
ムンガ大統領、ザンビアのF.チルバ大統領、ウガンダのY.ムセヴェニ大統領、アンゴラのドス・
サントス大統領が次々と着席しました。これら5人の国家元首は、程度の差こそあれ全てカビラ
とAFDLを支援してきた人たちです。その間にも、学生たちは「チセケディは何処に!」としつこく
叫び、その度に警備兵がその声の方に駈けて行きました。
  国歌が演奏されましたが、モブツ時代のものではなく、昔の「ラ・コンゴレーズ」でした。最高裁
判長の司会で、ローラン・カビラは、左手でコンゴー民主共和国の国旗(モブツ以前の国旗)を
掴み、右手を挙げて、国家元首としての宣誓を行いました。そして、演壇に上がり、演説を始め
ました。
  新大統領はモブツ体制下のザイールを、そして国民を分裂させてしまったた多党制度を痛烈
に非難しました。大統領選挙と国会議員選挙を1999年4月に行うことを宣言し、国外からのど
んな干渉があろうとも、この選挙の期日を遵守することを約束しました。国内政治については、
最優先事項として、国家機関を再構築すること、インフラを再整備すること、通貨の面で全国を
統一すること、失業者をなくすこと、そして鉱業の再建に再建を重点的におこなうこと、などを挙
げました。
  来賓の大統領も次々と祝辞を述べ、これからコンゴーとその周辺が占めるアフリカの中枢部
に、平和と安定が取り戻されることを喜びました。式典の後開かれた祝賀会場の外では、学生
たちが「チセケディは何処に!」と叫び続けていました。
  ローラン・カビラがそれからどんな政治を行ったか。この日彼が約束したことは、実現したの
か。国際社会はどんな不安を彼に抱いていたのか。ルワンダ難民の虐殺問題はどうなるの
か。カタンガの鉱業の再建を巡る権益争いは、アメリカ、カナダなどの企業家がすでにカビラと
契約を交わして、新しい局面を迎えようとしていました。そして、このローラン・カビラも2001年
1月に、暗殺により政権を奪われ、その後は彼の息子と言われているジョセフ・カビラの時代に
入ります。もちろん、大統領選挙の約束も果たさないままで。
  


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18−5 モブツ、亡命先のモロッコに死す
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