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    18−2 政権放棄を迫られるモブツ
  1997年の年が明けてから運命の5月17日まで、AFDL軍が進軍を続ける中で、モブツ・セ
セ・セコは、次第に身体を蝕む癌の治療と自らの政権維持のために、奔走を続けます。その
間、ルワンダからの百万を超える避難民の人道的問題解決のため、あるいはローラン・カビラ
政権を実現するため、あるいは第三の解決を求めて、様々な組織と人びとが政治・外交的なア
プローチを試みました。しかし、最後までモブツもカビラも妥協の姿勢を見せず、話し合いによる
政権移譲は実現しませんでした。国際社会はオー・ザイール州のキサンガニが陥落した時点
で、モブツの時代が終わったことを確信しました。そうなった以上、調停者たちが最後に願った
ことは、夥しい流血を見ることなく政権の交代が行われることでした。
  AFDL軍の疾風のような進撃とケンゲでの最後の抵抗で時間稼ぎをしようとするモブツの思
惑の中で、アフリカ諸国や欧米諸国の政治家たちとモブツ、さらにはカビラはどのような政治
的・外交的な動きを見せたのでしょうか。以下のような幾つかの局面からモブツ体制最後の4ヶ
月半を見てみましょう。

  (1)悪化する健康と政権への意欲
  モブツは、1996年の後半のほとんどをローザンヌとニースでの治療と療養に費やし、12月
17日にキンシャサに戻りました。その時点では、体力も幾分か回復し、歓迎のため集まった
人々にマイクを通して話しかける余裕も見せました。でも、予想以上の歓迎に感激して涙を流
す場面では、往事の独裁者としての威厳も精気も見られませんでした。  その後、年末年始の
ほとんどをバドリテの大統領宮殿で過ごし、ケニアのモイ大統領が前年末のナイロビにおける
アフリカ元首会議の結論を携えて、1月6日に調停役として来訪した時も、モブツはバドリテでこ
の訪問を受けました。この特使からモブツが受けた勧告は、もちろんのことカビラと直接話し合
うことでした。しかし、モブツは頑なにカビラとの交渉を拒否します。
  1月12日モブツはモナコに赴き、グレース妃病院に入院し、検査と治療を受けます。政治的
にも軍事的にも追い詰められた中で入院するということは、それなりに病状が悪化していると思
われます。ただ、政治的な配慮があるためか、側近が漏らすコメントは検査のための入院で、
健康状態には全く問題がないというものでした。
  1月末に緒方貞子国連難民高等弁務官がルワンダのザイールにいる難民問題を現地視察
する前に、モブツ大統領とニースで会談することを予定していましたが、健康状態が思わしくな
いとの理由で、この会談は間近になってキャンセルされました。国連関係者、人道的支援者た
ちの証言で、カビラの軍隊がザイールに難民として逃亡しているルワンダのフツ族難民を虐殺
しているという情報が送られてきており、この点では、カビラは国際社会の非難を厳しく受ける
立場にありました。その意味でも、モブツは緒方高等弁務官とは積極的に会いたかったのです
が。
  しかしながら、2月に入ってからモブツはモロッコへ飛び、国王ハッサン2世と会談し、2月7
日にキンシャサに戻りました。体調の悪化が噂される中で、モブツ大統領が自らラバトまで出掛
けたということは、それなりの理由があったからです。このモロッコ訪問は相当前から噂されて
おり、これまでのハッサン2世との個人的関係を頼りにして、何とかこの窮地を脱するために国
王から軍事援助の確約を取り付けたかったのです。あるいは、モブツは最悪のケース、すなわ
ち国を追われて亡命を余儀なくされる場合を考えて、その時の対応を相談したことも十分考え
られます。勿論、モブツは海外における不動産への投資の一つとして、ここラバトにも立派なヴ
ィラを持っています。
  モロッコの国王は、1977年の第一次シャバ紛争の際、フランスと協調してモブツを支えるた
め軍隊の派遣まで行っており、また、モブツとしてもその見返りにそれなりの配慮と物質的な寄
与をしてきました。しかし、そんなに親密なハッサン2世でも、この状況の中でのモブツ支援はで
きませんでした。結局、前向きの回答をもらえず、この日モブツはキンシャサに戻りました。
  そして、2週間後の21日には再びモナコのグレース妃病院に入院しました。そこで治療を受
けた後、カッップ・マルタンの自分のヴィラで療養を続けていましが、3月16日には再びグレー
ス妃病院に入院しました。
  前年の8月に手術を行ったスイス・ローザンヌの医師団によれば、手術の時点でモブツの前
立腺癌はすでに相当進行していて、術後に集中的な放射線治療を行なわざるを得なかったと
のことです。その放射線治療の後遺症が重く、多量の輸血を含む集中治療のために度々モナ
コの病院に入院しているとのことです。前立腺の癌病巣を強力な放射線で破壊することにより、
癌そのものは制圧できたものの、その後遺症として膀胱の疼痛と出血で苦しむことになったの
です。そして、その治療には高度の医療技術と設備、それに専門医師団が必要とのことです。
  それでも、モブツ大統領は3月21日にはキンシャサに戻りました。それだけ国内の事情も深
刻になってきたのです。キサンガニはすでに6日前に陥落し、次はルブンバシがターゲットに入
っていました。そして、足下に火が点いた問題は、前の週、ケンゴ首相が暫定国会から解任の
決議を突きつけられたことです。空港に出迎えに行ったケンゴ首相と政府要人たち、それに内
外の記者団、テレビ局のカメラなどは昨年末の帰国と同様の歓迎情景を予期していました。し
かし、モブツは特別にチャーターされた南ア航空のDC8機から何時まで経っても降りてきませ
ん。モブツはニースからの6時間以上のフライトで体力を消耗していたのです。そして、やつれ
て、髪の毛が抜け、頬がこけ落ちた姿を人々に見せたくなかったのです。護衛の兵士たちは指
示に従って、出迎えの人々を空港ビルの中の貴賓室に連れ戻しました。報道陣は、興奮気味
のDSPの兵士たちによって押し戻され、やって来た大統領の側近の者から、市内の“コロネ
ル・チャチ駐屯キャンプ”内にある大統領別邸でモブツ元帥を待つようにと告げられました。人
払いをした後、屋根付きのタラップが急遽用意され、窓を黒くした大統領用のキャデラックが直
接、機体の直ぐ下に横付けになりました。歓迎の人々もファンファーレもなく、モブツは夫人の
支えでよろめきながらタラップを降りて、車に乗り込みました。見た目にも痩せて、髪の毛は落
ちていました。
  報道陣は、取り急ぎ“コロネル・チャチ駐屯キャンプ”に駆けつけましたが、入り口は閉ざされ
ており、門衛の兵士たちは、何の命令も指示も受けておらず、そこに入ることが出来ませんでし
た。結局、この日モブツは記者団の前には姿を見せませんでした。
  そして、2日後の23日帰国後初めてその大統領別邸のテラスに出て、公衆の前に姿を見せ
ました。彼の横にはこの日南アのマンデラ大統領の親書を携えて来訪したムベキ副大統領の
姿が見えました。モブツは疲れた顔をしており、頬はこけて、テラスに出てくる時の足取りも覚
束ない様子でした。わずか数分の会見でしたが、次のように語りました。
「私はモブツという名の者である。私は、あなた方がしばしば書いているように、モブツの個人
的関心事やモブツの財産が心配で帰ってきたのではなく、ザイールにとって最高に重要な関心
事のために、すなわち我々の国民的統一と我々の国土の保全のために帰ってきたのである。」
(1997年3月25日付ルモンド紙記事)
  国民的和解について大統領が果たすべき役割について質問されると、2日以内にその点は
明らかにすると口を濁して、引き上げました。
  では、この時何故ムベキ副大統領がモブツの側にいたのでしょう。国連と米国がマンデラ大
統領のアフリカにおける存在感を重視して、マンデラにこのザイールの危機を回避するために
積極的な調停役を果たしてもらうことを期待していました。すでに2月19日には、そのための予
備的な協議がAFDL代表団とプレトリア政府との間で行われました。2月25日にはカビラ自身
が南アに到着し、ここで米国のムース・アフリカ担当国務次官補およびシャハヌン国連特別代
表と会談しました。その翌日、カビラはマンデラ大統領とも会談し、キンシャサ政府と自ら直接交
渉する可能性を明らかにしました。モブツ側がカビラとの交渉はあり得ないと言い続ける中で、
マンデラはAFDLとキンシャサ政府との話し合いが3月19日に行われるとの声明を出しまし
た。この時期での双方の歩み寄りは実現しませんでしたが、マンデラは南アの調停の下でモブ
ツがカビラと直接交渉できるよう両者に説得を続けていました。そのため、キンシャサに帰った
モブツを最初に訪問したのが、ムベキだったのです。
  また、帰国以来モブツと話す機会が得られなかったケンゴ首相もムベキ副大統領と共に大
統領別邸に入り、モブツと会談することができました。話題はもちろん議会が首相に突き付けた
辞任の決議についてでありましょう。その翌日の24日、ケンゴは大統領に辞表を提出しまし
た。これまで彼は自らの国籍の問題、経済政策の問題などで、厳しい批判に晒される中で首相
を続けてきましたが、モブツもこれ以上は無理と考えたのでしょう。
  モブツはケンゴ首相の辞任を受けて、国民的統一政府の任命を目指し、AFDLからも入閣を
呼び掛けます。しかし、カビラがこの時点でこのようなモブツの呼び掛けに応える訳がありませ
ん。カビラはすでに、暫定政府のメンバーは全員がモブツ政権に全く関わりのない自らの陣営
の人物とすることを明らかにしています。
  4月に入り2日にモブツは、ケンゴ首相の後任として野党連合が指名したチセケディを首相に
任命する大統領令に署名しました。その翌日、チセケディは記者会見において、国民会議が定
めた暫定的憲法以降にモブツが大統領権限で行ったこの憲法並びに国民議会の決議に対す
る改訂や変更を全て無効のものと宣言し、1992年8月に国民会議の決議に基づくチセケディ
政府の正統性を改め主張し、その時の組閣メンバーを基本的にそのまま引き継ぐことにしまし
た。ただし、この時点でのAFDLの軍事的勝利が決定的であることに鑑み、6つの閣僚ポストを
AFDLに提示しました。言い換えれば、チセケディは、自分はモブツに任命された首相ではな
い、1992年8月国民会議によって合法的に選出された首相であることを主張したかったので
す。そして、AFDLにもこの政府への参加を呼び掛けたわけです。カビラの反応はもちろん、ノ
ーでした。カビラにとっては、長年反モブツの旗を掲げてきたチセケディでさえ、モブツ主義に毒
された政界の一端を引きずった政治家だったのです。
  チセケディの首相の座は、またもや短命で終わることになります。崩壊寸前のモブツ政権で
すが、モブツはチセケディの宣言を許せず、4月9日にチセケディ首相を解任しました。代わり
に、ケンゴ内閣で国防大臣兼務で副首相のポストにあったリクリア将軍をモブツは首相に任命
しました。内外の世論は、カビラへの政権移譲の交渉ができるモブツとは一線を画した人物を
選ぶべきという意見でした。その意味で、国民議会の議長を務めたキサンガニの大司教である
モンセングオ師を推薦する声が強かったのです。最後までカビラとの取引を拒否したモブツとし
ては、この構想は受け入れることはできませんでした。もう選択の余地もなく、追い込まれたモ
ブツが選んだのが自分と同じ部族出身のリクリア将軍だったのです。この新政府発足と共に、
モブツは非常時事態宣言を行い、政治的集会を禁じました。結局このリクリア将軍はモブツが
任命した最後の首相となります。

  (2)調停役の国際社会の動き
  モブツ体制の崩壊と新政権の誕生は、周辺のアフリカ諸国のみならず、国連を始め、欧米
諸国にとっても大きな関心事であり、特にこれまでフランスがザイールと異常とも言えるほど外
交的にも、経済的にも深い関係にあっただけに、ポスト・モブツについては公式な場面は別とし
ても、舞台裏で激しいつば競り合いを演じていました。
  1月6日には、すでに前節で述べたようにケニアのモイ大統領が前年末のナイロビにおける
アフリカ諸国元首会議の結果を携えて、バドリテにモブツを訪れ、カビラと直接話し合って政権
の平和的移譲について交渉することを勧めました。
  その後、モブツは癌の治療のため、南仏に出掛けますが、ザイール政府としては、AFDLが
攻勢を強める中で、何とかして国際世論を引きつけて、カビラのAFDLを支援しているウガン
ダ、ルワンダ、ブルンディ3国を外交的に追い詰めようとしました。
  1月31日、カマンダ・ワ・カマンダ副首相兼外相は国連において、前年の10月以来提訴して
いたウガンダ、ルワンダ、ブルンディにょるザイール国領土の侵攻と主権の侵害に対する具体
的対応を要請します。カマンダは、安保理において新任のコフィ・アナン事務総長、それにルワ
ンダ難民とザイール問題の解決のため国連特別代表に任命されているモハメッド・シャハヌン
氏を含めた安保理メンバー国代表に、この3国の公然たる武力侵入により占拠された地域での
主権の回復を訴えます。そして、シャハヌン氏がエネルギッシュに推進してきた関係諸国による
現地での話し合いによる問題解決については、拒否することを明確にしました。このカマンダ外
相の3カ国非難に対し、3国はそれぞれ公式見解としてザイールの領土の侵害を否定します。
ただし、ウガンダは自国の反体制勢力がザイールの領土内を基地としており、それを追撃する
たザイール領内に入ったことは認めましたが、AFDLの兵力に荷担していることは否定しまし
た。さらに、この3国をこれまでサポートして来たアメリカ政府は、ザイールの隣国がザイールの
領土から自国の兵力を遠ざけるよう要請しました。特にこのウガンダ、ルワンダ、ブルンディを
名指して、この要請を行いました。そのことは、逆に言えば、アメリカもこの3国の軍事介入を否
定できなくなったようです。
  国連安保理もこの事態を深刻に受け止め、戦闘行為の停止、傭兵を含むあらゆる外国人兵
力の撤退を含む5項目の和平プランを2月18日に承認しました。AFDLの進撃が本格的にな
ると、国際的関心も高まり、3月3日にはヨハネ・パウロ2世教皇が、ウガンダ、ルワンダ、ブル
ンディとザイールとの紛争問題が平和に解決されるよう、関係各国へ呼び掛けを行いました。3
月5日、ザイール政府はこの国連の和平プランを受け入れる旨の声明を行いました。その3日
後、カビラも国連の和平プランを受け入れましたが、3月22日にはシャハノン国連特別代表が
提案した戦闘停止を拒否しました。それと同時にAFDLが支配している地域における政党活動
を禁止することを明らかにしました。これが非常事態下の措置なのか、カビラの基本的な考え
方なのか、アメリカを初めとする欧米諸国の危惧するところです。そして、アメリカ政府は、1月
末に引き続き、3月17日にウガンダ、ルワンダ、ブルンディ3国がAFDLに援助を与えていると
いう情報を重視し、遺憾の意を表明しました。
  ウガンダ、ルワンダ、ブルンディの現政権が何れもツチ族による軍事的制圧により誕生して
おり、これにアメリカが支援の手を差し伸べたことから、カビラのザイールにおける進撃にもアメ
リカの後押しがあるという見方が、フランスを初めとするヨーロッパ諸国で出てくるのは当然でし
ょう。ジャーナリズムでも「中部アフリカにおけるアメリカの陰謀」という表現が使われるようにな
りました。アメリカのある政府高官は、このような論評に対して次のように語っています。「我々
の友人であるヨーロッパの人々は信じ込んでいるようだが、カビラは我々が創り出した人物で
はないし、我々の傀儡でもない。我々は彼に何も与えていないし、また彼から引き出すものは
何もない。もし彼が我々の言うことに耳を傾けないならば、彼の進む方向は全く手の届かない
ものとなるだろう。」(1997年4月29日付ルモンド紙)
  そして、アメリカ政府は、モブツがキンシャサに戻った21日、キンシャサでの緊急事態に対処
するためブラザヴィルとガボンの首都リーブルヴィルに米軍兵士を配備していることを明らかに
しました。アメリカだけではありません。英国も、フランスも、ポルトガルも自国の兵士をブラザヴ
ィルやリーブルヴィルに派遣して、キンシャサで混乱が起きた場合は直ちに、2,000人に及ぶ
外国人滞在者の脱出を図る準備をしていました。その兵士の数は3,500人から4,000人と
報じられていました。
  話し合いによる政権移譲を目指して、調停を進めているものの、どんな事態に発展するの
か、不確定要素が余りにも大きいので、いざという時に備えての行動と思われます。もちろん第
一義的には、自国民の声明と財産の安全確保を目的としたものです。
 3月26日、トーゴーの首都ロメにおいて、ザイールの危機への対応を協議するためアフリカ統
一機構の元首会議が開かれました。モブツと話し合った南アのムベキ副大統領も参加しまし
た。そこでの議論の延長として、翌27日にナイジェリア、トーゴー、カメルーンの大統領、国連
のアナン事務総長、並びにキンシャサ政府代表とAFDL代表が初めて話し合いの場に着席し
ました。そして、この出席者の間で、対立する両当事者の直接交渉と戦闘停止を同時に行うこ
とにつき原則的な合意に達しました。
  ロメでの両当事者の初めての話し合いに基づき、4月6日、両当事者は南アのプレトリアに
場所を変えて、交渉を続けました。仲介者として南アのムベキ副大統領が同席し、3日間にわ
たって話し合いが続けられましたが、妥結には至りませんでした。それを受けて、4月10日カビ
ラは政権移譲に関するモブツとの直接会談の猶予期間を3日とする旨の最後通牒をモブツに
突き付けます。これに対してモブツは4月12日にこの最後通告を拒否しました。
  2月末に続き、4月16日カビラは再度南アにやって来て、マンデラ大統領と会談します。目
的は、マンデラ同席の下でモブツと政権の平和的移譲について直接会談することでした。モブ
ツは健康上の理由で南アでの会談には応じませんでした。カビラは、18日にルブンバシに戻
り、モブツが会談に応じない以上、AFDLの軍隊はキンシャサ陥落まで戦闘を続ける旨の声明
を出しました。
  4月28日、クリントン大統領の特使としてB.リチャードソン国連大使がキンシャサにやって来
ました。モブツがカビラと会って、政権移譲の交渉を行うよう説得するためでした。同大使はモブ
ツに対して、その財産、親族、およびモブツ一族についての保証を与えるので、大統領の座か
ら引退することを考えるよう要請しました。
  その翌29日、リチャードソン国連大使は、モブツがザイールの沖合で南アの船の上でカビラ
と会談することを明らかにしました。同大使はこの日ルブンバシに飛び、そこに滞在しているカ
ビラと会って、モブツとの交渉について打ち合わせを行いました。同時に、ワシントンでは国務
長官のスポークスマンが次のように語りました。「モブツの時代は終わったのであり、彼は現実
を真っ正面から受け止めなければならない。南ア当局は、両当事者が軍艦ウテニカの上で会う
ことを確認している。」
  4月30日、リチャードソン国連大使はまたキンシャサに戻り、モブツと会って補足的な打ち合
わせを行いました。そして、モブツ−カビラ会談は5月3日に行われることになりました。モブツ
は前日の2日にコンゴー(ブラザヴィル)の大西洋岸の町ポワント・ノワールに到着しました。一
方のカビラもルブンバシからアンゴラの首都ルアンダ経由で現地入りしました。

  (3)モブツとカビラの直接会談の実現
  国連代表、OAU代表、アメリカ政府、マンデラ大統領など調停者の最大の懸念は、モブツか
らカビラへの政権交代が武力によって行われることです。一人の独裁者が単に別の独裁者に
取って代わられるということを避けたいのです。ポスト・モブツの政治体制の中では、少なくとも
カビラの政治分子を中心にして、その他の政治分子もそれなりの場を与えられることが、話し合
いによってでき上がることを願っていました。
  5月4日、米国と南アなどの外交努力はようやく実を結び、モブツ大統領とカビラAFDL総裁
は、ポワント・ノワール沖に停泊している南アの軍艦ウテニカの艦上で、1時間半にわたり初め
ての直接会談に臨みました。会談には調停役として、マンデラ大統領とシャハヌン国連特別代
表(OAU代表を兼ねて)が同席しました。アメリカのリチャードソン特使は、カビラの要請で同席
できませんでした。
  モブツは、先ず停戦状態を確保して、その後、反乱勢力と交渉を行い、多数党制下の総選挙
を実施することを任務とする暫定政府当局を発足させ、それから自分の全ての権限を投票によ
って選ばれた後継者に引き継ぐという一連の政治スケジュールを提案しました。要するに、政
権を移譲する用意はあるが、それをカビラに直接渡す訳ではなく、民主的手続きを経て組織さ
れる暫定政権に引き継ぎ、その暫定政権がカビラと交渉を行うということです。
  これに対して、カビラは、自分の統率するAFDLがその暫定政府の中核となること、AFDL以
外のどの政党がその中核の下で責任を分担するかを決める権限はAFDLが持つこと、モブツ
大統領が直ちにその全ての権限を自分に移譲することを要求しました。これは無条件降伏に
他なりません。
  調停者の懸命の努力にも拘わらず、両当事者はその立場を譲ろうとせず、お互いに相手の
言い分を聞いたに留まりました。相手の言い分をお互いに持ち帰り、検討したうえで、それぞれ
の意見を遅くても10日以内にマンデラ大統領に伝えるという申し合わせが精一杯でした。そし
て、調停者の懸命の説得により、もう一度会談して、両者が歩み寄る可能性を求めることにな
りました。その期日については5月14日が予定されたようです。
  会談の後、マンデラはモブツとカビラ両脇に置いて、短時間ですが記者団に語りました。カビ
ラの表情は明るく、元気に輝いていたのに対し、モブツは病気のこともあるのでしょうか、暗く、
打ちひしがれていたと報じられました。記者団は両当事者に対して質問することを一切許され
ませんでした。
  モブツはキンシャサに戻っても、何もコメントを出しませんでしたが、カビラはルブンバシに帰
ると、記者団に対して調停者側が明らかにした点について、その一部を否定する発言をしまし
た。それは、停戦のことですが、カビラはこれまで戦闘行為の凍結についてはノーと言い続けて
おり、今回もこの点は変わらず、モブツの言う先ずは停戦という提案は問題外であると強調し
ました。モブツから反応が示される前に、AFDL軍がキンシャサに到達したら、モブツにとっては
残念だが、回答を待つまでもないということです。

 (4)ガボンのボンゴ大統領を頼って
  こうする間にも、AFDL軍はキンシャサにひしひしと迫ってきました。キンシャサの東側200
キロのケンゲがその攻防の最後の砦です。5月7日、このケンゲでザイール国軍とAFDL軍の
間で激しい戦闘が繰り広げられました。AFDL軍は約3000人の兵力をここに集中し、これに
ほぼ同数のアンゴラ正規軍が加わりました。一方でザイール国軍はDSP(大統領特殊師団)が
中心となり、それにアンゴラのUNITAの約1000名の精鋭兵士の支援を受けて、最後の抵抗
を見せます。国防大臣で参謀本部長のマヘレ将軍も自ら指揮をとり、ケンゲから西に向かって
進む道路を遮る3本の川を自然の要塞として防衛線を築きました。ここでできるだけ時間稼ぎ
をして、カビラとの交渉の継続を可能にしょうとします。UNITAがこの戦闘に加わった訳は、もち
ろんモブツがこれまで長年にわたり、UNITAを支援してくれたことへ報いる意味もありますが、
それ以上にサヴィンビ総裁にしても、もしモブツが政権を失えば、カビラと親密な関係のあるド
ス・サントスとの連携により、UNITAの将来は絶望的なものとなるので、ここはサヴィンビにとっ
ても生き延びを掛けた必死の戦であったのです。
  ケンゲで激しい戦闘が行われていた5月7日、モブツはガボンの首都リーブルヴィルに赴き
ます。ガボンのボンゴ大統領とはこれまで個人的にも非常に親しかったこともあり、到着したモ
ブツはボンゴに思わす、「疲れ果てた!」と漏らしたそうです。ボンゴ大統領はザイールとガボン
の他にコンゴー(ブラザヴィル)、中央アフリカ、チャド、赤道ギニアの6ヶ国の元首をこのリーブ
ルヴィルに集めて、ミニOUA元首会議を開き、ザイール危機への対応を検討します。ここで話
し合われた結論は、先ず、両当事者が直ちに戦闘行為を停止することでした。その上で、現在
空席となっているザイールの暫定議会の議長を早急に選出することでした。それは、その議長
にモンセングオ司教を選ぶことを想定したシナリオであり、この暫定議長が憲法の規定に従っ
て、大統領が職務を遂行できないときの代理元首となるのです。モンセングオ司教が議長に選
ばれれば、彼がカビラと交渉して、政権の交代を平和的に実現するというものです。
 注目されるもう一つの点は、この6ヶ国元首会議のコミュニケが次のことを確認していることで
す。すなわち、「モブツ大統領は、今後行われる大統領選出の国民投票において、健康上の理
由で立候補をしないことを宣言した」ということです。これは、引退宣言をモブツに受け入れやす
くするために採られた表現と思われます。どんな形であれ、モブツが自ら大統領の座を下りるこ
とを宣言したのは、初めてのことでしょう。

  (5)モブツのシラク大統領宛最後の書簡
  モブツはリーブルヴィルに3日間滞在して、5月10日にキンシャサに戻りました。そして、翌1
1日にフランスのシラク大統領宛に最後の書簡を送りました。フランスとはギスカール・デスタン
大統領時代から極めて親密な関係にあり、ミッテラン大統領の時代は別として、シラク大統領
の時代もそのような特殊な関係は続いてきました。勿論、1990年5月のルブンバシ事件以
降、公式にはフランスもザイール支援を中断せざるを得ませんでしたが、裏舞台ではフランス
の対アフリカの大きな枠の中で、ザイールを、そしてモブツを庇ってきました。この期になって
も、「ザイールの混乱を収拾できる人物はモブツ以外いない」と公言して憚らないフランス政府
高官もいました。多国籍軍の派遣によるザイールの危機回避という構想を打ち出したフランス
は、ヨーロッパ連合の中でも批判される始末でした。そんなフランスのシラク大統領にモブツの
遺書とも言うべき書簡を送りました。この最後の時点でのモブツの心境を知る手だてとなるの
で、その要旨をご紹介しましょう。短い書簡ですが、何よりもアメリカに対する恨みが滲み出た
文章です。

  ジャック・シラク・フランス共和国大統領閣下宛
 大統領殿
  先ず何よりも、10年以上にわたる非常に長い我々の友情の名において、貴殿と貴令夫人に
対し深甚なご挨拶を申し上げます。
  今日、重大な局面を前にして、諸般の状況は私にとって耐えられないほど酷いものとなってい
ます。それは先ず、国民に効果的に呼び掛けることができなくなった私の権限のレベルでのこ
とであり、次には、反乱軍のキンシャサへの進撃を阻止することが不可能となった軍事的なレ
ベルでのことです。反乱軍はいつ何時でもキンシャサに到達できる状況にあります。
  キンシャサについては、ここを無用な流血の場にしてしまうようなことは、私としてどうしても許
せません。
  正義なき戦争に私が直面していることを貴殿に改めて申し上げる必要もないでしょう。今日、
米国と英国は、南アフリカ、ウガンダ、ルワンダ、そしてアンゴラを介して、私の病弱を利して、私
を背中から刺し殺すために徒党の首領であるローラン・カビラを使っています。
  かって、米国は私の盟友であり、アンゴラ問題でどんなことが起きたか思い出して下さい。私
は近い将来に私の回顧録を出版する権利のあることを明らかにしておきます。出版されれば、
これまで想像もつかなかった事実を全世界が知ることになるでしょう。
  私の友である大統領殿、徒党の首領ローラン・カビラが疑わしき人物であり、ジェノサイドの責
任者であり、国家元首としてザイールを統治するに相応しくない人物であることを貴殿は私以
上によくご存じでしょう。私は彼が元首となることを阻止するためにできることを全てやりました。
しかし、彼の欧米のボスたち、特にここでは米国のことですが、彼等はカビラを支援し、彼を元
首の座に着けようとしています。
  アメリカが固執していることと私の健康状態が悪化し続けていることから、来る5月14日のウ
テニカ艦上での次回の会合において、私は権限をカビラに移譲する積もりであることを貴殿に
申し上げざるを得ません。
  神のご加護がザイールにありますように。
 共和国大統領 モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワザ・バンガ 

  シラク大統領が四面楚歌のモブツでも特別の配慮をしていたことは、13−4.(1)でも述べ
たとおりですが、シラクが公私にわたりモブツと深い関係にあったことは間違いことでしょう。そ
れが故にモブツは最後に自分の気持ちを伝えたい相手として、シラクを選んだのです。しかし、
もう援助を求める気にもなれない状況で、単に自分の立場を正当化し、予想もしなかった「徒党
の首領」カビラにやられた悔しさを吐露しています。そして、彼の背後にいると信じて止まないア
メリカとイギリスを恨むばかりか、この両国がアンゴラでUNITA勢力に軍事援助をしていたこと
を暴露すると脅しています。アンゴラでキューバとその背後にいるソ連に支えられているドス・サ
ントス政権に対抗するためUNITAを支援した米国は、モブツの協力を得て、ザイールの基地を
その軍事支援のために利用していたことは、情報通の人なら誰でも知っていたことです。8年前
にブッシュ大統領がホワイト・ハウスでモブツを歓迎し、「モブツ大統領の判断は非常に適切な
ものであり、我々は、問題の平和的な解決のために大統領が行っている努力を支持するもの
である。我々は大統領の指導的な役割に感謝し、大統領が我々の味方であることを誇りに思
い、非常に、非常に幸せに思う。」(1−1.参照)と誉めあげたのは、実はこのアンゴラ問題での
モブツの協力のことでした。クリントン政権に変わったとは言え、この同じアメリから見捨て去ら
れることに、モブツは怒ったのでしょうが、できることはこんな脅かしだけでした。
  モブツは、キンシャサを流血の場にしたくないと言っても、もう本気で戦う軍隊も持っていない
のですから、それは単に格好付けに過ぎません。アメリカとイギリスを恨んでも、かっては同胞
だった彼らが、何故自分を捨てたのかを考える余裕も分別もありませんでした。この短い書簡
のお陰で、モブツがカビラとの2回目の会談を前にどんな心情だったのかを伺い知ることができ
ます。

  (6)実現しなかったカビラとの再会談
  予定されていた5月14日のモブツ・カビラの再会談を実現すべく、南アの正副大統領を初め
とする調停者たちは両者の説得に奔走していました。すでに述べたように皆が一番恐れていた
ことは、武力によって政権交代が実現し、ザイール国内の全ての政治勢力がこの政治的転換
に何の発言の場もなく、新たな独裁政権ができることです。
  南アがソ連から購入した中古の軍用輸送船のウテニカ号はポワント・ノワールに停泊し、会
談の場を提供すべく、万端の用意が準備されていました。多くの報道陣も詰めかけていました
が、会談実現についてはどうも不安があるようでした。
  案の定、モブツは予定通りポワント・ノワールに到着し、会談に臨むつもりでいましたが、カビ
ラは先ず、会談の場について異議を唱えました。それは、ウテニカ号の停泊している場所がキ
ンシャサ政府側の立場にあるコンゴー(ブラザヴィル)領内であるので、これを領海外に停泊さ
せてもらわねば、安全の保証がないという主張でした。これは、キンシャサの武力制圧を目前
にして、話し合いによる決着に乗り気でないカビラの言い掛かりに過ぎませんでした。2週間来
港に停泊して、会談の準備をしてきた当局者としては、カビラの誠意を疑わざるを得ません。安
全については、万全の措置が採られ、海上はもとより、水中の警戒態勢も潜水夫を潜らすとい
う周到さでした。カビラに振り回されて疲れ果てた調停者側は、14日の夜カビラの要求を拒否
し、当地での会談が失敗に終わったことを明らかにしました。
  しかし、マンデラ大統領は諦めずに、カビラの説得を続けました。翌15日、マンデラは南アに
戻り、ケープタウンでカビラを迎えて、話し合いました。そこには国連特使とOUA代表を兼ねた
シャハヌンも同席しました。モブツはそこにメッセージを送り、妥協案を示します。「大統領選挙
に出馬しない」という言い方から、さらに直接的に「直ぐにも大統領の座を降りて、暫定議会が
選出するモンセングオ議長に権限を移譲する」というものです。そして、モンセングオ司教が元
首代理として、カビラと政権移譲の交渉をおこなうというシナリオでした。
  カビラはこのモブツの妥協案にも頑として応じようとしません。彼は、元首代理や調停者、国
連代表などを通じて権限を譲り受けるのではなく、モブツから直接、それを受け取りたいと主張
するのです。言い換えれば、モブツの無条件降伏を要求しているわけです。
  多数の関係者が両当事者の話し合いの実現にどんなに苦労し、奔走し回ったことでしょう。
でも、その努力も水泡と帰しました。ザイールの国民の平和と安全、そしてその幸せな生活へ
の復帰、ルワンダ難民の生命の安全、このような深刻な問題はそっちのけで、両当事者が最終
的には自分の名誉と権利を、そして突き詰めれば自分の利益を最優先にしているとしか思えな
い行動に、皆が心の奥で苦々しく思っていたに違いありません。
  その結果、現実にはAFDL軍のキンシャサ入りを見守るしかありませんでした。モブツは15
日から16日にかけての夜に、“コロネル・チャチ駐屯キャンプ”内の大統領別邸で、側近5人を
集めて、最後の対応を話し合いました。AFDL軍がキンシャサに後数十キロと迫って来たから
には、モブツはもう大統領代理を任命することもできず、逃げ出すしかありません。モブツは、
後を首相以下の側近に任せて、最後までAFDL軍に対抗して戦うよう指示して、16日の朝、と
りあえずバドリテ向けて飛び立ちました。
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18−3 32年間の独裁政治の終焉
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