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    17−4 モブツ大統領と国際社会の反応
 (1)モブツ大統領は癌と闘いながら!
  このようにローラン・カビラが反抗ののろしを上げている間、モブツ大統領はどうしていたので
しょう。この点を国際社会の反応と共に見てみましょう。
  カビラが舞台に姿を見せた時点から丁度1年前の1995年10月に、モブツは自分が国際社
会から完全にのけ者にされていることを嫌と言うほど知らされる出来事がありました。それは、
国連創立50周年の式典の時です。先ず、この式典への招待状が届いたのが式の10日前だ
ったと言うことです。国家元首に対しては常識外で、非礼に当たるショート・ノーティスでしょう。
それも、米国当局のヴィサ発給は大統領を含めて4人ということでした。前回1989年4月の国
連総会の時、記者団共々100名近い代表団で出掛け、ブッシュ大統領からホワイト・ハウスで
大歓迎を受けた際との違いは余りにも大きいでしょう。(第1章−1.参照) もっとも、CIA長官時
代から個人的な関係が深かったブッシュが去り、人権外交を重んじる民主党のクリントン時代
になっていたこともありますが。
  モブツ大統領は、米国との関係を何とか改善できればという思いで、ホワイト・ハウスにアプ
ローチしましたが、クリントン大統領と個別会談することもできず、政府の要人とのアポイントメ
ントもすべて断られました。モブツが会談できたのは、ブッシュ時代の元国務次官補で、ブッシ
ュの特使として何度かバドリテを訪れたこともあるヘルマン・コーヘンと、ミッテランに代わって仏
大統領の座についたシラク大統領だけという淋しい思いをしました。レセプションにおいても、こ
の時期に敢えてモブツに近づいて挨拶する要人は一人もいませんでした。モブツは自分が完
全に国際社会から疎まれていることを嫌と言うほど知らされました。(I P:195)
  この国連での経験は全く象徴的な出来事であり、モブツは自らが政治的に死に体の状況に
あることを何度となく思い知らされます。それに追い打ちを掛けるように、彼は癌という病気に
取り付かれます。米国人の専門医を長年抱え、スイスを初めヨーロッパの最高の医療機関で
治療を受けてきたのですが、癌を防ぐことができませんでした。モブツは、前立腺癌の治療のた
めスイスのローザンヌの病院で1996年2月に続いて、8月22日に2度目の手術を受けます。
余談ですが、そのために滞在したスイスのホテルに支払った費用が250万ドルに上ったそうで
す。
  その後11月4日、モブツは、体力回復のために南仏のニースの近くの村カップ・マルタンに
移り、そこにあるモブツのお気に入りのヴィラで12月中旬までを過ごしました。モブツは往時の
精悍さを失い、体力の低下は誰の目にも明らかでした。権力の象徴として手に持ち、群衆の歓
呼に応えるために振りかざしていた杖は、今や歩く時に身体を支えるために必要な杖となりま
した。とは言っても、彼の権力の座に対する執着心はいささかも衰えることはなく、カビラが登場
してきてからのザイールの危機を回避するために訪れる人々に対しても、強気の態度を最後ま
で崩さず、譲歩の気配を見せることはありませんでした。
  モブツはローラン・カビラという人物をよく知っていました。それだけに彼を見くびっていたよう
です。モブツは彼が自分に取って代わって、ザイールの大統領の座に着くとは夢にも考えなか
ったのです。モブツの娘婿ジャンセンは書いています:「モブツはカビラの過去を全て諳んじてい
て、何の脅威も覚えなかった。彼は軍人でもない。ウガンダ、ブルンディ、ルワンダで数々の謀
略に荷担していた単なる策略家であり、金のブローカーであるに過ぎない。彼に認められる唯
一の取り柄は、部族紛争、フツ族とツチ族の対立による種族闘争を誰よりもうまく利用し、それ
を自分の得とすることができる点である。」(I P:228)
  モブツ不在のキンシャサ政府はどう対応していたのでしょうか。ケンゴ・ワ・ドンド首相は10
月22日にルワンダとウガンダがザイール領土内の反乱分子を支援していることにつき、国連
に提訴しました。これに対して、国連とアフリカ統一機構は戦闘を直ちに停止することを呼び掛
け、和平のための国際会議の開催を提案し、その開催を準備するためフランス人のR.クレティ
アンが国連特使に任命されました。
  ザイールの国会(HCR−PT)は、10月31日、ケンゴ首相に対してルワンダ、ブルンディ、ウ
ガンダと外交関係を断絶することを強く求め、ルワンダからの移民でザイール国籍を持っている
人々を国軍、行政機関、国営企業から排除することを要請しました。その翌日、今度は、参謀
総本部長のエルキ将軍が記者会見において、キヴにおけるFAZの敗北の理由をケンゴ首相
が戦争の展開に必要な手段を供給することを拒否したことにあると声明しました。何故エルキ
将軍がこのような発言をしたかと言えば、ケンゴ首相の母親はツチ族系の人だからです。その
ために国軍は中央政府から十分なサポートをして貰えず、カビラの反乱勢力に敗れたと言い訳
をしたのです。エルキ将軍はその数日後、参謀総本部長の職を解任されました。
  母親だけでなく、父親もポーランド系のユダヤ人であるケンゴ・ワ・ドンドの血筋の問題は、こ
の後もますますキシャサにおいて物議をかもすことになります。それは、彼が国家財政立て直
しのため国際金融機関との関係を重視し、債務返済の履行を最重要課題とした政策を採った
ことにも関係します。その点でケンゴはドラスティックな政策を推し進め、そのしわ寄せが国内
政策に来ていたのです。
  11月2日キンシャサにあるルワンダとブルンディの大使公邸が群衆に襲われ、建物が破壊
され、略奪行為に晒されました。治安当局も見て、見知らぬ風をしていました。
  ここで、長年反モブツの立場を貫いてきたチセケディが、カビラの登場に対応するために動き
を見せます。彼は、政敵であるが病に苦しんでいる人のために祈るのは人間として当然のこと
であると述べて、9月に国民に対して、モブツ大統領のために共に祈ることを呼び掛けました。
これは、自分がモブツの後継者となるのが自然な流れであり、これまでの経歴と政治的信念か
らして自分はそれに相応しい人物であることを示したかったし、モブツ派を含む全国民的立場
から、このモブツのために祈ることを提案したのでしょう。
  11月21日、彼はカップ・マルタンに赴き、静養中のモブツと会見します。政権の交代の場合
は、自分が正統性のある後継者であることをモブツに認めてもらい、いわゆる政権の禅譲を狙
います。これがポスト・モブツを狙う競争相手を振り落とす最善の方法と思ったのでしょう。彼は
27日にキンシャサに戻り、支持者たちに向かって次のように語りました。「ニースにおいてモブ
ツ大統領と握手を交わしということは、国民的和解ができたということであり、大統領が帰国次
第、大きな変化が起きることになる。」
  ローラン・カビラの破竹の勢いにチセケディも焦らずにはいられなかったと思いますが、モブ
ツが内外ですでに信頼を失っていただけに、この時点での彼のモブツ詣ではマイナス以外の何
ものでもなかったようです。しかも、モブツはチセケディに言質を与えるほど窮地にいるとは思っ
ていませんし、独裁者として巻き返しを図ることしか考えていません。
  このチセケディのモブツ訪問は、フランスのキンシャサ駐在大使の強い薦めもあったようです
が、チセケディとしては、後になってこの行動が間違いであったことを自ら認めることになりま
す。ただ、フランスとしては、アメリカの支援するカビラが軍事力を増強して、全国制覇を目指し
ていることに危惧の念を持っていただけに、何とかしてポスト・モブツに影響力を持ち続けるた
めにチセケディを支えて、後継者にしたかったのです。
 モブツは12月17日にキンシャサに戻りますが、チセケディの期待していたことは何も起きま
せんでした。そして、モブツ一派の動員もあったと思いますが、ンセレ空港で特別機から降りた
モブツは、集まった群衆の歓声で迎えられ、大統領官邸に着いたモブツはマイクの前に立ち、
涙を流し、人々の歓迎を喜びました。しかし、モブツの帰国もザイールを巡る内外の状況を変え
ることには役立ちませんでした。
  とにかくモブツがキンシャサに帰ると、ケンゴ・ワ・ドンド首相の解任要請の声が日々に強ま
り、モブツは12月22日、野党連合のUSORAL()に対して48時間以内に組閣の指示を下しま
した。しかし、野党連合はこの要請に応えることができず、新しい政府を樹立することができま
せんでした。結局、時間切れとなり、ケンゴ・ワ・ドンドが再度、内閣を率いることになりました。こ
れでキンシャサの政界は年を越すことになります。

 (2) 国際社会の反応
  さて、国際社会はこのザイールの危機的状況をどう捉えていたのでしょうか。先ず、関係す
る列国の立場を見てから、国連を初めとする国際社会の対応を述べることにします。
  先ず、アメリカですが、冷戦時代終わった今となっては、悪政を続けるモブツに何の未練もあ
りませんでした。ブッシュ大統領が、アンゴラの内戦の仲介、調停役を何度が演じるモブツをホ
ワイト・ハウスに迎えて、称えたのは1989年のことです。その年にベルリンの壁が崩されたの
で、東西対立は終わったのです。その後、アメリカの政権もクリントンに代わり、そのアフリカ戦
略も全く違ったものになりました。反共産・社会主義はすでに過去のものであり、むしろイスラム
勢力の牽制ということが新たに戦略の大きなポイントとなっていました。クリントン政権は、アフ
リカ諸国の経済政策面でのパフォーマンスを重視し、その観点からパートナーの信頼性を見計
らっていたようです。その意味でウガンダのムセヴェニ大統領に支援の手を伸ばしていました。
同じようにこの大統領と協力してフツ族政権を倒したルワンダとブルンディのツチ族政権をアメ
リカは支援していました。その意味でカビラは条件付きでしょうがサポートの対象でした。カビラ
が登場した直後の11月にキンシャサ駐在の米国大使シンプソン氏は次のような辛辣な発言を
しています。(97年2月2日付ルモンド紙)
  「やザイールはもはや我々にとって関心のある国ではない。ザイールの問題はもはや戦略的
なものではない。冷戦の時代は終わりを告げている。アメリカは、秩序が保たれ、安定性と規律
のある国に関心を持っている。ザイールはもはや重要な国ではない。単に親欧米であるという
理由で独裁者を支持する時代ではない。」
  この米国大使の厳しい発言は12月3日の国務省スポークスマンの発言により、多少修正さ
れますが、だからと言って、この大使が叱責されたわけでもなく、その意味でアメリカが対ザイ
ール政策を見直したことは明らかでしょう。
  これに対してフランスは、1994年に暗殺されたハビアリマナ政権を支援し続けていただけ
に、その後のツチ族政権に対しては、距離を置く立場をとり、多国籍の軍事介入によるこの地
域の問題解決を主張していました。従って、ツチ族にサポートされているカビラは支援できませ
ん。独裁者モブツを倒すのにもう一人の別の独裁者はいらないとまで、フランス政府は声明し
ました。そして、カビラを巡っては、アメリカ、ベルギー、フランスなどが激しい調停役争いを演
じ、その交通整理が大変でした。それは、豊富な鉱業資源に関する鉱業権獲得の問題が絡ん
でいるだけに、ポスト・モブツのことで早くも裏舞台で壮絶な争いが始まったからです。カビラが
キンシャサ入りをする前からすでに鉱業権を巡る折衝はカビラを相手にして始まっていました。

  国連に関しては、すでにルワンダの難民問題の時点で、介入を要請されていましたが、13
章−1.ですでに触れたように、ソマリアでの介入で多くの問題を残した後だけに、武力介入は
これまで避けてきました。特にアメリカは、ブッシュ政権の最後に2万人の重装備の軍隊を国連
軍の中心をなすものとして、ソマリアに送り込みました。冷戦時代の代理戦争ならいざ知らず、
部族間の政権争いに介入するにしては常軌を逸したと言われても仕方がありません。米軍の
介入は結局、問題の本質的解決にならず、国連軍側にも多くの死傷者を出し、国連軍派遣と
いう問題に大きな禍根を残しました。その後だけに、クリントン政権はルワンダとザイールの問
題に関しては、非常に慎重な対応に終始していました。それが、ルワンダ難民の悲劇に繋がっ
たとも言えます。難民問題に関しては、国連難民高等弁務官である緒方氏が自ら現地入りを
し、平和維持軍として自衛隊も短期間ですが派遣されました。この悲劇に関する国際社会の責
任は何れ歴史の中で裁かれるべき問題でしょう。
  とにかく、100万人近い難民がザイールに流れ込み、部族対立による犠牲者、コレラの蔓延
による犠牲者が多数出たこともあり、その帰趨を巡って地域紛争が深刻化したことと併せて、国
連としてもこのザイールの国内情勢を無視できず、多国籍軍の介入について検討を開始しまし
た。
  もちろん、キンシャサ政府はすでに述べたように、10月22日にウガンダ、ルワンダ、ブルン
ディがザイールの主権を侵したことで国連に提訴し、調停役としてクレティアンが任命されまし
た。このクレティアン特使は11月4日ニースで静養中のモブツに会って、多国籍軍の介入に関
し話し合いを行いました。フランスを初めとするヨーロッパ諸国も軍事的介入が必要であるとの
声明を出しました。ルワンダ、ブルンディ、ウガンダは当然のこと、多国籍軍の介入には反対で
あり、カビラを支援する立場に立っていたアメリカも介入については態度を保留していました。し
かし、難民のルワンダへの帰国問題も深刻化しており、11月15日、安保理は、ザイールにお
いて多国籍軍が軍事行動を行うことを承認しました。
  国連とは別個にアフリカ首脳もザイールの危機的状況の解決に向けて、行動を開始しまし
た。カビラを直接支援するルワンダ、ブルンディ、ウガンダ、アンゴラの直接当事者を除く、ザン
ビア、タンザニア、ケニア、南アの国家元首は、11月5日ナイロビに集まり、協議を行いました。
目指すのは話し合いによる平和的解決です。モブツはこの5カ国の元首にメッセージを送り、カ
ビラ対応について支援を求めました。このアフリカ元首会議は、12月4日ブラザヴィルで、同1
7日にはナイロビで協議を行い、モブツ大統領がカビラ側と交渉を始めることを要望しました。
 
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