トップページへ  目次ページへ

    16−3 財政的破綻と市民の生活
  (1) 数千パーセントのインフレ率
国民会議が開かれ、アフター・モブツの政治のあり方について議論している最中でも、ザイール
の国家財政は破綻のどん底に落ち込み、経済的混乱は国民生活をますます苦境に追い込ん
でいました。
  すでに、1980年代の終わり頃から年間インフレ率は100%に近づいていました。1990年
代に入ると、IMFなどの国際機関からの締め付けが厳しく、国内的には緊縮財政を余儀なくさ
れました。鉱山事業を初め国の主要な生産活動が低迷を続けているのも拘わらず、一方で財
政赤字を新札の発行で補うため、インフレは天井知らずの高騰を続けることになりました。とに
かく、1980年代末から、1年ごとにインフレ率の桁数が1つずつ増えていったのです。野党UD
I(独立民主連合)のスポークスマンでもあるタンブエ・ムワンバは、余りにもひどい財政状況を嘆
いて、1992年5月16日、国民会議で次のように発言しています。
 「我が国の国家財政がこれほど乱れたことはかって見たこともない・・・。この4月だけでも財
政収支の赤字は13兆4千億ザイールに達しており、これは1〜3月の累計赤字15兆8千億ザ
イールに近い数字である。この赤字財政を補うために、政府当局は恒常的に新札の増発だけ
に頼っている。1990年の会計年度で予定されていた通貨発券額は500億ザイールであった
のに対して、実際はその10倍の5千億ザイールが発券された。それが1991年においては、
予定額の1兆ザイールに対して、その15倍の15兆億ザイールが発券された。移行期に入る
前の年間インフレ率は2桁台であったが、1990年においては265%ととなり、1991年には
4,228%と極めて重症状態となってしまった。」(HGC: P777 脚注:119)
  その後もインフレは収まる術を知らず、1993年には8,823%になり、これは最早経済や
財政の学問などが論評することのできない状況でしょう。1993年の10月に、モブツが任命し
ていたビリンドワ首相はザイール通貨を300万分の1に切り下げるデノミを行い、300万旧ザ
イールを1新ザイールに交換することにしました。しかし、十分な準備が整わず、この措置その
ものがチセケディを初めとするほとんどの全会派の批判を浴びることになり、カサイ州を初めと
する幾つかの経済ゾーンでは新券を拒否し、旧券を引き続き使用するという混乱が生じまし
た。100新ザイールで給料をもらったサラリーマンは3・4人がグループになり、商店街に出掛
けて、その札を崩して分けるしかありませんでした。新札が不足したことが物価の上昇にさらに
弾みを付け、その翌年の1994年にはインフレ率も5桁の1万パーセントの大台に乗り、これが
ピークになりました。
  では、何故こんなに財政支出は増えたのでしょうか。緊縮財政を国際金融機関に約束しなが
ら、何故湯水のごとくお金が流出したのでしょう。その理由の一つは国民会議にありました。モ
ブツはこれまで単一政党MPRの幹部とDSPに十分な手当を出していれば、安泰だったのです
が、複数政党を認めざるを得なくなたら、話は別でした。その多数政党に自分の意のままにな
るメンバーを確保し、モブツ体制に賛成の声を上げる相当数の「翼賛政党」を丸抱えで養わね
ばなりませんでした。この政治作戦には本当に大変な資金が必要でした。すでに1991年の初
めで、ザイール国立銀行に1,740億ザイールの負担を掛け、新しい政治指導者たちばかりで
なく、これまでそんなに面倒を見ることもなかった酋長たちまでに、350台のパジェロ車を配っ
たのです。この車を貰った人たちは、その後開催される国民会議に参加しなければならなくなっ
たのです。(C P:424)
  国民会議は民主化への道を切り開くために絶対に必要な政治プロセスだったのですが、そ
れは国にとって大変な負担となるイベントだったのです。モブツ体制側が送り込んだ人たちを含
め3千人以上の代表者に400から700ザイールの日当が支払われ、ンセレの人民宮殿内に
ホテル並みの宿泊施設が提供され、食事付き、慰安プログラム付きの環境でした。この宮殿を
護衛する兵士たちの月給が100ザイール程度であったことを考えると、まともな国家財政の運
営など考える余裕もない異常事態だったのでしょう。
  「このため、額面5万ザイールの紙幣が大至急ドイツで印刷され、その札束が空港に到着す
ると、そのうちの幾つかのケースだけが、国立銀行によって紙幣として記録されました。その他
のケースは、直ちに会議場であるンセレ宮殿に向けて運ばれ、束のままで代表者たちに配られ
ました。」(C P:429)

  (2) 生き延びるために市民は!
    こんな財政状態の中で一般市民はどのようにして暮らしを立てていたのでしょうか。一寸
した買い物をするにも、レストランで簡単に食事をするのにも大きめの袋一杯にお札を詰めて
行かなければなりませんでした。また、そんな大量の札束を一々数えてはいられませんので、
百枚単位で縛られた札束だけを数えて支払うしかありません。
  でも、ザイールだけでなく、アフリカの他の国々でも多かれ少なかれ、ザイールと同じような政
治、経済の混乱の中で苦しんでいる市民たちがたくさんいたのです。厳しい環境に対応して、イ
ンフォーマルな第二経済の中で生活の糧を得ていくアフリカ人のたくましさがあるのです。この
インフォーマル経済とはどんなことでしょうか。簡単に言いますと、政府の法令的な枠や統制の
外で、個人が自らの責任とリスクで行っている経済活動であり、場合によっては、非合法的な
要素や税関や出入国管理の規制や許認可を逃れた商業活動を含むものです。従って、国の
統計や記録には載らない経済活動です。要するに正式な国家財政や国家経済が破綻してしま
ったが故に、市民が自分たちの才覚で暮らすしかないという状況です。
  具体的に言えば、靴磨き、車の窓ふき、駐車している車の見張り、ガソリンやパンク修理の
現場サービス、時計・ラジオ・テレビなど家庭の日用品の修理、あらゆる種類の商品の路上販
売、自ら栽培した農産品の販売などから始まり、通常の取引ルートでない方法で手に入れた生
活用品、衣料品・貴金属類などの販売、金・ダイヤモンド・象牙・コーヒーなどの密輸出など国
境を越えての取引もあります。
  このインフォーマル経済を論じている「アフリカの選択」((ハ):P272)から次のような記述を引
用させてもらいます。
 「ザイールの実体経済」を調査した結果を1991年に発表したマクガフェイによれば、1980
年代半ばからザイールのインフォーマル経済は「輸送、建設、貿易、製造業などの分野でも大
きな発展をした」と見ており、「キンシャサで、インフォーマルな輸送システムが、公営バス企業
と同じ人数の乗客を運んだ・・・。一方でインフォーマルな建設部門によって、住居地域が70%
拡大した都市で、人口の3分の2にあたる人々の住宅が建設された」としています。1980年代
半ばにはILO(国際労働機関)の調査で、キンシャサのインフォーマル分野に、製造業や小売り
やサービスの企業が1万2千社あったと報告されています。
  1980年代後半はGDPの1人当たりの年間平均が200ドルを割るような数値が公式な統計
として発表されていますが、このマクガフェイの調査では、インフォーマル経済活動を考慮にい
れるならば、「ザイールの実体経済は公式なGDP(国内総生産)よりも3倍大きい」としていま
す。そう考えれば、ザイールで市民がどうして1ヶ月10数ドルの所得で暮らしていけるのかとい
う謎が解けそうです。
  また、このインフォーマル経済活動の中で、大きな役割を担っているは女性なのです。実は、
独立以前の植民地時代は、女性が家庭外で働くことは行政上許されていませんでした。従っ
て、洗濯、掃除、料理などどんな仕事でも家庭以外の場であれば、男性労働者を雇うしかなか
ったのです。この雇用の面で女性は決定的に差別されていたのです。しかし、それだけに女性
は家庭においては重要な労働力の担い手です。キンシャサのマーケットを訪れますと、女性た
ちのエネルギーが爆発しているような活気が感じられます。「アフリカにはマーケット・ママの長
い伝統がある」のです。
  このマーケットの商売はそもそも家庭企業が担ってきたもので、元来、女性の商いで、正式な
認可を受けたものでもなく、税金の対象にもならず、儲けがあれば、それは家計の足しにされ
たのです。キンシャサの人間科学研究センターのワル・エングンヅが1987年に3ヶ月に及び1
8人のマーケット・ママについて行った面接調査の結果を、上記の「アフリカの選択」は引用して
いますが、ここでもこのインフォーマル経済の実態を理解するために利用させてもらいます。
 「(18人の)実例は、女性のさまざまな所得や教育や、社会的地位の広がりの中から取り上げ
たものである。5人だけが正式な(商業の)許可を得ており、4人は家で非合法的に醸造したビ
ールを売っており、1人は市場の屋台店を貸していた。他の6人は市場の店をまた借りして賃
借料を払っていた。残りの2人の女性も、程度は違うものの非合法な商いを行っていた。一番
裕福な者は自分の家で、一番貧しい者は家の裏で台に並べて売っていた。このため彼女たち
は、役人に少しばかりの支払い(賄賂)をしなければならなかった。この内の12人が田舎の親
戚から生産物を貰っていたが、販売する物を親戚に頼っていたのは3人だけだった。もう一人
は、夫が軍にいて、農村で食糧を買い付け、軍や民間の飛行機でキンシャサに運んでいた。ビ
ールを醸造している以外の4人は、自分で作ったドーナツ、調理した魚や肉、清涼飲料水、パ
ン、工場で作ったものや盗み取った衣類を売っていた。農村からの産物の中には、しばしばコン
ゴー(ブラザヴィル)から国境を越えて来たものもあった。(中略)さらに遠く離れたベルギーの宝
石や香水が、スチュワーデスの友人の手助けも得て輸入されていた。パーニュ用のオランダの
ワックス生地が最も有利な輸入品だった。これは、品質の劣る国内産のワックス生地の販売を
促進するために、政府が外国製のワックス生地の輸入を禁じていたからである。」
  ただ残念なことに、このような女性のインフォーマル経済な経済活動が、家族にとって必ずし
もハッピーな結果をもたらしたものではないということです。その意味でも、調査した人たちが付
け加えていることは、このようなインフォーマル経済活動が決してポジティブな面だけでなく、む
しろその後の追跡調査では、家庭に不幸な結果を招いているケースが多いということです。第
一には、こんなにマーケット・ママが活躍しても、それが女性の地位の向上に何も役立たなかっ
たことです。このようなたくましい経済活動をしても、しょせん、裏の世界であり、結果的には現
金収入で生活費を賄えたに過ぎませんでした。それに、取締を逃れて非合法的な商行為を続
けるために、女性はある面では夫を裏切るような行為を余儀なくされたこともあり、これが家庭
崩壊にもつながることもあったのです。
  もう一つ、この猛烈なインフレ経済の中で市民が経済活動を続けられた訳があります。それ
はドルの闇取引のお陰です。両替はマーケットや街中のどこでもできます。このインフレの中で
商品を手中にすれば、大変な売り上げが得られます。その現金を直ぐ闇相場でドルの換金す
るのです。唯一の頼りにできる通貨はドルだったのです。従って、大きな取引はすべてドルをベ
ースにして行われました。商人たちは間違っても銀行などには行きません。行っても、仕方がな
いからです。正式な銀行で外貨を得られるのは、モブツ一族でしかなかったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップ頁へ   章のトップへ   次の頁へ

16−4 怒りを爆発させた市民
16−4 怒りを爆発させた市民