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第 15 章 危機的状況の中でモブツは!
15−1
民主化を迫られるモブツ
15−2
半歩前進・一歩後退
15−3
ルブンバシ大学の虐殺事件
15−4
政党結成への動き

   15−1 民主化を迫られるモブツ
  モブツ大統領がその独裁体制の変革を最初に迫られたのは、1977年の第一次シャバ紛争
の後でした。その年の11月15日、MPRの党大会を久々に開催し、モブツ自身が「ザイールの
悪」につ いて正直に話し(10−2.参照)、大統領としての大権の一部を国会に返上することを
表明しました。これに基づき国会議員が大臣や裁判官を尋問し、監査する権限を与えられまし
た。しかし、国会議員の調査や尋問の矛先がモブツ一族にまで及ぶことになると、モブツは独
裁者としての権力を再び振るい、この改革を骨抜きにし、刃向かう者を捕らえて、その声を封じ
てしまいました。モブツは一見譲歩をする言動をしながらも、本質的には独裁者の地位を譲る
気持ちは毛頭無かったのです。
  ただ、一度発生した体制改革の波は、もう防ぎようもなく、その勢力は次第に大きなうねりと
なっていきます。そして、1980年代を通じて、あるいは政治の舞台上で、あるいは舞台裏で、
モブツ体制への挑戦の闘いは続けられました。
  ここで国内ではなく、国際情勢の変化がモブツにとり致命的な影響を及ぼすことになります。
それは、80年代半ばからソ連のゴルバチョフが取り組みだしたペレストロイカが、国内だけでな
く、国際的にも大きな波紋を呼び起こしたことです。そして80年代の最後にザイールにとってと
いうより、アフリカにとって決定的変化をもたらす、変化が生じます。それは、冷戦時代の終焉と
いうことです。
  1989年のベルリンの壁の崩壊、そしてルーマニアの独裁者チャウセスクの民衆による処刑
とつながります。モブツはこの年の12月にブカレストで起きたこの酷い処刑の場面をテレビで
見て、非常にショックを受けました。自分の運命の最悪のケースを見せつけられたような気がし
たのでしょう。モブツはチャウセスク大統領と親しい関係にあっただけに、この民主化の波が自
分にもひたひたと押し寄せてくるのを感じたに違いありません。この映像を放映したことで、サコ
ンビ情報大臣を狂気のような激しさで叱りつけたそうです。(1−4.参照) そして、それから数週
間後、モブツは国民との対話を本気でやる決心をしました。
  とにかく、ベルリンの壁の崩壊と共に冷戦時代は終わりました。冷戦が故に東西両陣営は、
アフリカに競って梃子入れをしてきたのですから、これでアフリカは、あっという間に世界戦略の
場からはじき出されてしまいました。これは、東西対立の中でのザイールのジェオ・ポリティカル
な立場を武器にしていたモブツにとっては、致命的な出来事でした。独立当時、CIAが何故モブ
ツをバックアップして、この国のトップに押し上げたかを思えば、容易に理解できることでしょう。
  年が明けて、1990年1月14日にモブツは国民と親しく対話を行うことを仰々しく声明しまし
た。それは、国の全体的な組織、構造について国民がどんな要望を持っているかを知るためと
いうことでした。全ての階層の国民が、そしてあらゆる分野の職場の人々がそれぞれの意見、
苦悩、希望を述べてもよいということです。その国民の声に対処するため、「国民との対話運動
事務局」が立ち上げられ、その総責任者としては、モブツの側近であり公安警察のトップを務め
たこともあるモコロ・ワ・ポンボが任命されました。
  モブツは「自分が国民一人一人と話せば、国民が困っていることを受け止めて上げられる。
悪いのはあくまでMPRであり、心ない行政官であり、悪徳商人である」と言いたかったのでしょ
う。しかし、モブツは現実がそんなに生やさしいものではないことを思い知らされます。国民の
本音が直接耳に入ってきたのです。それは、MPRの廃止のみならず、モブツ自身の辞任を口
にする国民との対話でした。MPRを含むモブツ体制そのもの、行政機関とそのパフォーマン
ス、銀行を初めとする経済・財政部門に対する批判、そして何よりも生活苦と教育・医療分野に
おける悲惨な状況についの陳情、などを内容とする文書がこの事務局に寄せられました。その
数は6,128件に上り、その内容はモブツの辞任、現憲法の廃棄と国民投票による新憲法の
制定、MPRの解体、複数政党制の容認、国民会議の開催などなどを提唱するものでした。批
判と言うより、モブツ体制そのものを否定するものも多々ありました。教会がモブツに宛てたメモ
ランダム(10−4.参照)もその一つです。
  モブツは、全国を回り、直接民衆の声を聞くというキャンペーンを開始しました。その最初の
地キサンガニでの会合が終わる寸前に、一人の母親が立ち上がり、5千ザイール(その時点で
1ドル相当)の紙幣を大統領夫人のボビ・ラダワに差し延べて、彼女に向かって叫びました。「こ
れが私の亭主が1ヶ月に稼ぐものです。そうです、親愛なる大統領夫人!これで何が買える
か、買い物をしてみてください・・・。」(C P:411)
  また、モブツ体制の下で最も冷遇されているカサイ州のブジマイにモブツが到着した際、ある
婦人グループは、歌と踊りでモブツを迎えましたが、その歌詞は「パパ、パパ、私たちに食べる
ものを下さい。それは、私たちが腹ぺこだからよ。パパ、貴方がこの町を出て行く時、電気を止
めないように頼んでね!」と言うものでした。(同上)そして文書による要望書は用意したテーブ
ルに山積みとなりました。
対話集会の行脚を続けていくうちに、このような厳しい批判を容赦なく浴びせられるようになり、
モブツの顔から余裕のある笑みは消えていきました。もう、モブツは挨拶をするだけで、後の苦
情聞きの役は事務局長のモコロに任せっぱなしになりました。権勢を恣にし、絶対的な服従を
可能にしていた自分でないことを嫌と言うほど知らされたのです。
  ただし、モブツは内外の報道陣に対しては、このような厳しい事実も、秘密裏に回覧されてい
る反モブツの文書も無視して、「誰も私の辞任を要求していないし、そのような趣旨の文書は一
つも読んだことがない」と話しています。(C P:413) でも、本当は自分の権威が地に落ちてしま
ったことを誰よりもよく知っていた筈です。
各省庁もモブツ体制の下で困難な状況に追い込まれており、何とか事態改善を求めて、それ
ぞれが要望書を出しました。その代表的な例として外務省の幹部及び職員がまとめた3月22
日付の文書を読んでみますと、不正義の横行している現状を訴え、モブツ体制の完全な、そし
て徹底した否定と新しい国家組織の構築を提案しています。長文の文書なので、主要部分を
箇条書きでまとめてみます。
  • 現憲法は、MPRと国家を一体化し、大統領一人に全ての権力が永遠に集中することにし
    ており、民主化の推進ためには、直ちに廃棄されるべきものである。
  • 党の中央委員会、政治局、国会、内閣などなどの機関は全く権限が与えられておらず、た
    だ権力者の決定を仰ぐばかりの御用機関となっている。失業者を雇用して、経費を肥大化
    させているに過ぎない。
  • 国家機関には大統領の出身地であるエカトゥール州の人が余りにも多数登用されており、
    部族主義の弊害を是正すべきである。例えば、党中央委員会のメンバーは19%、内閣の
    27%、国軍の将校の46%、大使ポストの34%、などなどが大統領と同じングバンディ族
    の者で占められている。このような部族主義、依怙贔屓は止めるべきである。
  • 司法当局が大統領の権限下に置かれていることにより、社会正義と人権が長年にわたり
    踏みにじられ、法律が遵守されていない。
  • MPRの要職を解かれた人物、秘密警察と公安関係者を外交ポストに大量に送り込むこと
    により、外交政策の遂行と正常な外交関係の維持に多大な支障が生じ、しかも経費は異
    常に膨張している。
  • 政治的にも、経済的にもザイールの現体制は、国内外で起きていることに対応できる状態
    にない。その実状は悲劇的なものである。従って、この混乱から抜け出すために、次のよ
    うな提案を行う。
  • 憲法と国家的単一政党を先ず廃棄、解散する。そして、そこに由来する次の役職と組織並
    びのその地位にある人を解職、解散する。先ず、大統領、国会、中央委員会、政治局、立
    法評議会、司法評議会、などなど。そして、先ず国民会議を開催し、新しい憲法を制定し、
    国民投票に掛けて、採択する。2から3つの政党の設立し、国民の人権を尊重して、国民
    が自由に自分の党を選ぶ権利を保障する。
  • 経済的には、海外の銀行にその資産を預けている全ての高位高官は、その全てを国内に
    送金すること。大統領は海外の不動産全てを売却し、その売上金を国内に送金すること。
    これまで国家予算の収入に取り込まれなかった、鉱山会社の利益を国庫に入れること。
    大統領の内外への旅行を減らし、それに使われる莫大な金額を節減すること。
  • 公務員の給与を現在の物価の中で生活できるレベルに見直すこと。大統領を初めとする
    国家の要職について、その給与を公表すべきである。大統領は給与の他に大統領職費と
    して年間40億ザイールが支払われているが、これを3,500万ザイール/年とすること
    (人口×1Zの計算)。
  • 省内及び在外公館で、外交官としての教育・研修を受けていない人物が、大統領の贔屓
    で登用されるという人事上の乱脈を正さなければならない(例えば、特殊な理由で運転手
    から一等書記官に昇格するなど)。外交官の給与が館長により流用されることがあるの
    で、それが個人に確実に送金されるシステムを確立すること。
  以上のような内容の要望書ですが、逆にこの文章を読むと、現在外務省がどんな問題で悩
んでいたのかが分かります。国家の根幹に関わることから、女性職員の身分に関する問題ま
で、多岐にわたる要望書となっています。その上でモブツには、その地位から下りてもらうことを
明確に要求しています。そして、この文書を締めくくる最後の文は次のようなものです。
  「これまで述べてきたことに鑑み、上に掲げる外務省の男女有志の提唱を受け入れるなら
ば、あなたは、ルーマニアのチャウセスク大統領のような運命に陥ることを避けられるであろ
う。」
  これは、もし我々の提案を受け入れないなら、我々はルーマニアのように蜂起しますよ、とい
う脅しに他なりません。この文書は、大統領に握りつぶされないよう、また、国際的支援が得ら
れるように、コピーは海外にも送られました。

   15−2 半歩前進・一歩後退
  国民との対話と要望書の提出が一段落した3月23日、モブツは大統領専用船上で米国の
べーカー国務長官と会談します。同長官はナミビアの独立式典に出席した機会を利用して、ザ
イールにも立ち寄ったのでした。長官自らがわざわざやって来た目的は、アメリカ政府として、
議会の現状からして軍事援助を続けることが難しくなっていることを伝え、さらに、MPR=国家
という一党独裁制を止めるよう要請することでした。
  僅か1年前の1989年4月にモブツがホワイトハウスでブッシュ大統領に迎えられた時、ブッ
シュは次のような歓迎の言葉を述べていたのに、これは何という変わり様でしょうか。
 「ザイールはアメリカの最も古い友好国の一つであり、その大統領であるモブツ大統領はアフ
リカの真っ直中で我々が持っている最も価値ある友人である。モブツ大統領の判断は非常に
適切なものであり、我々は、問題の平和的な解決のために大統領が行っている努力を支持す
るものである。」
ブッシュはCIAの長官だった頃から、モブツと親密な関係にあり、自宅にモブツ一家を泊めるほ
ど関係を持っていました。従って、このような歓迎の言葉を述べるのは十分理解できますし、
「問題の平和的解決」という部分はアンゴラ問題のことを指しています。でも、この1年間に国際
舞台で起きたことは、そんな個人的関係も吹き飛ばしてしまうほど、大きな歴史の転換を意味し
たものでした。
  モブツはアメリカから見放され、ベルギーから、フランスからも同様に支援のパイプを絶たれ
ることになります。これでモブツは国内と国外の両面からの圧力の下で、これまでの独裁政治
をドラスティックに変えない限り、自らの地位を維持することができないと、判断しました。
  第1章の4.でも触れたように、モブツは4という数字に非常に執着し、それが自分に幸運を
呼び込むものであることを信じていました。それが故に4月24日という日を選び、MPRの発祥
の地であるンセレに党と政府の要人、並びに全国各地の代表を集め、憲法を含む国家機関と
政治組織の大改革を目指すことを告げました。もちろん内外の報道陣もこの集会に呼ばれて
いました。
  モブツは先ず、飛行機から自転車や丸木船まであらゆる交通手段を利用して、全国を巡り、
多くの国民から熱烈な歓迎を受けたことに感謝し、その国民と親しく対話を行い、要望書を出し
てもらったことを強調しました。そして、自らが国家の政治的混乱を収拾し、国家的統一と国土
の安全をこの四半世紀の間確保できたことを国民は評価をしており、私への信頼を持ち続けて
いると自負しました。自分に対する否定的な声については、ただ、これがマスコミの攪乱と画策
によるものであり、こんなことに惑わされない国民に敬意を表すると述べました。
  では、その演説の要旨を紹介しましょう。この後、モブツはいろいろと自分の延命工作をやり
ますが、何はともあれ、この時点ではこれまでのモブツ政治を大きく転換し、ザイール化の中な
どで評判の悪かった点は撤回して、元通りにすることを認めました。
  《演説内容の要約》
 「国民との対話運動事務局」が整理した要望書は6,128通に上り、その内の116通は海外
在住の国民のものである。全体の87%がMPRとその組織の徹底的な改革を、そして13%が
複数政党制を提案している。その他、国民が最も関心を抱いている問題は次の4つに要約され
る。
(1)司法、行政、立法という伝統的な3権の地位を回復させること。
(2)国家レベル、およびその他のレベルでの立法議会が持つ管轄権を強化すること。
(3)中央および地方政府の立法府に対する責任を明確にすること。
(4)国家の中央及び地方機関、軍隊、憲兵隊、公安サービスなどを非政治化し、これらを根本
的に改革し、個人の基   本的権利を踏みにじらないようにすること。
 このような国民の声を踏まえて、要約すると次のような改革を行う。
  • MPRを含めて3政党からなる複数政党政治を導入する。従って、国の最高の意志決定機
    関としてのMPRは廃止し、政党と国家を切り離す。しかし、独立直後の複数政党制の犯し
    た過ちを繰り返さないように、3つの政党は全国的な規模で国民の意思を代表しなければ
    ならず、それが部族主義、地域主義、分離主義と結びつくものであってはならない。
  • 国家元首としての自分については、国民の深い信頼に応えるため、私は元首として国家
    を率いていくことを続ける。ただし、国家元首は3つの政党の上に立ち、その最終的な仲裁
    を行う者となる。従って元首は、政府の論評や干渉の対象とはならず、国家の独立、国土
    の保全など国家の存続に関わる最後の砦となるものである。どんな混乱が起きても、元首
    はその上のレベルにいて、全ての人々の共通の拠り所、すなわち人々を統合する者、調
    停する者、統一する者となる。よって、本日をもって、私はMPRの党首を辞任する。MPR
    は自らその党首をこれから選ぶものとする。
  • 司法、行政、立法の3権の地位を回復する。国家の中央及び地方機関、軍隊、憲兵隊、公
    安サービスなどを非政治化する。
  • 本日から1991年4月30日までの1年間をこの大変革の過渡期とし、その間の行政を担
    当する暫定政府を設けるため、首相を直ちに任命する。この期間に第3共和制の基本を
    なす新憲法を制定する。その案文を策定する委員会を設置し、最終的に新憲法を国民投
    票に掛ける。
  • より自由で、より普遍性のある世界を目指すことを決めたからには、ザイール化と共に採
    用した呼称、名称は、誤解を招く恐れがあるので、元の呼称を使ってもよいことにする。例
    えば、シトワイアン、シトワイエンヌ(男性と女性への呼び掛けの言葉)は、ムッシュー、マ
    ダム、マドモワゼルとしてもよい。政治組織の名称も同様である。例えば、人民評議会は
    国民議会と呼んでもよい。
  以上がこの日の演説で打ち出した民主化へ向けた改革の概要ですが、モブツは高らかに、
本日から第3共和制がスタートすると宣言しました。でも、どこまで本気で改革に取り組む覚悟
をしていたのかは疑問です。モブツがこれまで国民を苦しめた独裁政治の弊害、乱脈を極める
経済・財政運営が自ら蒔いた種によるものであるということに、十分な反省がないからです。そ
れは、国民との対話の中で、十分と言うほど指摘されたことですが。国家と国民が苦況に陥っ
たのは、私が国家の安全と政治的安定をこの25年間守り続けたにも拘わらず、行政府が、国
会が、MPRが責任ある指導と行動をとらなかったことによると、モブツは語るのです。
  だから、複数政党制にしても、MPRの改革にしても、自分はこれからその混乱の埒外にあっ
て、上から裁定者として行動する。混乱はあなたたちの責任であり、あなたたちで解決できない
なら、私が乗り出すということです。しかも、元首としての私は批判されたり、論評される対象で
はないとまで言っています。
  しかも、その日からMPRの総裁の職を退くとしたことは、憲法上モブツの権限はこの総裁と
してのものであり、正に国家の最高責任に空白ができてしまうことになります。実は、この演説
の事前打ち合わせでは、党の宣伝活動班が、辞任の言葉と共に声を上げてモブツの総裁への
再任を願い、これに参加者の多数が唱和するように仕組まれていたとのことです。(C P:415)
しかしながら、「私はMPRの職を辞することにする」という命運を賭けた言葉を発した時、何事
も起きなかったのです。実は現場の運動員たちのこの指示が伝えられておらず、何の反応も起
きず、一瞬沈黙が会場を襲い、モブツは狼狽し、涙を流しました。モブツは、裏切られたと感じ、
大きな権力の源であるMPRの職を自分が軽率に手放してしまったことに気付いたのです。(同
上 P:416)
  この演説は内外から民主化の第一歩として、大いに歓迎されました。政治的自由について
は、「誰でも自分の信念に基づいて自分の政党を選ぶ権利を保障する」と述べましたが、報道
の自由について直接の発言はありませんでした。しかし、「本当の意味での民主的な社会を建
設するという我々の意志が、如何なる手段によっても害されてはならない」と述べたことで十分
でしょう。堰を切ったように新しい政党作りの動きが活発になり、特に、これまで口を封じられて
きたジャーナリズムは、その翌日から活動を開始し、新しい新聞、雑誌が続々と誕生しました。
これまですでに存在していた日刊紙、週刊誌は概ねモブツ体制よりの姿勢、いわば御用新聞
の役割を続けますが、新しく創刊されたものは概ね、体制批判の傾向が強く、その呼称もオー
タンティシテに対する反動として、フランス語の名前のものがほとんどでした。曰く、「ラ・スメーヌ
(週間)」、「ル・ファール(灯台)」、曰く、「ヌーヴェル・ランテルヌ(新しいランタン)」、「ラ・ヴェリテ
(真実)」などなど。
  モブツが本当に民主化を考えていたのかどうか、それが分かるのに時間は掛かりませんで
した。先ず、24日の集会が側近によって準備されたシナリオ通りに行かなかったこと、報道陣
の自由な発言が怒濤のように押し寄せたこと、新しい政党作りの動きに体制側の人々までが
乗り遅れまいと動き出したこと、などなどにモブツは危機感と恐怖を覚えました。また、取り巻き
の側近も自分たちの特権的地位が揺れ出すのを見て黙っていられず、モブツにブレーキを踏
むよう迫ります。
  それから9日後の5月3日、モブツは国会議員を集めた場で、釈明と逆噴射のボタンを押しま
す。色々と美辞麗句は述べますが、言いたかったことは次のような点です。
  「4月24日の私の演説以来、何という喧噪か。何と間違った解釈がなされているのか。私が
政権を掌握する以前の政治的混乱を思わせるような分裂が、国民の間に起きている。従って、
誤解を招かないため、第3共和制の過渡期がどのように展開するのか、もっと明確に説明した
い。
  先ず、過渡期の第1期は来年の4月末までで、それが6段階に分けられ、それぞれの段階で
新しい国家組織をスタートさせるために現行憲法および法令の改正を行い、新憲法の制定を
準備する。その中の一つとして、政党を規制する法律が制定され、それに基づき政党の設立認
可が出される。
  過渡期の第2期は来年の5月以降であり、この期間に種々の選挙や投票が行われる。先ず
第一には大統領選挙である。私の任期は1991年12月4日までであり、その期日前に新しい
任期のための大統領選挙が行われる。その後で、国会議員、地方議会の議員の選挙が行わ
れる。
  従って、まだ複数政党は存在しておらず、如何なる政治集団も集会や、デモ行為を行うこと
は許されない。ましてや、暫定政府の組閣人事をこのような政治集団に相談するなど、あり得
ないことである。
暫定政府が第一に取り組まねばならないことは、経済・社会情勢の立て直しであり、国民との
対話においても、これを国民が最も緊急なこととして望んでいた。政治改革がこの国民の福祉
増進の妨げとなるようなことがあってはならない。
  私は国民投票により合法的に大統領として7年間の信任を得ているのであり、この信任に最
後まで応えなくてはならない。暫定期間においては国民の皆が秩序の維持と遵法の精神をも
って、冷静にそれぞれの職務に励んでもらわねばならない。」
 このモブツの発言は、民主化に踏みだした政治の流れをまた堰き止めようとするもので、政治
をどう変えるかはこれから自分が決めるのであり、早合点して大騒ぎをするな、という警告でし
た。そして、現憲法に基づき合法的に持っている大統領特権を捨てるつもりはないということで
す。
  これでは、真の政治改革を期待していた国民と国際世論は失望するしかありません。暫定政
府のメンバーはこれまでのMPRの党員に限ると解される発言であり、政治改革も大切だが、
何よりも緊急を要するのは経済、社会情勢の立て直しであると言っているからです。
  さらにモブツは、これだけでは安心しておれず、DSP(大統領護衛特別師団)や公安サービ
スを使って、5月11日にルブンバシ大学でモブツ体制に批判的な学生に鉄拳を振り落としま
す。それはモブツ政治の最大の汚点になるほどの血なまぐさい殺戮事件であり、これによりモ
ブツは国際社会から決定的な烙印を押されることになります。このルブンバシ事件については
次の節で改めて述べます。
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15−3 ルブンバシ大学の虐殺事件
15−3 ルブンバシ大学の虐殺事件