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第16 章 民主化の闘いとモブツの抵抗
16−1
ついに開催された国民(主権)会議
  (1)会議開催までの経緯      (2)国民(主権)会議で審議された
こと
16−2
次々と交替させられる首相(1)〜(6)
16−3
財政的破綻と市民の生活
  (1)数千パーセントのインフレ率     (2)生き延びるために市
民は! 
16−4
怒りを爆発させた市民
  (1)頻発する暴動・略奪事件     (2)大規模な兵士の反乱
  (3)犠牲となったカトリック教徒   (4) 再び暴動を起こした兵士たち
16−5
2つの政府と2つの議会

    16−1 ついに開催された国民(主権)会議
 (1)会議開催までの経緯
  モブツは1990年4月24日から6月30日までの間に3度にわたり、民主化と政治構造の変
革について演説する機会を設けましたが、この国民会議の開催については一言も触れません
でした。しかし、すでに全国民との対話の中でも、モブツはこの国民会議の開催を国民が熱望
していることは十分承知していました。当時ザイールだけでなく、ベナンやコンゴー(ブラザヴィ
ル)などのアフリカ諸国においても政治体制が硬直、老化し、腐敗が蔓延していたため、国民の
圧力でこの種の国民会議が開かれ、それが政権交代に繋がった例もあり、アフリカにおける一
つの政治の大きな流れとなっていました。
  モブツが民主化への指針を打ち出した1週間後の5月1日、ザイールの9つの野党の代表た
ちがブラッセルに集まり、ザイールの政治的、経済的変革の筋道をつけるべき国民会議を開催
することが焦眉の急であることに衆議一決しました。しかし、モブツ側はこの国民会議の開催に
は積極的でなく、色々な手段を講じて、引き延ばしを図ります。ごうを煮やしたチセケディは10
月の記者会見で、モブツの一日も早い退場を求め、モブツ抜きの国民会議を訴えました。11
月2日野党連合は再び共同声明を発表し、新しい政治体制への移行の動きが意図的に半年
以上ブロックされていることを非難し、1991年1月早々に国民会議を開催することを要求しま
した。そして、1991年に入ると1月11日にチセケディの盟友であるリハウ(脚注)も記者会見
で、モブツが自ら民主化を行うのを待つのは非現実的であり、、モブツ体制とは関係のないUD
PSを中心とした野党で、国民連合政府を組織し、その手で国民会議を開催することを提案しま
した。
  その間、経済情勢は極度に悪化し、国民は生活苦に追い込まれ、多くの国民がモブツ体制
の変革を求めていました。その変革はもうモブツ体制自体に任せるわけにはいかない、という
のが国民の声でした。モブツの民主化演説で解決されるような問題ではないからです。とにかく
「変革!」という言葉が、かってザイールにおいて革命、ナショナリズム、あるいは独立という言
葉が持っていた響きを持つようになりました。
  モブツもこの国民的な圧力に抗しきれず、1991年1月6日ンセレで諸政党の代表と話し合
いを持ちました。そして、国民連合的な拡大暫定政府を緊急に組閣することを提案しました。し
かし、反体制政党は、これを真摯な民主化へのステップと考えることができず、反体制勢力に
混乱を起こさせる戦術としかとりませんでした。結局、モブツは反体制派のマイナーなグループ
の協力しか得られないまま、この拡大暫定内閣を任命することになりました。ルンダ・ブルルに
代わって、首相に任命されたのはムルンバ・ルコジという人物でした。新首相も前任者と同じく
経済学者で、国際金融機関(世銀と国連開発計画)に出向していた人物でした。モブツとして
は、国際金融機関からの信任を得るのが容易であったということもありますが、この時点で国
内の政治家で、自分がコントロールでき、しかも野党側からの攻撃に耐えられる人物などいな
かったというのが、本音でしょう。そして、この首相が野党側の意向も踏まえて、国民会議開催
への具体的対応に取り組むことになります。以前なら考えられなかったことですが、モブツの言
うままになっていたら、何一つ決まらずず、物事は一歩も進まない時代になっていたのです。
  モブツも、ついに1991年4月11日に2つの大統領令を出して、次のような3つの目的を持
った国民会議を開催することを受け入れざるを得ませんでした。
 − 第3共和制の基本的構想を決めること;
 − 新憲法の草案を作成すること;
 − 選挙を規制する法律を作成すること。
  ただし、モブツ体制派は、この会議はこの3点について審議を行うもので、その決議事項は
国民会議の場限りのものであり、行政、司法機関に対する執行力を有するものとは考えていま
せんでした。
  そして、5月には88人のメンバーから成る国民会議準備委員会がスタートしました。会議の
日程を決め、参加する代表の数の振り分けを行うことは容易ではありませんでした。体制側、
政党側、市民団体からそれぞれ提案が出され、最終的には人民宮殿の収容能力も勘案して、
次のような割り振りとなりました。先ず、民間組織代表(各種企業、職業別団体など)が1,100
人、政党代表が900人(4人/1政党とすると225党)、公共機関代表(中央、地方の各行政
機関など)750人、招待者(知識人、海外在留者など)100人ということで、合計2,850人とな
ります。その結果、国民投票によって3つの政党に絞るというモブツの当初の構想も実現でき
ず、年初に最高裁判所の判断で合法な政党として公認された19の政党に限定することもでき
ませんでした。そして、全ての政治集団の代表が参加することになりました。政治団体だけでな
く、医師会や弁護士会などを初めとする職業別グループ、各種市民グループも、そして海外に
亡命していたインテリ・グループも参加することが許されました。そして、モブツはこのグループ
に親モブツ派の手先を送り込み、会議の進展を妨害したり、操作するために利用しました。
  次に検討されたことは、この国民会議が主権を持つものかどうかという点でした。これについ
ては体制側と反体制側の間で激しい応酬がありました。改革派としては、内部的な問題を抱え
つつも、この会議が主権を持つべきと言う点については一致しており、ここで決議されたこと
は、具体的に施行されることを前提としていました。すなわち、この会議の決定は司法、行政に
対して執行義務を負わせるということです。それに対して大統領派は、この会議が主権を持っ
たとしても、それはこの会議が行われている人民宮殿内に限るべきであり、既存の政治機構に
直接影響を及ぼすものではないと反論していました。
  ムルンバ・ルコジ首相もこの点についてのモブツの意地は痛いほど分かっていたのですが、
革新政党側の主張を通さざるを得ませんでした。それは、モブツ側にこの主権問題を潰して、
強行突破する理論も力もなく、妥協するしかないという首相の判断があったからです。そして最
終的には、1992年5月に行われたこの会議参加者による投票の結果に基づき、国民会議は
国家主権を有するものであるとの宣言が出され、この問題に決着がつけられることになりま
す。
  それから会議の開催までどれだけの時間が空費されたのでしょうか。なかなか開催に漕ぎ
着けられません。一旦は7月24日に決まりながら、これが再度、再々度と延期され、開会式は
ついに8月にずれ込みました。
 ついに、1991年8月7日この国民会議は開会を迎えることになり、全国11の州から集まっ
た2,850人の公認代表がンセレにある人民宮殿に集まりました。その開会の模様はテレビと
ラジオを通じて全国に伝えられました。公認と断ったのは、実際蓋を開けてみると資格認定委
員会が代表と認めた以外の人物が数多く見かけられたからです。一説には4千人に上ったとも
言われています。(C:P 429)
  何はともあれ、国民の期待を背負って、この国の政治・経済・社会体制を根本的に変革する
ため、この会議はスタートしました。この会議を準備し、開会を取り仕切ったのは、この年の3月
にモブツが拡大暫定内閣の首相に任命したムルンバ・ルコジでした。
  彼は開会の辞の中で、「独立してからの31年の総決算は、グローバルに見ればネガティブ
なものであった」とやんわりとモブツ時代を否定するような発言をしましたが、その時、会場から
は大きな拍手が起きました。これがもし、反体制派のリーダーの言葉だったら、こんな拍手は起
きなかったでしょう。でも、国民会議の代表3千人の前でこの言葉を発したのは、他でもないモ
ブツが5ヶ月ほど前に任命したムルンバ首相だったのです。首相は、国家の荒廃の責任が集
まった政治家の一人一人にあることを強調し、この国民会議を対決と分裂の場としないように
参加者に要請しました。ある意味ではモブツの名を挙げることなく巧みに、これまでの政治がひ
どかったことを認めたと言えましょう。(91年8月9日付ルモンド紙参照)
  モブツ大統領としては、自分が多くの政治集団の代表より一段と高いレベルに位置し、政治
的論争の最終的な調停者であると宣言していましたので、この国民会議にはもちろん参加しま
せん。出席しても、これまでの多くの疑惑事件の責任を追及されるだけということは、誰よりもモ
ブツ自身が一番良く知っていたことです。グバドリテの宮殿に引きこもって、モブツが狙っていた
ことは、この会議が混乱を極め、収拾つかなくなり、自分がその混乱を収拾できる唯一のリーダ
ーとして、再び乞われて舞台に立つことでした。それは取りも直さず、この年の12月に大統領
としての任期が終わった後、国民投票で救世主として再度大統領に選出されることを意味しま
す。
 
  さて、すでに冒頭で述べたように、会議の開催に向けて、多数の参加者グループは、その戦
略上の配慮からグループの連合体を形成するようになりました。その連合はお互いに対立する
2つの大きな流れに分かれました。一つは保守連合であり、MPRとその亜流とも言うべき政治
グループであり、これらは大統領派(MP:Movance Presidentielle)を形成しました。この中に
は、会議の進行を妨害したり、賛成のための旗振りをするグループが金と利権を代償に入って
いました。もう一つは、会議開催直前の7月に形成された左派とも言うべき政治グループで、反
体制神聖同盟(USO:Union Sacree de l'Opposition)と名乗りました。この中に入った政党は、先
ずチセケディのUDPSとその分派、ングザのUFERI、ジョゼフ・イレオのPDSCなどです。この
2つの政治勢力の間に、状況に応じて集散を繰り返す2つの会派、すなわち中道右派と中道左
派がありました。
  当初より問題になったのは、この会議を円滑に運営することを可能にする事務局の設置と構
成です。ムルンバ首相の推薦で事務局長に任命されたのはカロンジ・ムタンバイという人物で、
プロテスタントの牧師であり、年齢も76歳という長老格の人でした。この人が国民会議の運営
を効率的に取り仕切ることは無理でした。
  全体会議の開会当初から混乱が続きました。先ずは、参加資格認定委員会が認めた代表
以外の見知らぬ人々が代表用バッジを付けて堂々と参加していました。代表者リストに不正が
あることは明白でした。100に及ぶ政党を擁していると自負する神聖同盟派は、このリストに違
法な操作が加えられたと非難する一方で、市民代表グループや教会代表はその勢力が過小
評価されていると異議を申し立てていました。そして、代表認定の基準そのものにも厳しい批判
が寄せられ、地域別代表の公正な見直しが要求されました。反体制側の参加者には主催者側
に対する不信感が強く、会議の正常な運営までになかなか到達できません。
  ようやく、12月になり事務局長の交替が実現し、ローラン・モンセングオ司教が常任事務局
長として選出され、会議の議事はとにかく正常に進められるようになりました。この司教はすで
にカトリック司教団の議長として、モブツ大統領に対して厳しい提言をし続けてきた人物です。
(第10章の5節参照)とにかく国民会議は機能し始めたのですが、ここに至るまで、モブツの民
主化宣言からすでに20ヶ月が過ぎてしまいました。
  ところが、年が明けて間もない1月16日、2ヶ月前に首相に任命されたングザは、国民会議
の中で一部の地域グループやカサイ州の部族グループの勢力がその影響力を増していること
に危惧を抱き、国民会議での紛糾がこれ以上大きくなることを回避したいという口実で、会議の
中断を決定しました。そして、一度モブツが試みたように、純粋に憲法問題だけに取り組む特別
委員会を設けることを提案しました。しかし、国民会議の再開を求める声は強くなるばかりで、、
無抵抗主義を貫くカトリック教徒のデモ行進に対して、モブツ体制側が武力による弾圧を行い、
多数の犠牲者が出るという事件が起きます。この事件によってングザは苦しい立場に追い込ま
れ、自らの提案を進める政治力は彼には最早ありませんでした。一方で、米、仏、ベルギー政
府からの国民会議の再開の要請は厳しくなるばかりです。
  結局、モブツ大統領、ングザ首相、モンセングオ事務局長の3者は議事を再開することにつ
いて合意し、4月6日に国民会議は再スタートしました。ここから国民会議の実質的な議事が始
まったとも言えましょう。そして、会議はこの年の12月まで続けられ、アフター・モブツ時代の準
備が真剣に話し合われたのです。
  先ず、会議は独立からその時点までの政治・経済・社会面での問題について総括を行い、そ
の結果をその後の政治改革の教訓とすることを目指しました。そして、第三共和制への移行の
準備として、移行期間の暫定憲法を作成し、憲法草案を練り上げ、地方議会から国会にいたる
選挙の実施日程を明らかにして、その会期を終了しました。実質的には約1年間の作業でした
が、体制側としては、あらゆる手段を尽くし、法外な額の資金をつぎ込み、議事の中で混乱をま
き散らし、モブツ体制の温存のための妨害工作を行いました。しかし、変革を求める国民の声と
支持によって、反体制勢力、すなわち改革派は常に会議の実質的主導権を握っていました。何
よりも、過去の総括の議論を初めとして、あらゆる審議において国民の代表が自由に発言でき
るようになったということは、大変な成果でした。25年間何も言えなかった時代が終わったので
す。

 (2)国民(主権)会議で審議されたこと
  この会議の実質的な議事において最初に国民の注目を集めた場面は、先ず過去の総括で
した。それはこの国が植民地体制を脱してからの歩みを総合的に再評価することでした。特
に、それはモブツ政治の総括です。誰が、そしてどのような組織が今日のような政治的、経済
的、社会的混乱を招いたのか。その責任の所在を明らかにして、そこから未来への教訓を学び
取ろうとしたのです。
 国民がこの会議で何よりも嬉しく感じたのは、モブツ時代には完全に封じ込められていた言論
の自由が取り戻せたということです。勿論、後で述べますが、この会議の開催中にも一部の報
道機関やデモ行動に対して厳しい弾圧が加えられ、血も流れ、犠牲者も多々出ました。しかし、
会議の中では誰もが民主主義のしるしの下で、モブツ体制への厳しい批判を口にすることがで
きたのです。
 各種のグループ代表があらゆる分野の問題に関し、次々と声明を発表しました。1992年5月
7日から6月1日までの全体会議の中で、この種の声明文の数は192件に上りました。その内
訳は市民・職業グループから84件、行政機関など公共グループから26件、政党関係から58
件、招待参加者から24件となっています。(HGC:P 779脚注ー122)
 さらに、モブツが邪魔者として排除し、公的な地位から追放した政治家や抹殺した人物の家族
たちがその発言の権利を認められ、舞台に登場することができました。独立の殉教者であるル
ムンバの後継者、枢要な大臣の座にかって座りながらモブツにより追いやられた人、モブツ体
制と命を賭けて戦ってきた人たちのことです。
 これらの人々の証言を聞いた国民は、モブツ体制下でこれまで知らされてきた歴史的出来事
が、如何に事実からかけ離れたものであったかを知り、この30年間の間に、結果的には失敗
に終わったけど、幾つかの政治的革命の試みがなされたことを知りました。それは、ルムンバ
の行動であり、ムレレの反乱であり、2度にわたるシャバ紛争を起こしたナタニエル・ムブンバ
の蜂起などであります。
 過去の総括の後は、現状の分析です。これがいわば会議の第二の山場でもありました。山ほ
どの問題が持ち込まれました。その問題を調査し、審議するための特別委員会が設けられ、そ
の数は合わせて23にも上りました。政治の革新を進めるために最も枢要な問題を取り扱う委
員会も設けられました。それは先ずモブツ体制の弾劾であり、ザイール化で不正に取得された
資産、暗殺された人々、人権蹂躙のケースなどを調査し、その実態をあきらかにすることを目
的とした委員会でした。さらには、この政治体制の移行のあり方、そして新しい体制を守るため
の憲法などについても委員会が設けられました。その他、政治倫理、地方行政、教育、科学技
術、国家資産、経済、工業、通商、経済計画、財政、通貨、金融機関など、行政のあらゆる部
門ごとに委員会が設けられ、審議が行われました。
 そして、これらの委員会は作業の結論として、情勢の分析結果とこれからの政策決定につい
ての国民会議記録文書としてまとめ上げました。これらの結論なり決定がこれからの国の基本
的骨格をなすべきものです。
  第三共和制への移行を目的とする暫定憲法も1992年8月4日に採択されました。これは「移
行期の憲法規程に関する文書」と名付けられるものです。これによると移行期間は24ヶ月、す
なわち2年間で、その間に民主的に選出された議員によって構成される国会が機能を開始する
としています。モブツ大統領の任期もこの移行期間に限るとしています。そして、この暫定憲法
の実施とその管理・監督を行う暫定国会として、400名の代表から構成されるHCR(共和国最
高評議会)を設けました。これが将来第三共和制の国会へと格上げされる訳です。
 この暫定憲法を読んでみますと、、長年はびこった不正と悪弊を断罪し、過去のザイールとの
決別を明確に打ち出していることです。それは取りも直さず、個人の基本的権利と自由を何より
も尊重することでした。保障されるべき幾つかの権利と自由が明記されました。労働、ストライ
キ、国民全体の発展、教育、報道の自由、そして、国民が人間として共通して持っている文化
的遺産を享受する自由を謳っています。過去との決別は、さらに政治的経験にも基づいていま
す。すなわち、軍人によるクーデターを禁じ、武力によって政権を奪取した個人または個人グル
ープへの服従を拒否する権利を国民が持つことを明記しています。また、単一政党制を導入す
ることは反逆罪に当たるとしています。
 その他、国民会議で審議された事項の主なものを箇条書きにしてみましょう。
(1) モブツ時代に犯された政治的、経済的犯罪の訴追
(2) 政治的弾圧を受けた犠牲者の名誉回復
(3) 個人や国民共通の財産を国家の名の下で没収したことへの断罪(特に経済のザイールに
際して取得された資産の  返還。この問題について作成された資料は膨大な量となった。)
(4) 称号や呼び名の復権(特にモブツの名誉に関係する称号の廃棄、さらに国名、国歌、国
旗、通貨などをモブツ以前  のものに戻すこと。その一部はすでにモブツが改めることを認め
ていた。)
(5) 服装、ネクタイ、個人名などを元に戻すこと
(6) モブツが設けた国祭日を廃止し、新たに民主化に因んだ、そして独立の歴史的出来事に関
する祭日を設けること。
(7) 国家構造の基本である中央政府と地方行政機関の関係については、連邦制的な要素を入
れることが多数意見と   なった。それはモブツ時代の余りにも権力が一部の者に集中したこ
とから得た教訓でもある。

  この文書を採択した後、1992年8月国民会議は首相の選任を行います。モブツ支持派はト
マス・カンザを推薦しましたが、改革派はもちろんのこと、チセケディを候補として支持しました。
そして、27年ぶりにモブツによってではなく、国民の代表によって首相が任命されることになり
ます。国内的な圧力のみならず、極めて強い国際的な要請もあり、モブツはこのチセケディ政
権樹立を認めざるを得ない立場に追い込まれ、大統領令によってその任命を公布しました。し
かし、モブツは常に別の逃げ道を用意していました。
  とにかく、モブツ体制派は必死でこの国民会議の進展を阻みました。あるいは議決の際に、
定足数の不足に持ち込んで採決を無効にするとか、野党勢力の統合の場である神聖同盟の
分裂を仕掛けたり、相変わらず、金とポストで切り崩しを図りました。
  そんな中でも、国民会議は沢山の問題を取り上げ、審議し、、議決をしましたが、肝心なこと
はこれらの決議と憲法の草案に明記された新時代の国民の諸々の権利をどうしたら現実に保
障できるかということです。国民会議は自ら主権を持った国家機関であることを宣言しました
が、これらの行政上の決定事項は行政府により執行されることもなく、憲法は結局国民投票に
掛けられるには至りませんでした。
  実は、そこにモブツとその一派のの狙いがあったのです。国民会議は主権を持つものとされ
ましたが、実際に行政権を握り続けていたのはモブツが任命していた首相であり、その政府で
した。国民会議も自ら政府首班を選出し、その政府を実現しました。上記のチセケディ政府がそ
うです。しかし、体制派の色々の抵抗に遭い、具体的にその行政権を施行することがでないま
ま、モブツは自らの権限でチセケディ首相を罷免し、自ら別の政府を発足させました。この点に
ついては12−5.の「2つの政府と2つの議会」で詳しく触れることにします。
  モブツが1990年4月に民主化のために政治体制変革の移行期間に入ると宣言して以来、
そして、この国民主権会議がさまざまの障害を越えながら、新しい時代を目指した期間中だけ
でも、行政府の最高責任者である首相には、実に6人の人物が指名、あるいは任命されまし
た。また、経済情勢の悪化は激しいものがあり、インフレ率も7,000というような想像を絶する
ようなレベルに達し、経済的混乱の中で国民は塗炭の苦しみを経験しました。その結果、幾つ
かの社会的悲劇が起こりました。それは、多くの善良な市民を巻き込んだ個人金融詐欺事件
であり、ルブンバシの学生に続く全国規模での学生弾圧、政治家やジャーナリスト、そしてキリ
スト教徒の弾圧、一般兵士や特殊部隊の兵士による暴動とそれに続く商店街や個人住宅の破
壊と略奪、等々でした。次の節ではこの行政府の変遷とこれらの社会的悲劇について、その全
貌に迫りたいと思います。
  国民会議ではこのように沢山の問題が審議され、決議されましたが、肝心なことはこれらの
決議と憲法の草案に明記された国民の諸々の権利をどうしたら現実に保障できるかということ
です。国民会議は自ら主権を持った国家機関であることを宣言しましたが、これらの行政上の
決定事項は行政府により執行されることもなく、憲法は結局国民投票に掛けられるには至りま
せんでした。
  実は、そこにモブツとその一派のの狙いがあったのです。国民会議は主権を持つものとされ
ましたが、実際に行政権を握り続けていたのはモブツが任命していた首相であり、その政府で
した。国民会議も自ら政府首班を選出し、その政府を実現しました。1992年8月に誕生したチ
セケディ政府がそうです。しかし、体制派の色々の抵抗に遭い、具体的にその行政権を施行す
ることがでないまま、モブツは自らの権限でチセケディ首相を罷免し、自ら別の政府を発足させ
ました。この点については12−5.の「2つの政府と2つの議会」で詳しく触れることにします。
  モブツが1990年4月に民主化のために政治体制変革の移行期間に入ると宣言して以来、
そして、この国民主権会議がさまざまの障害を越えながら、新しい時代を目指した期間中だけ
でも、行政府の最高責任者である首相には、実に6人の人物が指名、あるいは任命されまし
た。また、経済情勢の悪化は激しいものがあり、インフレ率も7,000というような想像を絶する
ようなレベルに達し、経済的混乱の中で国民は塗炭の苦しみを経験しました。その結果、幾つ
かの社会的悲劇が起こりました。それは、多くの善良な市民を巻き込んだ個人金融詐欺事件
であり、ルブンバシの学生に続く全国規模での学生弾圧、政治家やジャーナリスト、そしてキリ
スト教徒の弾圧、一般兵士や特殊部隊の兵士による暴動とそれに続く商店街や個人住宅の破
壊と略奪、等々でした。以下の節ではこの行政府の変遷とこれらの社会的悲劇について、その
全貌に迫りたいと思います。

 
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16−2 次々と交替させられる首相
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