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     14−2 モブツに異議を唱えた13人の国会議員
  第一次シャバ紛争でモブツの権威は大いに傷つき、内外の批判に応えるため何らかの政治
機構の改革を行う必要に迫られました。その年の11月15日、MPRの党大会を久々に開催
し、モブツ自身が「ザイールの悪」につ いて正直に話し(9−1.参照)、大統領としての大権の
一部を国会に返上することを表明しました。これに基づき国会 議員が行政評議会(内閣)と司
法評議会(裁判所当局)を監査する権限を与えられることになりました。常識的に言えば、議員
はこれまでこんな権限も持たされていなかったのかと驚くでしょう。
  この国会議員は「国民評議委員(Commissaire du Peuple)」という肩書きを与えられ、新しい
風を感じた議員たちは、その権限を良心的に行使しようとしました。彼らは閣僚、政府高官、国
立銀行を初めとする金融機関の責任者などに対して、尋問を行い、資料の提出を求め、調査
の実施を要請しました。これはかってモブツ体制の下では考えられことであり、新しい時代の到
来かと思ったのも無理ありません。
  その翌年の5月に起きた第二次シャバ紛争で、正規軍が自力で反乱軍を撃退できなかった
ことで、ザイールは事実上外国の保護国的な立場に追い込まれ、欧米諸国からの民主化の圧
力や勧告に従わざるを得ない立場に追い込まれました。そのような環境の中で、国会議員はこ
れまで触れることさえタブーであった問題についても、辛辣な批判を行うようになりました。 そ
れはキンシャサにおける治安の問題、鉱山会社の規制に関する問題、モブツ自身の家族が絡
んだ密輸の問題などです。
  1979年7月にはチセケディを含む4人のカサイ州の議員が、この州のカテケライにおける
余りにも酷い虐殺事件(死者の数は200人以上に達した)を暴露し、モブツ一族が恣にしてい
る不法行為(象牙、金、ダイヤ、動植物、マラカイト、銅、コバルトなどの密輸等々)を告発しまし
た。モブツは、このような遠慮会釈の批判のやり方に対して、やはり独裁者としての本音を吐き
ます。このように自分に刃向かう議員たちを接見したモブツは、特にチセケディに向かって怒
り、次のように叫びました。「あたたは私の命を欲しがっているが、それは叶わぬことであり、あ
なたはその大変な対価を支払うことになろう。何故ならば、私はあなたの命を好きな時に、好き
なように奪うことができるからである。」(C P:392)
  しかしながら、一度開けられた突破口は簡単には塞げず、広まるばかりです。1979年の1
2月27日に国民評議委員たちは、閣僚たちを尋問し、行政の腐敗構造を糾弾しました。しか
も、それをテレビ・カメラやラジオのマイクの前でやったのです。不満が爆発しそうな人々にとっ
てこのような体制攻撃は、政治の大きな転換を思わせたに違いありません。
  結局、モブツは、これらの議員に対する怒りをむき出しにし、体制批判は国会議員の本来の
職務ではなく、このようなことをする議員を厳しく処罰することを明らかにしました。そして、質問
事項があれば、それを事前に提示して、大統領の了承を取り付けることを条件としました。結局
また後戻りして、事実上国会議員(国民評議委員)の権限のほとんどを取り上げてしまいまし
た。
  しかし、一旦動き出した国会議員の体制批判は、もう簡単には収まりませんでした。その先
頭に立っていたチセケディやンガルラは13人の議員から成るグループを結成しました。チセケ
ディはモブツ体制を非難して次のように言いました。「このピラミッド型の政治組織においては、
物事を考え、構想を練り、決定を行い、そして自分自身で決定した政策のインパクトを評価する
のは、頂上の人物ただ一人であり、それ以外の国民は喝采するか、黙り込むかする以外に何
もできないのである。」
  そして1980年11月1日、この13人の議員たちは51ページに及ぶモブツ宛の公開書簡に
署名し、それを発表しました。その書簡の要所を幾つか紹介しましょう。
  「15年の一方的な支配の間、あなた(訳注:モブツのこと)が選んだ国民の代表とは言えない
人たち、そして往々にして私たちにとっては異国人である人たちに、取り囲まれていることが多
かったあなたは、我々を底の知れない深いトンネルに連れ込み、その出口はあなただけしか垣
間見ることができない。
  さらに悪いことに、あらゆる施策を尽くして、国とその機構の民主化を組織的に阻止すること
によって、また今や墓場の静けさのようになった表面的な満場一致という手法を押しつけること
によって、建設的な競争意識の中で様々な考え方を自由に、平和的にぶつけ合うことを学ぶこ
と、すなわち民主主義を学ぶこと、こんな大切な学習をあなたは我々の国民に禁じてきたので
ある。
  今日、このようなやり方がもたらした目に見える結果と言えば、我々の数多くの同胞にとって
選べる唯一の政治的意見の表明の手段は亡命するか、武力に訴えるしかないということであ
る。しかし、民主主義の火種に水を差すあなたの体制がもたらす最悪の結果は、あなたが去っ
た後、我が国は最もひどい政治的、社会的混乱を経験しなければならないということでり、それ
はあなたが政権に就いたことでとどめを刺したと主張する混乱よりも、さらにひどいものとならざ
るをえない。それは、国民が様々な相反する議論に参加することに、これまで馴らされていなか
ったからであり、また選良たちがそれぞれ異なった見解を穏やかにぶつけ合うことを、そして国
民と対話を行うことを学ぶ経験を持たなかったからである。もしかしたら、今起きている出来事
を良い方向へ軌道修正する時間が、あなたにはまだ残されているかも知れない。」
  「ザイール国は、2,500万人のザイール人に属している。我々が合法的に代表している、あ
るいは我々に組織的に同調してくれている数百万の人々は、我々の社会の徹底的な変革が早
急に行わなければ、取り返しのつかないことになるという意見を持っている。この変革とは、国
家の構造を全面的に再構築すること、政治的、民主主義的なあらゆる自由、特に結社の自由
と報道の自由を現実に享受すること、を含むものである。このような改革が効果的、かつ永続
的なものとなるためには、一つのテーブルに国民の代表が集まり、議論を尽くすことが不可欠
であり、その集まりには国民の選良だけでなく、様々な政治的意見のグループから自由に選ば
れた代表が参加できなければならない。」
  また、書簡には次のようにも書かれています。
  「我々があなたに従ってきてから15年が経った。その間、あなたに役立つために、あなたを
快適にするために、我々が何をしなかったというのか? 歌い、踊り、気勢を上げさせられ、我々
は外国の植民地当局さえ我々に強要しなかったような、あらゆる屈辱と屈服をあなたから経験
させられた。(中略) あなたが権力を独り占めにして、15年経った今、我々は完全に離反した
二つの陣営に分かれて生きている。一方でスキャンダルとなるような金持ちになった幾ばくか
の特権階級の者がいて、その他方で、暗黒のような悲惨な状況の中で苦しみ、何とか生き長ら
えるためには、海外からの慈善事業に頼るしかない国民大衆がいる。」(D P:758)  この文書
はあっという間に国内で内密に流布され、海外でも読まれるようになりました。モブツも直ぐ反
応しました。この13人の起草者たちは国民評議委員の特権を剥奪され、逮捕されました。その
内のチセケディを含む5人の主要メンバーは何と大統領官邸に連れ込まれた上で、身柄を拘
束されました。法廷で裁かれた彼らの一部は恐喝と誘惑の常套の下で、自らの非を認めること
になりましたが、チセケディやンガルラなどは強硬な意志で、自分の信念を貫きました。リーダ
ーであるチセケディは当然のことながら、MPRの政治的無能、無策を追及して止まなかったン
ガルラも、「MPRの党組織の中である程度の物事は議論できるようにすべきあり、ただ、《アー
メン》と唱えるだけでは駄目である」と叫び続けました。この強硬派の人たちは5年間市民権と
参政権を奪われ、僻地へ流刑となり、行動の自由を奪われました。ただ、以前のように彼らの
身柄を簡単に抹殺することは、もはやモブツにもできませんでした。それは、国際的な民主化
への圧力と国際世論の重みでもありました。


   14−3 チセケディによるUDPS党結成
 このような反モブツの公開質問状に書かれた民主化への願望はやがて一つの政治的な核と
なって具体的な形を見せるようになりました。それは、1982年1月15日のチセケディとその同
調者たちによる第二政党《民主主義と社会進歩のための連合(UDPS)》の設立でした。もちろ
ん、この時点では国家当局から非合法的なものとして弾劾され、その創立者たちは投獄されま
した。
  モブツ体制変革に向って攻撃の手を緩めなかったこのチセケディとはどんな人物なのでしょ
うか。エティエンヌ・チセケディは1932年に西カサイ州のカナンガで生まれ、1963年にロバニ
ウム大学を卒業、ザイール人では最初の法学博士となりました。当時の政治的混乱の中では
当然のことながら、彼も直ぐに政治活動に入りました。一時分離独立を宣言したカロンジを支持
し、「コンゴー国民運動(MNC)」のカサイ支部のリーダーとなっていました。1965年にモブツ
が政権を取ると、モブツの元にはせ参じ、内務・慣習法担当大臣に任命されました。1967年
にモブツが憲法改正に取り組んだとき、その起草に参画しました。(第7章の1.参照)この憲法
の中で、「二つ以上の政党は認められない」という規定が入れられましたが、その解釈について
すでに、チセケディはモブツと違った意見を持っていました。それが、二人の対立の源流であっ
たとも言えます。それでも彼は1968年から1972年まで、MPRの全国書記局のトップの座に
据えられ、党の総合政策委員会を主宰していました。その後、モブツはチセケディを政権の中
枢から遠ざけるため、モロッコ駐在大使に転出させ、その後は国立法律・行政学院の校長に任
命しました。国民評議委員(国会議員)の肩書きを与えられていた彼は、モブツに苦言を呈し続
ける数少ない議員だったのです。そして、1978年に起きたカテケライでの虐殺事件(前節参
照)について、同じカサイ州出身者として、公然とモブツに刃向かう姿勢を見せだしたのです。そ
して、ついにこの最後の国民評議委員の肩書きも剥奪され、投獄、自宅監禁などにより、常に
行動の自由を妨げられていました。
  このように、チセケディはモブツ体制の中に身を置きながら反モブツの姿勢をとり続け、一度
も国外に逃げることもしなかった政治家であり、それだけに多くの人々から、そして欧米の関係
者からもモブツの後継者ナンバーワンとして目されるようになっていました。
  UDPSが何よりも求めたのは、MPRとは異なる第二の政治集団を結成することです。政党
(MPR)・国家(モブツ体制)・国営企業(ジェカミンなど)が国民と国の富を支配し、国民がその
支配構造に何の発言もできないことを何としても打破することを目指したのです。それは「市民
としてより強い連帯意識と正義を要求すること、欧米にみられるような民主主義の原理を実施
すること、個人の権利を擁護すること、私的財産と個人企業経済の原則に基づいた政策を推進
すること」などを目標として掲げていました。それは過去の政治集団のように、部族的繋がり
や、地域的連帯感をベースにするものではありませんでした。
  ブラックマン女史はUDPSについて次のように書いています。(C P:396)
 「UDPSは、変動を続けている社会が熱望しているものを特に、政策の看板に掲げていた。
すでに、都市部が人口の40%を吸収しており、新しい社会階級が出現していた。小規模な個
人企業の所有者は、官僚主義や人脈行政の悪党たちから、その発展を邪魔され、公務員たち
は、一握りのトップを除くあらゆるレベルにおいて、ただでさえ幻滅的な価値になってしまった給
料のブロックと解雇で、深刻な打撃を受け、数だけはドンドン増えている大学卒業者たちは、少
し前までモブツが野心に満ちた若者に提供していた、高収入のポストにもありつけなくなってい
た。孤立している地方よりもむしろ、都市部においてIMFが押し付けた緊縮政策はその猛威を
振るっていた。同じように都市部においては、検閲、マスコミ規制、そして書物の欠乏が激しか
ったにも拘わらず、世間を刺激する諸々の思想は、足早に人々の間に入っていった。全国を通
じて秘密裏に、UDPSはその闘士を獲得していった。その創立者たちの人物のお陰というより、
そしてその政治的綱領の力によるというより、多分もっと単純に、このUDPSが、単独政党MP
Rに代わりうる《第二の政党》を具体的に実現できるという理由からであろう。」
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14−4 死刑囚から外相へ復帰したングザ
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