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第 11 章 モブツ政権の経済運営は! 
11−1
 モブツ政権の経済運営は!
11−2
モブツの威光プロジェクトは何のために?
 (1) インガダムの建設               (2) インガ−シャバ超高圧送電線の建
 (3) マルク製鉄所の建設             (4) マタディ吊り橋の建設
 (5) 放送センターと衛星通信設備の建設   (6)貿易センタービルの建設
11−3
 経済のザイール化(ザイリアニザシオン)
11−4
 犠牲となった外国人と喜んだ一部の国民
11−5
 《ラディカリザシオン》と《レトロセッション》!
  
    11−1 モブツ政権の経済運営は!
  政治・社会面でのオータンティシテ運動を展開しながら、モブツは経済面でのザイール化に
向かって進みます。第6章で経済的独立について述べましたが、ここではその後のモブツ体制
の経済・財政政策について述べます。
  モブツは、自らの絶対的権威とその栄光を示す種々のプロジェクトを次々と実施します。それ
は経済・産業の野心的な発展を目指すものもありましたが、そのほとんどが国民経済にとって
は無用の長物となるようなものでした。一口で言えばザイールの現実に根を下ろさない夢のよ
うなプロジェクトでした。その実施に必要な資金は、政府ベースの保証付きの借款によって供給
されたものであり、これによって利益を得たのはそのプロジェクトを売り込んだ欧米諸国の企業
とそのプロジェクトから余禄を得た一部の体制内の人々でした。その結果として残ったものは、
莫大な借金と増えるばかりの金利だけでした。この辺の経緯をこの章で検証して行きたいと思
います。
日本との政府間協力で建設されたマタディ橋(下記8−2.(4)を参照)
写真提供:高垣 和之氏(Car Muscat Congo s.p.r.l) 
  そして、危機的状況に陥ったザイールの経済を前に、モブツは一か八かの賭に出ます。無謀
とも言える経済のザイール化を強行し、ザイールの経済機構の中で活動している外国人からそ
の資産と経済活動そのものを取り上げようとするのです。
  政治的改革はどんな奇抜なことでも、独裁体制下でなんとか進めることができるかも知れま
せんが、経済は国民生活と共に生きているものだけに、これに人為的にアフリカニゼーション
の措置を急速に持ち込めば、それは国民の生活そのものを混乱させることにしかなりません。
1973年12月以来、経済のアフリカニゼーション、すなわち《ザイリアニザシオン》という言葉が
明けても暮れても耳に入って来ました。
  独立後の混乱を経験しながら軽工業や土木産業、農林業、それに流通業や商業を立て直し
ていたベルギー人、イタリア人、ギリシャ、レバノン、シリア人たちからその資産を取り上げ、活
動の場を取り上げることになりました。彼らに代わるナショナルの産業人や商人の登場を直ち
に望むには、余りにも無謀で時間的にも無理な政策でした。 しかも、無理と分かった時点で元
に戻すという朝令暮改的な政治で、さらに経済・財政に混乱を招き、結果的に苦しむのは一般
国民自身でした。

  モブツをここまで無謀な行動に駆り立てた背景を少し振り返って見てみましょう。
  先ず、この大国ザイールを政治的に安定させたことで、モブツは一時的に国際的信用を高め
たと言えます。そして、ザイールの豊富な天然資源を前にすれば、当然ながら世界の投資家た
ちの関心を集めることになります。冷戦という国際環境の中で、親米・反共の立場を明確にした
モブツは、経済面でのその報酬を享受する立場にあったのです。モブツは旧宗主国のベルギ
ーだけでなく、さらにダイナミックな開発投資のパートナーを呼び込むことを目指します。米国、
フランス、ドイツ、イタリア、それに日本などが政府ベースの借款プロジェクトのみならず、民間
ベースの投資案件を次々と持ち込みます。
  経済の実態に目を向ければ、経済・財政情勢は早くも1966年頃から悪化をたどり、国家財
政の赤字は膨れ上がり、1967年にその額は200億コンゴー・フランに達していました。通貨
の供給量は1963年の通貨改革の時に比べて、すでに倍増していました。インフレは国内生産
活動と輸出へのインセンティブを殺ぎ、物価は上昇を続けていました。
  国際政治の面で重要なザイールだけに、IMFや世銀などもこの状況を黙視することができま
せんでした。IMFとザイール政府との間の協議を通じて、1967年6月にザイール政府は広範
にわたる金融・経済政策を発表しました。まず、これまでの二重為替レートを廃止し、コンゴー・
フランの平価をこれまでの1ドル150/180から一挙に500フランに切り下げ、それと同時に
通貨の単位をザイールに変え、1000フランを1ザイールにしまし。すなわち2ドルが1ザイール
ということです。切り下げとデノミを同時にやったのです。
  さらに物価対策としては、賃金・給与の引き上げの限度を40%とし、国内消費財・サービス
の価格引き上げに対し承認制を導入しました。その他、インフレ抑制のため輸出入を原則的に
自由化し、不正な外貨支払いを阻止する措置を設けました。一方で、国家財政の重要な財源
である輸出入税、取引高税の税率を引き上げ、歳入の確保を図りました。IMFの持論を十分採
り入れた施策と言えます。
  目指すところは、経済と貿易を自由化し、それにより国内生産と輸出を奨励し、国際収支を
改善することです。さらに、中央銀行からの借入に依存しない国家財政を確立し、ひいては国
家予算の一部を国土復興、開発投資のために留保することでした。IMFはアメとムチという典
型的なやり方で、新通貨ザイールをサポートする意味を含めて、2,700ドルのスタンバイ・クレ
ジットを供与しました。
  1968年の前半は、銅価が相当回復したこもあり、この通貨改革の目的は、短期的には達
成された言えるでしょう。輸入は抑制され、減少に転じ、輸出は著しく増大しました。この年の6
月で中央銀行その他の銀行のネットの外貨保有額は1億5,500万ドルを超え、それは、当時
の輸入水準で6ヶ月分の輸入額に相当するレベルでした。
  モブツが政権に就いた1965年から1989年までの間に対外的にコミットしていた債務は1
13億8百万ドルでした。この規模の債務はザイールの資源の膨大さを考えれば、返済に問題
のある額ではありません。因みに、1987年のザイールの長期債務総額の国民総生産に対す
る比率は、139.5%に留まっていました。同時期の他のアフリカ諸国の比率と比較してみます
と、ザンビアが227.5%、コンゴー(ブラザヴィル)が195%、タンザニアが144.1%でした。
公的対外債務の国民1人あたりの負担額は、ザイールが264 ドルであったのに対し、象牙海
岸、コンゴー(ブラザヴィル)、ナイジェリアは、それぞれ、1,221 ドル、2,318 ドル、268ドルで
した。(DP: 736)
  問題は、この114億の近い額のほとんどが、経済の再生産につながるところには投資され
ず、モブツの独裁政治をプレイアップするために浪費され、結果的に残ったのは借金だけだっ
た、ということにあります。先ずは、このような問題のプロジェクトについて次の節で少々調べて
みましょう。


   11−2  モブツの威光プロジェクトは何のために?
  1967年の通貨改革で国内経済の悪化の流れはどうやら食い止められた感がありました。
さらには、従来の政府ベースの経済・技術援助に加えて、ザイールの経済的潜在能力を見越し
て、民間ベースの投資案件までが積極的に持ち込まれるようになりました。
  モブツは独裁者としての権限を経済の分野でも欲しいままにしました。自らの威光を示す巨
大プロジェクトの企画を大統領府の一握りのスタッフに次々と申しつけました。
  大統領府でこの新規プロジェクトを統括したのはビゼンギマナ長官でした。彼はルワンダ系
の人で、それが故にモブツにとっては、最終的にライバルになる可能性が全くない人物だった
のです。ルワンダのツチ族系の人だけにすらりとした体格に鋭い叡智をもった、いわばモブツの
知恵袋でもあったのです。彼はイタリアの国策会社ENIに派遣され、そこで研修を受けました。
そして、そのENIの支援を受けて、国が関与する全ての企業を管理・監督する《ビューロー・ド・
ポルトフーユ(証券管理局)》を立ち上げました。この機関はその後、業務が拡大してしまったた
め《証券省》に格上げされ、事務的な面をその省に委せて、企画立案の部分だけは大統領府
に移してしまいました。ビゼンギマナはその大統領府長官として、巨大プロジェクトの推進に当
たるのです。
  そして、「その側には、イタリアの調査事務所、SICAI(工業活動コンゴー・イタリア会社)が付
いていた。この会社は、イタリアの最大企業の出先であった。SICAIは、一部のプロジェクトの
収益性調査を大統領府の旧顧問たちに下請けさせることを認めていた。この旧顧問たちとは、
ロバニオム大学の経済・社会研究所(IRES)のベルギー人たちのことであった。」(CP: 242)
  すなわち、経済政策の面で重要な役割を果たしたロヴァニュム大学の経済・社会研究所(IR
ES)のベルギー人顧問たちもこの企画立案のチームに入っていたのです。当時このIRESの
所長だったH・ルクレルクは、ベルギーのルーヴァン大学から派遣されていた教授ですが、彼は
コンゴーの工業化推進を経済政策の一つの大きな指針として掲げ、「大規模な発電能力を持
つダムの建設、隣国を経由しないで大西洋に通じる鉄道輸送路の建設、基幹産業としての製
鉄業と化学工業の開発」を提言していました。それは、あくまでも長期的ビジョンの経済政策と
しては正しいものだったでしょうが、独立後の政治的混乱を経験し、コンゴー人自身による経済
的な再生と独り立ちを模索する中では、決定的な間違いであったと云えるでしょう。同時にルク
レルの構想は、ベルギーを初めとする欧米先進国の重厚長大産業の技術を活用するビ美味し
いジネス・チャンスでもあったのです。
  現実はそんな余裕はありませんでした。本来はこの時期に何を差し置いても、自然の豊かな
資源を活かしていくために農林・水産業、中小企業などの分野へのダイナミックな投資、あるい
は社会資本充実のための投資を最優先すべきだったのです。それを蔑ろにして、モブツ体制は
工業部門の、あるいはモニュメント的建造物の大型プロジェクトに最大の優先権を与えたので
す。それはザイールの国民にとって全く不幸なことでした。巨大な額に上る投資は、多くの国民
が従事している農林業や軽産業などの分野で、直接再生産に繋がるものではありませんでし
た。もちろんこれらのプロジェクトの工事にあたり、その現場周辺の住民には非熟練労働者とし
て雇用されるチャンスは産み出せれましたが、それは工事中だけのことであり、建設終了と共
に元の生活に戻るしかありませんでした。すなわち再生産的な意味での経済活動に対する投
資では無かったのです。
  やがて伝統的な輸出品目であった農産物の生産が低迷し始め、東南部部地区の主食であ
るトウモロコシまでをこの豊かな国が輸入しなければならなくなります。そしてザイールは、使い
道も分からないような最新鋭の機材や機器に、そして野ざらしにされた巨大な構築物のため
に、また何のために必要か分からない最新鋭の超音速ジェット戦闘機ミラージュのために、国
の財産を惜しげもなく使い果たしたばかりでなく、何十年にわたる長期の債務を負ってしまった
のです。
  気がついた時は、国の財政を国際機関に押さえられ、膨大な対外債務が残されていたので
す。逆に喜んだのは、美辞麗句を弄してこれらのものを売りつけた外国の実業家たちであり、
契約や工事の裏で常識を超えたリベートや賄賂を受け取った体制派の一部の人々でした。

 
 (1) インガ・ダムの建設
  インガの場所は、キンシャサからザイール河沿いに自動車道路で390qほど南西に行った
ところ、逆に大西洋に近いマタディ港からは40q北東に向かったところに位置しています。そ
の地点でのザイール河の水量は、平均値として毎秒4万3千立方メートルという量です。アマゾ
ンの15万立方メートル に次いで世界第2位です。その流域面積も日本の国土の丁度10倍に
当たる370万?で、アマゾン(600万?) に次いで世界第2位です。1985年の8月の初めにフ
ランスのテレビ人気番組である《宝探し》で、2,000キロにわたるザイール河下りの冒険が企画
されましたが、フィリップ・ドゥ・デュールヴーを隊長とする冒険グループが全員命を失ったのもこ
のインガの瀑布でした。川下りのプロである一行全員の死については事件性を含む多くの情報
が流布されていますが、スタンレー一行の艱難、苦行以来、どれ程の人々の命を奪ったか分か
らないほど凶暴な瀑布地帯であることを物語っています。
  とにかくこのインガでザイール河は12qの距離を流れる間
に、100mの落差を下ります。その水のエネルギーを電気量に
換算すると、世界の潜在的な水力発電量の6%に相当すること
が植民地時代にすでに明らかにされていました。ベルギーの専
門家たちは、このインガの発電能力を3千万KWと推定してい
ました。膨大な規模の開発だけに、数段階に分けて工事を行う
ことになり、第1次インガ、第2次インガ、大3次インガ、そして最
終的には大インガ計画につながるという計画でした。
  最初のインガにおけるダム建設は、モブツが政権を取った翌
年の1966年にイタリアの建設会社が中心になって工事が始
められました。当初1億3千万ドルの投資の予定ででしたが、厳
しい自然条件、地形条件の中で予算は次々と増やされていき
ました。
  最初のインガにおけるダム建設は、モブツが政権を取った翌
年の1966年
にイタリアの建設会社が中心になって工事が始められました。当初1億3千万ドルの投資の予
定ででしたが、厳しい自然条件、地形条件の中で予算は次々と増やされていきました。それで
も他の大規模プロジェクトに較べれば、このインガダム計画は、とにかく電力生産の面ではプラ
スになったと云えましょう。問題は、この電力の需要先となるプロジェクトが次々と駄目という
か、現実味のないものだったことでしょう。
  1.  第1次インガ:この開発は1974年に完成しました。4億ドルを超す資金は、欧州共同体
    の開発途上国向け支援機関であるFED(ヨーロッパ開発基金)から融資されました。厳しい
    環境と地形のため工事は難航し、岩と河床の爆破に使用されたダイナマイトは25万トン、
    ションゴ・ダムと水路の建設に使われたセメントは24.5万立方メートルに及んだそうで
    す。1.2kmの放水路を造るために掘削された岩石と土砂は80万立方メートルと記され
    ています。5基の発電機の最大発電力はは35万kw、発電量は24億kwhですから、初期
    の佐久間ダムとほぼ同じ規模と云えます。この電力は2本の送電線で280km先のキン
    シャサ地域と1本の送電線で140km先のマタディに送られました。ただし、この電力の需
    要先については、アルミ精錬、セメント工場、製鉄所など計画通りに行かず、問題となりま
    す。
  2.  第2次インガ:投資予定額は3億6千万ドルでしたが、実際にはそれより1億ドルオーバー
    しました。第1次のダムからさらに1kmの誘導水路を造り(220万立方メートルの掘削)、
    取水ダム(使用セメント量16万立方メートル)を建設し、発電所(使用セメント量19万立方メ
    ート ル)を建設しました。これによって7基の発電機を据え付け、最大発電力は140万kw
    に達し、発電量は96億kwhとなりました。この電力はバナナ港とシャバ州の鉱業設備に
    送られることになっていました。しかし、バナナの港湾設備の拡充は計画倒れになり、バナ
    ナ−マタディ間の鉄道建設も目処が立たない状況となりました。インガ−シャバの送電線
    については、次の項で述べます1977年送電開始は大幅に遅れることになりました。
  3.  第3次は、このような電力需要の不足と資金調達の問題で具体化できませんでした。さら
    に、ザイール河の流れそのものを変える大インガ計画は画に描いた餅になりました。
(2) インガ−シャバ超高圧送電線建設
  インガの発電所で生産される電力を1,700キロの遙か彼方まで送る送電線を建設するプロ
ジェクトです。このような長距離を送電するのは世界でも前例の無い、初めての試みでして、技
術的にも大変高度なものが必要とされました。しかし、当時、重厚長大のプロジェクトに飢えて
いた世界の大手建設業界にとっては、魅力ある誘いだったのです。世界の大手グループが工
事獲得を目指して争いましたが、最後はアメリカのキンシャサ駐在大使ヴァンスのなりふり構わ
ぬ介入もあり、モリソン・クヌドセン社を中心にしたCISグループが最終的に2億2,400万ドルと
いう見積額で契約することに成功しました。実際には工期も大幅に伸び、最終的に16億ドルと
いう巨額の資金を使い、インガの発電所そのものの建設費を大幅に上回るという誠に奇妙なこ
とになりました。
コルウェジの変電所
1700キロに及ぶ超高圧送電線

  この資金確保のため米国輸出入銀行が保証の提供を行い、アメリカのほとんどの大手銀行
が協調融資を行いました。ザイール側は総コストの10%をザイール通貨で出資することになり
ました。
  一口に1,700キロと言いますが、地図を広げて直線で測ってみると、鹿児島−網走がおお
よそその距離になります。これだけの長距離をアルミ電線を使って送電すれば、その間の電力
のロスが大きくなることは素人が考えても分かります。このロスをミニマムにするためには、理
論的には電圧を上げなければならないそうです。採用された電圧は±50万ボルトというもの
で、この超高圧・直流送電のため途中通過するキクウィット、カミナ、カナンガなどの市街で電気
をドロップして、地域を潤すと言うこともできません。インガを出た電流はシャバ州のコルウェジ
まで一気に走るしかありません。
  何故このインガの電力をこんな遠いところまで送るプロジェクトに取り組んだのか、それには
深い訳があります。モブツにとっては、独立直後、分離独立を図ったこのシャバ州(旧カタンガ)
を完全に掌握することが、政治的のみならず財政的にも最大の課題だったのです。その意味
で、いざという時はスイッチ一つでこのシャバ州を締め付けられるようにしたのです。
  この電力を使う国営鉱山会社ジェカミンとしては、もっと経済的に効率の良い、シャバ州内で
の電源確保の計画を十分検討していたのですが、モブツの意向に逆らうことはできませんでし
た。それに電力の需要先と見込まれていた日本資本による銅鉱山開発に関しては、皮肉にも
この送電プロジェクトが完成した1983年に事業の全てをザイール政府に譲渡して、完全撤退
となりました。(第9章参照)
  またもう一つの大口の需要先に見込まれていた、テンケ・フングルメの大型銅鉱山開発が、
プロジェクト途上でこれも撤退を決めてしまいました。これはアメリカ、フランス、日本(三井物
産)などが参加した国際コンソーシアムによる銅鉱石採掘とその製錬を行うプロジェクトでした。
鉱石が特殊な酸化鉱であるため、その製錬には大量の電気を消費することになっていました。
探鉱段階を経て、採掘準備から鉱石処理のテスト・プラントの建設まで進んでいましたが、プロ
ジェクトの進行の途中で撤退を余儀なくされました。
 (3) マルク製鉄所の建設
  インガの電力を消費するもう一つのプロジェクトとして、製鉄所の建設が取り上げられまし
た。これは需要の大きいトタン板の製造を目的としたもので、輸入代替製品の生産プロジェクト
として優先的に取り上げられました。しかし、これも総合的な基礎調査なしで、場当たり的にイタ
リアのコンサルティング会社の誘いに乗って、仕上げられたプロジェクトとなり、工業化政策とし
てはまた一つの失敗の例を作ることになりました。
  プロジェクトに投下された資金は2億5千万ドルで1972年にスタートし1975年に完成しま
した。建設の場所として選ばれたところは、キンシャサからザイール河を遡ること80キロの地点
にあるマルクという漁村でした。
  ターンキイ方式でイタリア系企業が建設した電気炉と溶鉱炉方式の製鋼所は、年間25万ト
ンの鉄鋼を生産する計画でした。政府資金を中心としたSOSIDERという会社がこの経営に当
たることになりました。しかし、国内需要は最大でも6万トン程度であり、しかも、聞いてびっくり、
この設備では国内のマーケットが必要としている薄板と形鋼の製造はできないという杜撰なも
のでした。もう一つの欠点は原料となる鉄鉱石の開発がこのプロジェクトに平行して積極的に
進められておらず、結局割高な輸入スクラップを原料として使わざるを得ませんでした。
  この製鉄所は結局生産能力の10%のレベルで一時的に生産を行いましたが、製品の販売
先もないことから、先ず建設から2年後の1976年に電気炉生産が、そして1980年には溶鉱
炉の稼働が停止されました。従業員の住宅を含む一連の施設はもぬけの殻となり、マルクはま
た以前通りののんびりした漁村に戻りました。

 (4) マタディ吊り橋の建設
  ザイール河の河口近くにあるマタディにおいて、この大河を跨ぐ全長710mの巨大な橋を建
設するというプロジェクトです。そもそもこのプロジェクトの発端は、モブツ大統領が日本を公式
訪問の際、両政府共同コミュニケの中で日本側がバナナ・マタディ間の鉄道輸送力増強計画
に対し適当な方法により協力する用意があることを表明したことにあります。その後数回にわ
たる調査団の派遣や、専門家の現地調査の結果に基づき、日本とザイールの政府間の合意
に基づき、345億円の円借款枠がこのプロジェクトのために供与されました。当時の単一プロ
ジェクトとしては破格の金額です。
  この日本政府の資金援助で橋梁建設は行われ、1983年に完成し、同年5月20日に竣工
式が盛大に行われました。モブツの威光を示すためにはまたとない建造物であり、海外からの
賓客を案内するにも格好の施設となりました。
  厳しい環境の中で竣工にこぎ着けた石川島播磨重工業を中心とする共同企業体、施主側で
あるザイール政府の機関OEBK(バナナ・キンシャサ施設整備公団)の局長とそのスタッフとし
てこの公団の中に入った日本国有鉄道職員を中心とする延べ70名以上に及ぶ日本人の方々
の苦労は並大抵ではなかったと思います。しかしながら、このプロジェクトは次のような問題を
孕んでいました。
  1.  たとえザイール政府の枠の中といえ、工事の施行と発注を具体的に管理するこのOEBK
    のライン組織に、日 本政府(具体的にはJICA)の支援による専門家が局長からそのスタ
    ッフまで、すっぽりと入り込んだということ。言うなれば実施の段階では、発注者と受注者
    が日本人同士という異常な関係ができあがった。
  2. 下記の理由で橋だけを建設するのでは期待された経済的効果が挙げられないことは、初
    めから分かっていたこと。(そもそも当初は橋の建設と共に河口までの150kmの及ぶ鉄
    道建設もプロジェクトに含まれていた。ただし、急激なインフレのため投資額が膨れあが
    り、合意された円借款の枠内でプロジェクトの最終目的に達するのは不可能になった。)
  3. 1976年にすでに世界銀行とIMFは、ザイールの対外債務が膨大なものになっており、返
    済能力が事実上ないことを指摘して、政府間、民間の2つのレベルで、債権者を集め、そ
    の返済のリスケジュールをするよう介入していたこと。それと同時にIMFは、ザイールに政
    府に対して緊縮財政の導入と新規大型プロジェクトの中断を迫っていたこと。
  4. 従ってこの巨額の円借款の返済が無理となることが十分予想されたこと。事実、借款供与
    と共に発生する利息の一部である約10億円だけがかろうじて支払われ、1984年9月の
    時点でも、未払い金利は35億円に達していた。340億円以上に上る元本については、そ
    の返済が開始されるべき1986年にザイールは完全に対外債務返済不能状態になって
    いた。
 上記2.の理由に話しを戻して、何故このようなプロジェクトが必要とされたかについて述べま
す。先ず、このマタディ港はザイール唯一の大西洋につながる外港として非常に重要な役割を
果たしていました。ただし、この港は河口から150キロ以上も遡ったところにあり、大型船舶の
航行は無理で、中型船舶のみがこのマタディ港まで上ってきます。世界第二の水量のザイール
河の流れは、狭い河幅の水路を渦巻いて滔々と流れており、大量の土砂を含んだ流れにより
土砂の堆積は常時変化しており、複雑な水流の中を河口からマタディまでの航行することは、
技術的にも極めて難しいものです。しかも航路となる部分がアンゴラ領に入っており、航路標識
の整備はアンゴラ当局に依存しなければなりません。その上、マタディ港は地理的条件からし
て限られた土地のスペースと設備しかなく、これ以上輸送能力を大幅に増強することはできま
せん。解決策は、キンシャサからマタディまでの鉄道を河口のバナナ港まで延長することです。
  しかしながら、この地図を参照すれば分かるように、マタディから河口までのザイール河の南
岸はアンゴラ領となるため、河口の北側にあるザイール領内のバナナ港に到達するためには、
マタディでザイール河を北側に渡らなければなりません。従って、鉄道輸送能力を増強するた
めには、マタディでザイール河を渡る鉄橋を建設すること、そこからバナナ港まで鉄道を建設す
ること、さらにバナナ港の規模を拡張すること、の3点をクリアーしなければなりません。その意
味でこの橋の建設だけでは、直ちに輸送能力の増強には繋がりません。
  と言うことで、橋は完成しましたが、これまで渡し船で渡っていた車と人がこの有料橋を利用
するということに留まり、この国の輸送力の増強に寄与することにはなっていません。ブラック
マン女史をして「この橋は一体何の役に立つのだろう?」(CP: 270)と言わしめたプロジェクト
でした。ただし、モブツ体制の威光を表すことには大いに利用されました。

(5)放送センターと衛星通信設備の建設
@ キンシャサに最新式技術を駆使したテレビとラジオ放送センターを建設するプロジェクトで、
モブツとしては独裁体制維持のためのマス・コミュニケーションの手段として、是非欲しかったも
のであり、フランスが独占的にこのプロジェクトを推進しました。モブツとは個人的関係の深かっ
たジスカール・デスタン仏大統領の従兄弟が会長を務めていたフランスのトムソンCSPとテレ
スパースがこのプロジェクトを担当しました。総額4億5千万フランス・フランを要しましたが、その内
の80%はフランス政府保証基金(COFACE)の保証が付けられており、これもまた日本のマタ
ディ橋建設と同様に、最終的には国民の税金で償われるプロジェクトでした。すでに1982年
のCOFACE年次報告はこの借款の全額が損失となったことを認めざるを得ないと述べていま
す。
毎夕テレビの放送が始まると、国歌のザイロワーズの演奏と共に、青空の画面に流れる雲の
間から、神格化されたモブツの映像がフェ−ドインして、次第にアップで映し出されます。モブツ
にとっては完璧な番組のスタートでしょう。しかし、1980年の統計でもテレビ受信機が12,00
0台しかなかったことを考えれば、この最新レベルの技術を使った過剰な設備と建物は常軌を
逸したものと言わざるをえません。「比類なき最新技術の設備」(デアp268)だっただけに、そ
の維持補修をザイール人の手で行うことは難しかったのでしょう。開局1年後にはもう大部分の
設備の稼働が最低限のレベルにまで落ち込んでいました。それにエレベーターなど建物自体
の機能が動かなくなってしまいました。

A この放送センターの建設と同時に、宇宙衛星による通信センター(13の地上ステーションを
含む)建設のプロジェクトも上記のフランス企業によって実施されました。その投資額は少なく
見積もっても4億8,500万フランス・フランと言われています。3万台の電話機があるかないかの
現実を考えると何のための投資なのかと考えざるを得ません。この通信設備も1年後には2
0%位しか機能しなくなったそうで、地上ステーションに至っては、燃料不足で時々しか稼働しな
かったそうです。キンシャサの大統領官邸やバドリテの宮殿などが全世界と交信するためだけ
に必要な設備だったのではないでしょうか。

(6)貿易センタービルの建設(準備中)

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11−3  経済のザイリアニザシオン
11−3  経済のザイリアニザシオン