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     9−4 徹底した個人崇拝
  モブツ大統領が重要な演説を行なったり、外国の元首を歓迎する時は、キンシャサのサッカ
ー場などがよく使われますが、何万人の市民が動員されます。もちろん、強力な指導力をもっ
て国民を引っ張っていく大統領に対する自然発生的な支援の現れということもあります。しか
し、MPRの統制のとれた大衆の扇動、その道のプロにより人為的に盛り上げられ熱気も多分
にあります。大統領一行が到着する数時間前からアニメーション・グループがその場の雰囲気
を高めます。このグループのメンバーは職業的ダンサーであり、合唱隊であります。男女共に
緑の地にモブツの肖像やMPRの旗を刷り込んだ制服を着て、バンドの演奏する躍動的でリズ
ム感に溢れる曲に合わせて踊ります。声を合わせてモブツを称えます。もちろん伝統的な太鼓
であるタムタムも入ります。
  歌の間には「モブツ・オーイエ!MPR(エム・ペー・エル)オーイエ!」、「救世主モブツ、再建
の人モブツ、建国の人モブツ、創造の人モブツ・オーイエ!」という掛け声がかかると、民衆も
声を合わせてその言葉を繰り返すのです。そして会場の雰囲気が盛り上がったところで、入場
口からモブツ一行が入ってきます。モブツはレオパール(豹)の皮で作られたトークと呼ばれる
縁なしの帽子を少し斜めに被り、アフリカの大酋長だけが持つことを許される杖を必ず持ってい
ます。そしてゴリラと呼ばれる身辺警護の人たち、DSPの近衛兵に囲まれ、党と政府の要人を
従えて、中央の演壇の所まで歩いて行きます。その間モブツは大衆の割れんばかりの歓声に
杖を高く掲げて答えます。トップページのモブツの写真がこの登場の姿です。
 中央の演壇の周辺は要人のためにリザーブされています。政府高官、党の幹部、それに外
交団は勿論のこと、国営企業と大企業の経営者たち、各界代表者は予め大統領府のプロトコ
ールから招待状が届きます。急な時は、電話連絡で出席を要請されます。欠席者は党のしか
るべき担当者がチェックしていますので、簡単には欠席できません。例えば、モブツ支援の集
会が行われため、私企業にも休業の指示が出されますと、党の組織の者が回ってきて、もし仕
事を続けていると大変なことになります。
  このような歓迎風景はサッカーのスタジアムだけでなく、モブツが赴くところどこでも行われま
す。キンシャサの国際空港でモブツが出発する時、帰国した時、元首級の来賓を迎える時、そ
して地方に出掛ける場合は、その到着した空港でこの風景が見られます。もちろん、地方の場
合はキンシャサからアニメーション・グループが先発隊として送られ、その地のグループとの競
演になります。
  MPRの創設者であり総裁、共和国大統領であり国民の指導者モブツ・セセ・セコというタイト
ル入りのカラー写真は、いたる所に掲げられています。飛行場などの公共施設にあるものは特
大のサイズのものです。政府機関のあらゆるホール、執務室、大企業、中小企業を初め個人
店にも掲げられています。掲げていないと困ることになります。MPRの組織がチェックに入り、
非協力的な企業にはしかるべき措置が採られます。
  モブツは独裁体制を固めると、今度は国際的政治家としての地位の向上を意図して、頻繁に
海外に出掛けます。公式訪問のみならず、保養や私的な財産の確保のためにヨーロッパ、特
にスイスや南仏に長期滞在しします。1973年の例では、年間を通じて93日を海外で過ごしま
した。たっぷり3ヶ月ということです。そのように激しい出入りの際でも、ンジリの空港や市内の
大通りにはその都度モブツを称えるアーチが作られます。そのアーチには「国にいても、いなく
ても、モブツ・セセ・セコは我らが崇拝する人」、「ザイールは私の国、MPRは私の党、モブツは
私の主人」と書いてあります。
  毎夕、テレビの放送が始まると、国歌ザイロワーズの演奏とともに、画面には雲が流れ、そ
の流れる雲の中からまるで天使のようにモブツ・セセ・セコの姿が浮かび上がってきます。この
神格化されたような映像を毎日繰り返し見せられるのです。
  MPRの幹部会のセミナーの模様がテレビでながながと紹介されます。始まる前に例によっ
てモブツを称える儀式が行われます。政治局長は声も良くなければ務まりません。彼がまず1
フレーズずつ先唱します。その先唱を全員で復唱します。
  • 「我々は願う!」、「永遠の生命が!」、「モブツにあらんことを!」、「またその党MPRにあ
    らんことを!」、「我々はモブツのために歌う!」、「何故ならモブツはザイールを再興した
    から!」(繰り返し)
  • 「MPRは平等!」、「人のために尽くすのは、ウィー(フランス語の肯定語−はい)!」、「自
    分のために尽くすのは、ノン(フランス語の否定語−いいえ)!」
  • 「我々は歌い、そして踊る!」、「それは我々の指導者を褒め称えるため!」、「そして我々
    の愛を指導者に捧げるため!」(繰り返し)
  • 「オータンティシテは我々の政治哲学である!」、「我々はあるがままの我々でありた
    い!」、「人から押し付けられた我々のあり方は、ノンである!」
  • 「ザイール共和国には!」、「平和と正義と労働を!」
  • 「ザイールは偉大である!」、「ザイールは王者!」、「ザイールはオータンティシテ!」、
    「平和と正義と労働を!」
  • 「セセ・セコ、栄光のシンボル!」、「サロンゴ(仕事)、オーイエ!」、「モブツ、オーイエ!」
  • 「モブツは労働のみを愛する!」、「モブツは最も強力で強靱である!」
  • 「救国の人、モブツ!、再興の人、モブツ!、建国の人、モブツ!、創造の人、モブツ!」
  この間モブツは王座のような荘重な座に座って、この賛歌を聴いています。やがてモブツか
ら疑われて逮捕され、断罪されるチセケディやングザなどの顔も見えます。どんな気持ちで唱
和しているのか、テレビの画面では少なくも口を合わせて声を出しているようです。そしてこのよ
うな儀式が済んでから、やっと会議は始まります。その内容はこの儀式を見ていれば、大体推
測されると思いますが。

    9−5 体制を守る組織と人々
   以上に述べたことは、あくまでも政治・社会体制の表面的なことでありまして、舞台の裏でこ
のモブツが自分の権力の座を守るため、さらに独裁体制を強固なものにするためには、恐ろし
いほど強靱な肉体と技術をもった戦闘のプロたちが必要だったのです。
 (1) 大統領特殊師団(DSP)
 物理的に身を守る、いわばモブツの護衛組織としては泣く子も黙るという大統領特殊師団と
いうものを設けていました。そのメンバーは自分の部族であるンバンディ族の中から選ばれた
屈強の男たちでした。この部族はウバンギ川を越えて中央アフリカにも及んでいたので、中に
はそこの出身の人もいました。また、その一部にはイスラエル人やアメリカの黒人兵士もいたと
言われています。
 その人数は1万5千人とも2万人とも言われています。彼らは、血で固めた忠誠の誓いをして
いるだけに、モブツに対する奉仕は絶対的なものです。ザイールの軍人でまともな給料をもらっ
ているのは、彼らだけだと言われていただけに、モブツもその献身的な奉仕に見合う手当を十
分に払っていたのです。一般の兵士たちの給料の支払が遅れることはしばしばあり、彼らは自
分の食い扶持を自らで調達せよ、とまで言われたそうですが、このDSPの兵士たちについて
は、給料の未払いなどの問題は全くありませんでした。
 このDSPの幹部には大学卒の中から厳しい試験を経て採用された、士官学校の優秀な知識
人もいました。彼らは植民地時代からの軍事基地であたったキトナでベルギー人将校から厳し
い訓練を受け、さらには実戦的な訓練をエカトゥール州の熱帯森林の真っ直中にあるコタ・コリ
の訓練所で受けさせられたのです。ここでは、教官はベルギー人将校だけでなく、イスラエル人
将校もいました。中には厳しい訓練に体力を消耗して、命を落と人もいたとのことです。ここで
の恐ろしい訓練を思い出し、あるDSPのメンバーは次のように語っています。
 「我々は、熱帯雨林の中で生き延びることを学び、そこで各人が8平方キロの範囲の土地を
確保し、10日間、その地点で生活しながら、歩き続けることを義務づけられた。それだけでな
く、殺しを習い、作戦や急襲を、すなわち足跡を残さずに、敏速に仕事をすることを覚えなけれ
ばならなかった。」(C P:77)
 それは単なる肉体的訓練だけでなく、自然な心理的条件反射によって指導者モブツに完全忠
誠を尽くすように教え込まれたのです。「DSPの隊員が忠誠を誓うのは、大統領に対してであ
り、彼一人のためである。首相に対してでもなく、国家の組織に対してでもなく、まして国民のた
めではさらにない。大統領の名前を崇拝し、大統領を《指導者、建国の父》と呼ぶことを教え込
まれた。幹部たちは《モブツ主義》、すなわち、大統領の栄光のために編纂され、修正された国
家の歴史を教え込まれることになった。」(C P:80)
 このDSPの中にはさらにドラゴン大隊という400名ほどの選りすぐった精鋭部隊があり、この
兵士たちがモブツからの直接の指示で、学生運動の弾圧や、政敵の抹殺、隣国への軍事介入
などの手荒い任務をこなしていたのです。モブツ体制の下での虐殺や暗殺事件には、必ずこ
のドラゴン大隊の兵士たちが関与しています。
 1989年2月のキンシャサ国立教育専門学校の学生がデモ行動を起こそうとした時、容赦の
ない弾圧を行ったのもこのドラゴン部隊であり、1990年代に入り、モブツが民主化を推進せざ
るを得なくなった時に起きたルブンバシ大学事件でも、この部隊が主役を演じます。(第11章
3.参照)
 カビラの率いるAFDL軍がキヴ州から全国的に進撃し始めると、ザイール国軍は抵抗する術
もなく、崩壊してしまいましたが、このDSPだけは最後までキンシャサを護衛する姿勢を見せて
いました。しかし、キンシャサの東方200キロ余りのケンゲでの最後の対決で敗れると、もうキ
ンシャサを防衛する力はありませんでした。1997年5月16日にモブツがキンシャサを脱出す
ると、このDSPも蜘蛛の子を蹴散らすようにどこかへと姿を消してしまいました。そして、残った
兵士たちも武装解除されてしまいました。
  (2) 秘密警察と諜報機関
 DSPはいわばモブツの近衛部隊的な存在でしたが、さらに積極的に民衆や政敵の分子の中
に入り込み、反体制的な動きを事前にキャッチし、必要な場合はその分子を社会から分離し、
抹殺する諜報活動と武力行使の要員組織が存在していました。先ず、軍部の中に公安機関と
して、軍事的諜報・活動サービス(SARM)が設けられ、これに編入される兵士は、すべて大学
や高等専門学校の卒業生であり、ハイレベルの学力を持ったエリート集団でした。この要員は
海外まで出掛けていき、国外へ逃れた反体制派の学生や政治家の追跡を行ったり、場合によ
っては懐柔を図ることもありました。
 国民の一般的な締め付けに当たるのは、軍隊の中の公安秩序の維持に当たる憲兵隊であ
り、長年にわたりモブツの義兄に当たるボロジィ将軍の指揮下にありました。この憲兵隊員たち
は、日頃、市民に対し苛斂誅求を繰り返していましたが、その他の公安要員ほど怖がられた存
在ではなかのです。何か騒ぎがあれば、市民の側について、商品を掠奪する暴徒たちに、分け
前を要求していたとのことです。(C P=83)
 秘密警察はすでに植民地時代から存在していたものを、独立後も存続させたものでした。組
織としては問題が起きる度に名称を変えられ、CND(Centre Nationale de Documentation)とか
AND(Agence Nationale de Documentation)と呼ばれていましたが、内容的には何時も同じで、
要するに秘密警察であり、市民の中で反体制的な行動をする市民を捕らえて、特別の拘置所
に送り込み、そこで色々な形での拷問を繰り返していました。政治的な面だけでなく、経済的な
面でも規則違反を敢えて指摘して、商人や市場の女性の物売りなどからも、金品を巻き上げて
いました。その意味で、市民からは最も恐れられる存在でした。
 米国の「人権のための法律家委員会」が編集した「ザイール=政策としての弾圧」(1990年
刊行)にこのような公安機関から捕らえられて、投獄され、拷問を受けた人々のレポートが収録
されています。このレポートの中では、反モブツの運動を起こす度に逮捕されたチセケディの問
題や上記のルブンバシ大学事件の犠牲者についても報告がなされています。
 32年間のモブツ独裁体制を維持するために、この公安・諜報機関によって、国内のみならず
国外においてもどれだけの人々が捕らえられたり、抹殺されたり、懐柔されたか計り知れませ
ん。
  (3) 体制を維持する「知恵袋」
 モブツ一族と呼ばれる人々の数は、広い意味では千人及ぶとされていますが、狭義に解すれ
ば、モブツとその家族、およびンバンディ部族の出で、大統領府、軍および政府の要職につい
ている人々のことでしょう。この一族が経済的にも繁栄を続けるためには、大変な資金を必要と
しました。また、モブツはあらゆる組織と人材を金で動かすシステムを作り上げていただけに、
これにも常時資金をつぎ込む必要に迫られました。それに加えて、自分自身の栄光のために
国内外に宮殿を建設し、購入し、世界の何カ所かに分けて、蓄財の口座を設けていました。こ
れに国と国民の富を吸い上げて、それをこれらのことに注ぎ込みました。
 ただし、モブツは、国の経済・財政を管理する能力をほとんど持っておらず、信用する人物に
それを依頼するしかありませんでした。また、自分自身の財産についても、それを管理する意
欲も能力も持っていませんでした。結局、国と自分自身の財産を管理するのは、大統領府長官
であり、個人的秘書役の側近であり、2度目の結婚で正妻となったボビ・ラワダの双子の姉妹
であるコシアであったのです。その代表的な人物を二人だけ紹介してみましょう。
  @ ビゼンギマナ・ルウェナ
 独立前にルワンダから移住していた人で、コンゴー国籍を持っていました。スラリとした体型は
典型的なツチ族系の人です。頭脳明晰、決断も早く、モブツにとっては頼りになる人でした。し
かも、移住民であることから国民的な基盤を有していないが故に、自分の後継者になる可能性
はゼロというのが、モブツが安心できる点だったわけです。彼は1969年5月から1977年2月
まで約8年間大統領府長官のポストにいました。信任の厚い大臣でもその任期は2年そこそこ
だったことを考えれば、この長官が如何にモブツの信頼を得ていたかが分かります。
 ビゼンギマナは、モブツ体制の一番華やかな時代にこの枢要な地位にいたわけで、全ての大
規模なプロジェクトは、彼のOKを取り付けない限り、モブツのところには上げられませんでし
た。アメリカ、フランス、イタリア、ベルギー、そして日本の企業家たちがビゼンギマナ詣でをした
わけです。言い換えれば、ザイール経済を崩壊させた責任も彼にあるわけです。
  A セティ・ヤーレ
 大統領府の中でビゼンギマナのように「国籍の疑わしい人物」とライバル関係にあったのは、
いわゆる混血一族でした。このセティ・ヤーレは、ケンゴ・ワ・ドンドと同様に混血のンバンディ族
と呼ばれていた人です。この混血一族も純粋なザイール人でないという理由から、モブツの後
継者には成り得ない人々でした。モブツは好んでこの混血者を側近として、登用しました。外務
大臣を長く務めたロセンベ、首相を三度にわたり務めたケンゴ・ワ・ドンドなどです。
 セティ・ヤーレはポルトガル人との混血児でした。ロヴァニウム大学の卒業生ですが、学業で
は頭角を表すことができませんでしたが、秘密警察への情報提供者として活動していた経歴が
買われ、その警察での仕事に従事することになりました。身長155センチの小男ですが、野心
家で、出世のためなら何憚ることもないタイプの人でした。二度のシャバ紛争を予知できなかっ
たことで、責任をとらされるのではという周囲の期待を裏切り、逆に治安担当のトップに任ぜら
れて、モブツと個人的に接触するチャンスが広がりました。その中で、彼は単に治安問題だけ
でなく、モブツの個人的な雑務を進んでこなし、モブツが何をしたいのか、何を欲しがっている
のかを見抜き、てきぱきと処理することで、モブツの評価を得ていきました。そして、最後までモ
ブツにとってはなくてはならない人物であり続けました。モブツの公私にわたる財政管理から女
性問題の処理にいたるまで、全ての権限を掌握しており、特にモブツが傾倒していたマラブー
たち(1−4.参照)を取り込んで、自分のやりたい放題ができるようにしました。モブツの女婿で
あるジャンセンもこのセティ・ヤーレはモブツの財布を握っている以上、どうにもならない存在で
あったことをその著書で書いています。
 モブツの海外投資の面でも、バドリテとカウェレの宮殿の建設についても、全てこのセティ・ヤ
ーレの提案で決められ、その実施の面でも指揮を採りました。モブツと二人三脚の関係と言っ
ても、言い過ぎではないでしょう。従って、モブツの亡命でも、命運を共にした人物です。
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