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     10−4 ユニオン・ミニエールの国有化
  戦いはすでに1966年3月にコンゴー政府が新たに取引高税を導入した時に始まっていまし
た。これはコンゴーの財政破綻への緊急措置として採られた政策でしたが、ユニオン・ミニエー
ルの経営には大きな負担となるものでした。折しもチリとザンビアの産銅会社が銅価格を引き
上げたため、これに追従してユニオン・ミニエールも4月26日に取引価格の引き上げに踏み切
りました。しかし、チリとザンビアの産銅会社が、それぞれ自国の政府と十分協議した上でこの
引き上げを決定したのに対し、ユニオン・ミニエールは事前にコンゴー政府と協議しませんでし
た。そのことがモブツを大いに刺激することになったのです。モブツは直ちに、銅生産物に課せ
られる輸出税を17%から30%へ引き上げ、戦略的鉱産物の輸出量の10%を政府に供出す
る義務を全ての鉱山企業に課すことを発表しました。その目指すところはユニオン・ミニエール
に対する締め付けでした。次いで5月には係争問題に関するチョンベ・スパーク協定の破棄の
通告が行われ、6月のバカジカ法の制定と発展していきました。このような中でユニオン・ミニエ
ールもモブツへの不信感をますます募らせていったのです。
  同社は次のような幾つかの理由でモブツ大統領の採った措置に従えないことを明らかにしま
した。まず、本社のコンゴーへの移転についてですが、この移転は法人としての国籍の変更を
意味するもので、株主総会での全会一致による承認を必要とします。従って、数万人の株主か
ら早急にこの承認を取り付けることは、事実上不可能です。財政的理由もあります。この移転
はベルギー法の観点からすれば、会社の清算を意味するものであり、余剰資産価値について
35%の税金が課せられることになります。同社の資産から概算すると、その課税額は数10億
フランに上るものです。最後に技術的な問題として、ユニオン・ミニエールの経済活動は国際的
環境の中で行われており、緊密に連絡を取らなければならない顧客やパートナーはアフリカの
外部、特にヨーロッパにその本拠を持っています。また鉱山開発、製錬の両分野での操業に必
要な機材の調達、フランス語系の技術者の確保は主としてヨーロッパにおいて行われており、
その円滑な業務の遂行のためにブラッセルの拠点は必要不可欠です。最後にモラルの問題が
あります。コンゴー以外の地にある資産を含めて、全資産をコンゴー当局の支配下に置くこと
は、ユニオン・ミニエールの82%の非コンゴー株主に対して大きな経済的、精神的不信感を抱
かせることです。それは為替の変動要素、コンゴー・フランから外貨への変換などのリスクなど
から、株主に対して何の保証もできないことを意味します。会社がその従業員や資機材の供給
者に与えている保証を履行することができなくなるというのです。
  このような対立の中でも、現実的な解決を図るための話し合いがコンゴー側とユニオン・ミニ
エールとの間で11月の末キンシャサで行われました。そしてUMHKはそのコンゴーにおける
操業と業務を担当するユニオン・ミニエール・デュ・コンゴー(UMC)という新会社をキンシャサに
設立し、その資本金を50―50とすることを提案しました。それと同時にユニオン・ミニエール側
はこのUMCの操業と業務をバックアップするユニオン・ミニエール・エ・メタリュルジックという会
社を自らの後身としてブラッセルに置くことを条件としました。そして、この会社はUMCの全収
入の6%を売上から天引きし、その資金によって新しいUMCの経営と操業を支え、従来からの
製品販売権を確保し、実質的業務を担当するというのです。これではコンゴーにとってUMCの
実質的な支配は不可能であり、交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
  タイムリミットの1週間前の12月23日ユニオン・ミニエールは次のようなコミュニケを発表し、
モブツ大統領と正面から戦いを挑む姿勢を示しました。
  1. コンゴー政府の要求するように、本社をキンシャサに移転することは、コンゴー以外にある
    同社の資産までコンゴ ーの権限下に置き、株主や債権者への保証を確保することがで
    きなくなるので、これに同意できない。
  2. コンゴー政府が当社のコンセッションと開発権を接収するならば、ベルギー・英国共同企
    業である当社は会社、 株主および従業員の利益を擁護するため、全ての正当な手段を
    とることになる。
  3. しかしながら、当社は脅迫によるのではなく、また1965年2月6日のベルギー・コンゴー
    協定(注 チョンベ・スパ ーク合意)によって承認された権利が尊重されることを条件とし
    て、全ての関係者の権利と正当な利益を尊重して、コンゴー政府と協力を継続する用意が
    ある。
  4. ユニオン・ミニエールは1965年8億4、300万フラン(1、686万ドル)の利益を挙げた。し
    かし、1966年から適用される新課税制度により没収的課税が行われたとすれば、逆に7
    億8、800万フラン(1、556万ドル)の欠損となる。
  5. ユニオン・ミニエールは新会社を設立し、コンゴー政府に50%の株式保有を認め、かつコ
    ンゴーにある設備および全ての資産の所有権を譲渡し、またベルギーのユニオン・ミニエ
    ール社の株式の18%をコンゴー政府に与える用意がある。
  6. コンゴーにあるコンセッションおよび開発権の取り消しによって生ずる結果については、こ
    の行為が最終的には 横領に等しいものであるので、ユニオン・ミニエールはその責任を
    負えない。
  ユニオン・ミニエールが本社移転を拒否したことに対し、コンゴー政府はその日の内に、同社
の生産する銅の輸出を禁止し、本社移転の最終期限である12月31日までユニオン・ミニエー
ルの資産を管理するための暫定委員会を設けました。そして、その構成員としてベルギー人5
名、英国人1名、コンゴー人4名の委員を任命しました。管理委員の委員長を含め5人をベル
ギー人としたことは、ユニオン・ミニエール側との和解の可能性を残そうとしたものと思われま
す。
  それと共に政府はユニオン・ミニエール抜きで操業を継続するための新会社を設立すること
を決定しました。その資本金2億ドルの配分はコンゴー政府が55%、タンガニイカ・コンセッショ
ン(英国系)が15%で、残りの30%を市場に公開するというものでした。また15%を割り当てら
れたタンガニイカ・コンセッションもユニオン・ミニエールの説得もあり、最終的に3加を断りまし
た。さらに政府は1、500名の外国人従業員の職場と安全を保証したものの、現実にはユニオ
ン・ミニエールの3加していない新会社にベルギー人従業員と経営スタッフが残るという見通し
は立ちません。
  このように両者対立のまま、1967年1月1日の期限が到来し、ユニオン・ミニエールのコン
ゴーにおける資産は政府により接収されました。そして、その資産に基づき新会社ジェネラル・
コンゴレーズ・デ・ミヌレ(略してジェコミン)が設立され、2億ドルの資本金の内60%を政府が保
有し、残りの40%を外国の鉱山企業に割り当てることにしました。しかしながら、ユニオン・ミニ
エールの働きかけもあり、この引き受けを申し出る外国企業がなかったため、当面は政府が全
額を保有することになりました。それはユニオン・ミニエールが世界の産銅各社および銅の需要
企業に対し働きかけ、ジェコミンの生産物の不買と協力拒否を要請していたからでもありまし
た。社長にはカタンガ出身でユニオン・ミニエールの役員もしていたキブウエが任命されました。
しかし、その他の7名の役員は国会議員や労働組合の委員長から選ばれ、実業界からはエー
ル・コンゴーの社長が任命されただけでした。
  この新会社ジェコミンの操業と経営を継続するために、コンゴー政府はこの両分野での協力
を外国資本に要請するしかありませんでした。日本に対しても、すでに12月中に当時の杉浦
徳大使を通じて、日本鉱業(株)へそのような要請がありました。それは製錬の分野での財政
的、技術的協力、販売面での技術指導、ジェコミンの公開株式への参加などを内容とする要請
でした。しかし、当時日本鉱業はカタンガ南部での銅鉱山の開発のプロジェクト(第 章参照)を
極秘裏に進めていたこともあって、この要請に関心を示しても、単に交渉の駆け引きに利用さ
れる可能性が大きく、結局は進行中のプロジェクトにも悪影響を及ぼしかねないとして、この要
請を断りました。
  また、モブツはユニオン・ミニエールの親会社のソシエテ・ジェネラルと対立するランベール・
グループに、ジェコミン支援のための国際的コンソーシアムを結成してくれるよう依頼し、そのた
めにランベールに全権を委任していました。非鉄金属の分野での経験と技術に乏しいランベー
ルとしては、ユニオン・ミニエールと世界の産銅企業の協力なくしては、このコンソーシアムは実
現不可能であるところから、コンゴー政府に対して、最終的には2つの条件を付けました。
  一つはユニオン・ミニエールの接収に対して公正な補償がなされることであり、2つ目はこの
コンソーシアムにユニオン・ミニエールが参加することでした。裏舞台でのユニオン・ミニエール
の奔走にランベール・グループも後退を余儀なくされたのであり、1月30日に開催されたこのコ
ンソーシアムのための会議にはアメリカとフランスの企業が参加しましたが、単に情報交換の
ための集まりで終わってしまいました。
  モブツは国際的な包囲網の圧力を実感し、国家財政の危機的状況から、またこれからの外
資導入の環境造りのためにも、このユニオン・ミニエールの国有化の問題を早急に解決しなけ
ればなりませんでした。アメリカとしても、この紛争が長引けばコンゴーの経済状態がさらに悪
化し、モブツ政権の基盤が揺らぐことを恐れて、早期の解決をモブツに促していました。
  コンゴー政府とユニオン・ミニエールの交渉は急速に妥結に向かい、コンソーシアムの結成
が失敗してからわずか2週間後の2月15日にジェコミンとユニオン・ミニエールの間で協定が
締結されました。その要旨は次のようなものです。
  1. これまでの外国人技術者の職場はそのまま確保される。
  2. 生産物の販売は今後5年間ユニオン・ミニエールの関連会社であるソシエテ・ジェネラ  
    ル・デ・ミヌレ
    (SGM)に  委託し、ジェコミンはその手数料として売上の5%を支払う。
  3. 接収された資産の補償については双方の弁護士の間で話し合いを始める。
  これでバカジカ法の公布から8ヶ月を経て、ユニオン・ミニエール問題は一応落着しました
が、モブツ大統領もユニオン・ミニエール側も実際は同床異夢の気持で妥結したのに違いあり
ません。それは、モブツがベルギー以外の外資の導入を促進するため、投資法の制定を進め
ていた時でもあり、この接収問題を一日も早く解決し、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、日本
などのダイナミックな企業のコンゴーへの参入を夢見ていたからです。そしてユニオン・ミニエー
ルの国有化をベルギー側に認めさせたことで、アフリカの中では経済的ナショナリズムの勝利
を誇示したかったからです。
  他方でユニオン・ミニエールは、モブツによる一方的な接収を結果的に認めながらも、自らの
協力がなければジェコミンが一日も稼働しないということを内外に知らしめたことは大きな成果
でした。これからは技術協力を通じて実質的に経営に参加し、販売権を確保することでこの急
場を凌いだのです。それがひいては補償問題の解決につながると判断したのです。
  その後、国有化された資産の補償について最終的合意が得られるまで、2年半を要しまし
た。それは、一旦冷え切ったベルギー・コンゴー間の関係が再び温かいものになるのに要した
年月でした。ベルギー側も1966年〜67年の危機的な時期にコンゴーとの関係を冷静に見つ
める経験をしたのです。そして1969年には第 章のベルギーとの関係のところで触れるよう
に、両国関係は大いに修復されました。その一つの具体的現れがユニオン・ミニエール補償問
題の最終的決着でした。決着と言うよりほとんどベルギー側の要求をコンゴー側が認めたとい
うことでしょう。モブツもこの問題は危機的状況に陥りだしたコンゴーの経済の建て直しのため
にも、そして国際資本を積極的にコンゴーに呼び込むためにも、取り除かねばならない障害だ
ったのです。
  同年9月24日ユニオン・ミニエールの後身とも言うべきソシエテ・ジェネラル・デ・ミヌレ(SG
M)とジェコミンとの間で次のような内容の合意が成立しました。
  • SGMは今後25年間にわたりジェコミンに協力する。それはユニオン・ミニエールの外国
    人社員を引き続きジェコミンの操業に提供し、さらに生産物の販売を担当する。
  • その協力の対価としてSGMは今後15年間ジェコミンの総売上の6%を受け取り、16年
    目以降の10年間は同じく総売上の1%を受け取る。
  これでベルギー側の要求がほぼそのまま通ったことになり、1966年の交渉の際コンゴー側
が要求していたユニオン・ミニエールのコンゴー国外資産の内、コンゴー側の取り分(18%)は
放棄しました。それは国有化の際にユニオン・ミニエールがコンゴー外に保有していた生産物
のストックが主なもので、金額にすれば75億ベルギー・フランに上っていました。ユニオン・ミニ
エールはこの取り決めで失った資産は十分補償されたとして、満足の意を表するコミュニケを
発表しました。モブツとしてはこれで難問が一つ片付き、その1月半後、晴れてベルギーを公式
訪問できるようになりました。
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第 11 章 モブツ政権の経済運営は!
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