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第 8 章 邪魔者の排除
8−1
聖霊降臨祭の公開死刑
8−2
ピェール・ムレレの最後
8−3
チョンベの誘拐と謎の死
8−4
カタンガ憲兵隊の運命


   8−1 聖霊降臨祭の公開死刑
モブツは自らの独裁体制を確立するために邪魔になる人物を排除すると共に、国民に対して
反抗する者がどのような運命に陥るかをはっきりと知らせようとしました。その見せしめとして、
モブツ体制に疑問を持ちだした政治家を捕らえて、公開死刑に処しました。
1966年6月2日は、聖霊降臨祭(パントコート)と呼ばれるカトリックの祝日であり、信徒にとっ
てこの日はクリマスと復活祭に次ぐ重要な祝日です。この日の朝キンシャサの市中にある橋の
側で、4人の政治家が興奮する民衆の面前で絞首刑を執行されました。モブツは、「政治家は
一人も要らない」と警告したことがどんな意味かを世間に思い知らせたかったのです。モブツの
独裁政治の実体が次第に明らかになり、国民の一致団結、政治情勢の安定化、ナショナリズ
ムの高揚などの美辞麗句の下で、モブツは自分の意思が国家の最終決定であることを内外に
知らせました。
独裁体制の強化が一人歩きしだしたことに人々は気づき始め、口には出せない不満が少しず
つ広がっていました。国を逃れて、ヨーロッパに滞在中のチョンベもモブツにとっては不気味な
存在でした。チョンベは、ベルギーの保守派やモブツと喧嘩別れした外人傭兵と組んで、動き出
す可能性を狙っていたからです。
モブツは見せしめの生け贄を必要としました。それがこの4人の公開死刑だったのです。一人
は、モブツがクーデターを起こした時に首相であったキンバ、2人目はキンバの側近であり、ア
ドゥラ内閣の国防相を務め、ムレレの反乱軍鎮圧のため粉骨砕身したアナニー、3人目は多く
のコンゴ人の魂を揺すった新興宗教キバンギストの敬虔な指導者の一人であり、その宗教的
信念のために植民地時代に10年以上も獄中生活を強いられたバンバ、4人目はカサヴブの
左傾を憂慮し、その政策変更を思い止まらせようとした穏健派のマハンバでした。
この4人は、モブツの独裁政治がやがて潰れ去ることを予想して、その日に備えてお互いに相
談していたかも知れません。この4人に罠が仕掛けられたのです。若い将校たち数名がキンバ
のところに送り込まれた。この将校たちはそこで自らの不平不満を語り、モブツが独裁体制を
固めていることに反撥を感じていることを披瀝しました。
将校たちは思い詰めて、如何にも時が来れば実力行動も辞さないような言動を弄しました。そ
れはキンバたちから同調する言葉を引き出すための罠だったのです。キンバとその側近たち
は、不用意にも現体制の内閣が潰れた時に、それにとって代わって閣僚になり得る人物のリス
トを考えました。
それに追い打ちを掛けるように、キンシャサの軍人市長であるバンガラがこの4人に近づき、挑
発を続けて、彼らに本気で行動を起こすように仕向けました。彼らは完全に罠に嵌められてし
まったのです。5月30日彼らはモブツ大統領と私的に話し合うという名目で、バンガラ将軍の
市長官邸に招待されました。モブツにとっては煙たい存在であるクレオファス・カミタツも呼ばれ
ていたが、彼は同族の兵士の通報で官邸に入らず、危うく難を逃れました。
その和気あいあいの集まりに現れたのはモブツ自身でなく、武装した兵士たちでした。突然、こ
れまで相談相手であった人たちが態度を豹変させました。将校たちは政治的陰謀であると喚き
ました。キンバ、アナニー、マハンバ、バンバの4人は逮捕され、拷問を受けました。
その翌日の朝、情報担当国務長官のJ.J.カンデは次のような声明を読みあげました。
「キンバ、アナニー、マハンバ、バンバの4人は軍事法廷に掛けられて、死刑を宣告され、絞首
刑に処されることになる」。
未だ軍事法廷も開かれない前に、すでに判決を読み上げるような前代未聞のやり方であり、処
刑が先にありきと言わんばかりの発表でした。逮捕の翌日、モブツは大統領令をもって《特別
軍事法廷》を設け、その法廷がこの4人の被告を裁き、その日の内に死刑を宣告しました。
4人は法廷に引きずり出される前に、モブツのところに連れて行かれました。それはルムンバ
逮捕の時と全く同じ光景でした。4人が兵士たちに痛めつけられるのを、モブツはあざ笑いなが
ら見下ろしていました。キンバは自分たちを唆せた将校たちと対面させてくれるよう懇願しました
が、聞き入れられる筈はありません。
軍事法廷の裁判官として3人の大佐が任命されましたが、取調もなく、罪状の認定もなく、反対
論告もなく、弁護士も選任されず、僅か5分間の審議で極刑が言い渡されました。被告の4人
は、興奮した傍聴人たちの騒ぎの中で、しかも数分の限られた間にかろうじて次のような陳述を
行うのが精一杯でした。 「我々がやったことは、軍人独裁政治に反対していた将校たちの要請
で、とって代わりうる文官内閣のリストを作成しただけである」。そして彼らの話し相手であった
将校たちとの対面を要求したのに対し、裁判長はこれが軍事法廷であり、議論する場ではな
く、罪人を罰することがその任務であるとして、その要求を拒否しました。
 判決が言い渡された後、被告たちは大統領の特赦を懇請しましたが、これに対しても、裁判長
は「元首が決定を下したからには、それは決定であり、それが全てである」としか答えませんで
した。法廷は大統領から命じられたことを行うだけという意味です。
国際世論もこのようなやり方で処刑が行われることに憂慮して、モブツ大統領の元には多くの
国の元首やローマ教皇から恩赦の措置が採られるようにとの懇請が寄せられましたが、モブツ
は48時間以内の処刑を変更しませんでした。
処刑の1ヵ月後放映されたベルギー・ラジオ・テレビ放送局のインタビューでモブツは次のよう
に答えています。
 F.フランソワ記者― 世界の人々は(処刑の)事実に怒りを感じているのでは。少なくとも絞首
刑の執行が裁判の手続きを踏まずに、何はともあれ我々西欧人が言うところの裁判の手続き
を踏まずに行われたという事実に驚いていると私は思うが。
 モブツ大統領― 裁判は行われた。先ず、陰謀が発覚した翌日に私が公示した大統領令という
ものがあり、それが特別軍事法廷に対してその法廷がやるべき任務について全権を付与して
いる。共謀者たちが自分たちの弁護人を立てることを認めるかどうかは、この特別軍事法廷を
構成する3人の高級将校のやるべきことであった。
軍事法廷は大統領が決めたことをやるだけだと言い、大統領は軍事法廷に全てを委せて、そ
の結果は法廷に聞いてくれと言うのです。これではまるで責任のなすり合いです。公式には絶
対に自分がやったと言わないのがモブツ流であり、ルムンバの暗殺の時、そしてこれから述べ
るムレレの虐殺の時も全く同じパターンです。
この4人の政治家の無謀とも云える公開死刑はモブツの政治家たちへの見せしめであり、自分
への支持を明確にしない者がどんな目に遭うかということを知らせる明白なメッセージでした。
この出来事がモブツの恐怖政治の確立に大きな役割を果たしたことは紛れもない事実です。
 
   8−2 ピェール・ムレレの最後
1968年の10月にモブツ大統領は、革命派勢力の指導者だったピェール・ムレレ(3照)を罠
に掛けて捕らえて、殺害しました。正しくは殺害させたと言うべきでしょう。裁判にもかけず、これ
以上酷いやり方はないという方法で殺害しました。これはキンバたちを見せしめのために公開
死刑にしたのとはまったく違ったケースです。
国際的な信義に反し、強引なやり方でムレレをコンゴ・ブラザヴィルから引き渡してもらい、その
後直ちに殺した理由は一体何だったのでしょうか。このムレレの悲劇は、モブツが仇敵を絶対
に忘れず、必ず復讐することを物語っています。
ピエール・ムレレとは、第6章で言及した革命派勢力の指導者のことです。1964年月に外人
傭兵部隊やベルギーのパラシュート部隊の介入によって、革命勢力は制圧され、ムレレの武装
兵力は森の中に逃れて、ゲリラ戦術で生き残りを図っていました。外人傭兵や旧カタンガ軍の
気骨ある兵士たちによって強化されたANC(コンゴ国軍)は、焦土戦術や心理作戦によりこの
ゲリラ武装勢力の掃討を図っていました。ムレレは北京などで受けた訓練を生かし、兵士たち
の規律と組織を保つという面では、なかなか優れた人物でした。ANCは彼らから生活に必要な
すべての物資の供給を絶ち、生活の苦しみから森を出てくるゲリラ兵に対しては食糧、医薬
品、衣類などを与えて、切り崩しを図りました。
1965年7月ムレレはバンドゥンドゥ州のクイル地域の森を出て、カサイ川を渡り、東に向かっ
て進み、220キロ先のディケセ地区に潜入しようとしました。東に向かったのは、世界的な革命
の士であるチェ・ゲバラがタンガニイカ湖周辺でキューバ人の部下を率いて、住民の革命蜂起
を準備していることを、その時点でムレレは知っていたからです。しかし、東に進むことは、森か
ら出て、サバンナ地帯に入ること意味します。そうなれば、得意のゲリラ行動が難しくなり、危険
度が増します。ムレレは地元の部族たちと共同作戦をとるANCの攻撃を再3にわたり受け、敗
走を続けました。1965年11月5日頃からムレレは、中核となる兵士グループを失い、最も頼
りにしていた部下ベンギラもいなくなりました。同志たちと離ればなれとなったムレレは、妻のレ
オニーと共に川の中に一日中潜み、難を逃れました。2人はその後、クイルの森に戻って潜伏
生活を送ることを余儀なくされ、時折彼を慕って来る人たちを迎えるような生活を送っていまし
た。彼の首には50万フランの賞金が賭けられていましたが、彼の人柄や信条のお陰で、誰も
彼を密告しませんでした。
それから2年半後の1968年の5月、外界から忘れられた彼のところに、ある使者がやって来
ました。それは、コンゴ・ブラザヴィルにいるムレレの友人たちが設立したコンゴ共産党から派
遣された代表団でした。孤立無援であったムレレは、大変感激し、その代表たちに自分の運動
を復興するための支援を求めました。党の代表者たちは帰りがけに、大至急支援を送ることを
ムレレに約束してくれました。
しかし、その後何の音沙汰もなく3ヶ月が過ぎたので、ムレレは焦りを感じていました。8月にな
ると自らブラザヴィルに赴く決心をします。クイル川の中程にあるキヤカという村からレオニーと
共に丸木舟に乗り、ブラザヴィルを目指して川を下りました。もちろんのことながら、移動するの
は夜間だけてしました。
クイル川がカサイ川とムシエで合流し、さらにそれがコンゴ河に流れ込む地点であるクワムート
に9月13日に到着し、対岸のコンゴ・ブラザヴィル側のヌガベという村に舟を着けました。そこ
から陸路200キロを車で走り、その日の内にブラザヴィルに到着しました。クイルの森をレオニ
ーと共に出て、無事ブラザヴィルに到着したことを2人は喜びました。しかし、そこには恐ろしい
モブツの罠が仕掛けられており、それが自分の最後の旅となったのです。
ムレレは、この時点ではモブツ大統領にとって脅威を与えるような人物ではありません。彼はブ
ラザヴィルで昔の友人たちに会いましたが、運動再興を積極的に支援してくれる人は誰もいま
せん。しかしながら、モブツとしては1964年以来のムレレの反抗を忘れることができません。
それは農民たちを巻き込んだ最も執拗な反体制運動だったからです。モブツは彼をおびき出
し、抹殺することを執拗に考えていました。
コンゴ・ブラザヴィルでは親仏派のユルー大統領を倒して、軍人のマリアン・ヌグアビが政権の
座に着いていました。彼は中国の支援を受け、自らの肩書きも革命評議会議長と称していまし
た。ヌグアビの前に連れてこられたムレレは、武装解除された一人の逃亡者に過ぎませんでし
た。ヌグアビとしては、ムレレに長居されることは迷惑でした。彼を保護したり、国外亡命させた
りすることで、モブツの恨みを買いたくなかったからです。ヌグアビ政権の中にも、河向こうの大
国コンゴの権力者であるモブツと血族関係のある人たちがいて、モブツの言葉巧みなアプロー
チを無下に断ることはできませんでした。モブツがこのブラザヴィル当局者たちに、色々と魅力
ある援助を具体的に申し出ていたからです。
とにかく、モブツはムレレの身柄を引き取りたかったのです。
ムレレの方もモブツがどんなに凶暴な人間であるかは十分承知していました。そして自分に会
いに来てくれるルムンバの信奉者たちも口を揃えて、モブツの本心はあなたを殺すことにあると
警告していました。しかしながら、ムレレは2週間にわたりブラザヴィル当局者と話し合った結
果、早い機会にキンシャサに戻ることを彼らに約束しました。それはモブツが国民的和解を提
唱し、政治犯に対する特赦の大統領令を出していたことに加えて、「非常に高いレベルの人か
ら身の安全を保証することが伝えられた」からです。非常に高いレベルの人とはモブツに他なり
ません。
ヌグアビ議長は、革命政府としての立場から、ムレレを安全の保証なしでキンシャサに引き渡
すことはできません。両政府の間で交渉が行われ、その結果ブラザヴィルの首相は次のような
声明を出しました。
「我々は彼がここを出て行くべきであるとの結論に達した。明日、彼の帰国に関する合意事項
を確認するために、ボンボコがやって来ることになっている。モブツはその名誉に賭けて、我々
に約束をした」。
モブツとしてはムレレを国民的和解の象徴として受け入れることを認め、身の安全の保証をプ
レイアップするために、特使としてボンボコ外相をブラザヴィルに派遣することにしたのです。さ
らには、いささかの疑いをも抱かせないために、ボンボコに大統領専用船カマニョラ号を使わせ
てブラザヴィルからムレレを乗せて来ることにしました。
ムレレは、自分がキンシャサに戻ることに反対する仲間たちに答えて言いました。「モブツは私
を殺すだろうとあなた方は言う。多分そうかも知れない。その場合、アフリカと全世界の世論は、
あなた方がやはりモブツ体制との戦いを続けていかねばならない理由を理解するであろう。私
はこれまで生きてきて、あらゆるところで種を播いてきた。種は石だらけの土地ではなく、良い
土の上に落ちている。やがて芽を出すだろう。私が死んだとしても、あなたたちが戦いを続けて
いく」。
9月28日ボンボコ外相は大統領専用船に乗って、コンゴ河を渡り、ブラザヴィルに来て、ラジオ
を通じて語りました。「モブツ将軍がキンシャサで布告した一般的な特赦は、すべての人に適用
されるものである。従って、我々はムレレを兄弟として迎え入れる。彼には我が国の完全な解
放のために、我々と共に働いてもらう」。
翌日の9月29日にカマニョラ号の上ではムレレの帰国を歓迎するレセプションが開かれ、その
午後にムレレはボンボコと一緒にキンシャサに帰ってきました。キンシャサでの歓迎会を主催し
たのは、ボボゾ将軍でした。たとえモブツが国民的和解を提唱していたとは言え、かつての謀
反者に対して異常と思えるほどの歓迎でした。その夜ムレレはボンボコ邸に赴き、そこで夜を
過ごしました。昔の仲間がやって来て、彼のキンシャサ復帰を祝福すると共に、皆が口を揃え
て警戒を怠らないよう忠告していました。そして旧友との再会を喜んでいたのも束の間でした。
モブツがアルジェのOUA元首会議の後、モロッコ経由で10月2日に帰ると、雰囲気は一変し
ました。今までのボンボコの約束とは全く違った様子にムレレが気づいた時は、すでに遅かった
のです。彼はこれまで犯した罪で裁判に掛けられるべきであると言うのです。国民的和解はど
こに行ったのでしょうか。ムレレはココロ兵営キャンプに連れて行かれ、そこで前年11月の掃
討作戦の際に別れてしまった側近のベンギラと再会しました。そして9日の夜、2人は残酷極ま
りないやり方で殺されたのです。ラジオ放送がムレレの処刑を発表したのは、翌10月10日に
なってからでした。その放送によれば、軍法会議による死刑の罪状は殺人、強盗、強姦、放火、
武器による強奪・・・などです。しかし、10月2日に突如として捕らわれて、処刑されるまでの間
に軍法会議が開かれた形跡は全くなく、ブラザヴィル政府が「モブツ大統領の名誉に賭けて約
束してくれた」と声明した安全の保証は全くの空手形に過ぎませんでした。
ボンボコ自身が後になって、このムレレの処刑の様子を次のように語っています。(*5)
「生きたまま彼の耳は削がれ、鼻は切り取られ、目玉は眼窩からえぐられ、投げ捨てられた。彼
の生殖器は切り取られた。未だ生き続けていた彼の腕、それから脚が切断されました。身体の
残りの部分は袋に入れて縛られ、河に沈められた」。
コンゴ・ブラザヴィル政府は、いやしくも両国政府間で取り決められたムレレの身の安全に関す
る合意がモブツによって、いとも簡単に破棄されたことに強い怒りを表明し、外交関係を断絶し
ました。その他のアフリカ諸国もこの国家間の合意が守られなかったことに衝撃を感じ、ムレレ
処刑に非難の声明を遠慮なく出しました。モブツとしても、予想以上の強い反響を静めるため
に、ボンボコ外相を近隣6カ国と象牙海岸、チュニジアなどに派遣し、処刑の事情の釈明に当
たらせました。
事件後暫くしてから、アフリカ専門誌のジュヌ・アフリックは、モブツ大統領とのインタビューにお
いてこの殺戮についての真相を質しました。モブツはこの事件の責任を認めざるを得なかった
ものの、ムレレが殺された時、自分はモロッコにいたことを理由に、直接の関与は認めません
でした。しかし、すでに述べたとおり、このモブツの発言は嘘で固めたものです。関係者たちは1
0月2日モブツの帰国を待って、その指示に基づきムレレをココロ・キャンプに連行し、拷問と残
虐行為を加え始めたのです。これがモブツ流であり、自らの手は汚さずに、標的の人物を抹殺
するのです。

 
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8−3 チョンベの誘拐と謎の死
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