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第 7 章  モブツが満を持して舞台に
7−1
カサヴブ大統領の変心 
7−2
モブツのクーデター決行
7−3
モブツの政権構想
7−4
学生を体制内に引き込んで


    7−1 カサヴブ大統領の変心
  カサヴブ大統領は、10月13日にチョンベを解任し、キンバ政府を発足させてから、アフリカ
統一機構の元首会議が開かれるアクラに乗り込みました。何とかしてコンゴ問題が議題として
審議されることを避け、参加元首の理解を得ようとしました。しかし、カサヴブの立場は苦しいも
のでした。新しいキンバ政府を首脳会議で承認してもらうためには、首脳会議を牛耳るアフリカ
の進歩派グループに接近して、外人傭兵追放も約束しなければなりません。この国際舞台でア
フリカ諸国の支援を得ることで、国内的には舞台裏で実権を固め続けているモブツに対して、
自分の政治的立場を回復したかったのです。それは、新憲法の下での大統領選挙においてチ
ョンベを破って再選されることを狙っていたからです。
  アフリカの非同盟グループに接近するというカサヴブ大統領の外交面での賭けとも言うべき
方向転換を聞いたアメリカやベルギーの関係者は少々驚きました。それは国内的にはルムン
バ主義の流れを汲む人たちを元気付けることであり、外人傭兵を追い出した後には、また革命
派勢力が再び元気を取り戻すことです。コンゴを反共産主義闘争のアフリカにおける橋頭堡に
したい欧米陣営が、黙っている訳にはいきません。
  10月23日首脳会議でカサヴブ大統領は、中国の支援を受けている隣国コンゴ・ブラザヴィ
ルと和解するため、自国の内戦鎮圧に活動した外人傭兵の追放を約束する旨の演説を行いま
した。それは、アフリカの進歩派諸国に接近することであり、かつてはルムンバの良き理解者で
あったガーナのンクルマ大統領にも支持を求めたかったのです。
  ルモンド紙のアクラ特派員はカサヴブの演説を10月26日付の記事で次のように解説してい
ました。「外人傭兵部隊を追放するという決定と近隣諸国との関係を改善するという明確な意志
表示は、コンゴを観察してきた人々にとって、この国が近日中にその全般的な政策を変更する
ことを意味するものである」。
  さらに、カサヴブは同記者とのインタビューで自分の思いをつぎのように吐露しました。「(傭兵
たちは)非合法的に我々のところに入って来た人々であり、チョンベは彼らを自分の個人的な
政策のための道具として、使っている」。そして革命派軍の掃討にこの傭兵を黙認してきた自ら
の立場については、反乱軍を制圧して、国の統一を確保するためにやむを得ず、最低限の傭
兵を使わざるを得なかったと言い訳をしました。(*1)
  モブツはカサヴブが焦って暴走することをジッと待っていました。後になってモブツはモンハイ
ム(*2)に次のように語りました。
  「カサヴブはアクラの首脳会議において、アフリカの革命派のリーダーたちとの合意の中で、
予想以上の暴走をしてしまった。信頼すべき筋から、カサヴブがガーナと結んだ幾つかの合意
事項の内容について聞かされた。それによると、レオポルドヴィル駐在のナイジェリア警察官た
ちの交替をガーナ部隊が実施し、さらにこの部隊のミッションには、自分を初めとする数人の政
治家の排除も入っていた。そして実際に11月後半にはガーナの先発隊の一部がブラザヴィル
に到着していた」。
  カサヴブと共に、キンバもこれまでの革命派のリーダーであるスミアロやグベニエとの対話を
提案するなど、左旋回をするに至り、ベルギーやアメリカの観測筋はコンゴが再び混乱に陥る
恐れを感じていました。そうなれば、《強い男》モブツを登場させる他に道はなかったのです。す
でにこの時期になると、ベルギーの新聞はモブツによるクーデターが準備されていることを臭わ
せています。モブツもリーブル・ベルジック紙に次のように語っていました。
  「行動すべき時期がどんなに迫っているか、あなたたちは信じることができないだろう。流血を
見ることになろう。それ以上のことは今は言えない。私が言わないことを民衆の噂が言ってい
る。アクラでカサヴブ大統領は傭兵たちを追放するだけでなく、モブツ、チョンベその他をアフリ
カから追い出すことを話し合って来た。それを実行するために、技術的支援という名目で、ガー
ナは手助けの専門家を小グループの形で送る約束をした」。
  カサヴブの声明を聞いたモブツは大いに怒り、語りました。「コンゴ国軍(ANC)の司令官として
外人傭兵を追放することはしない。傭兵たちは、お金のためとはいえ、我々のために戦ってくれ
た立派な兵士である。コンゴが彼らを必要としない時が来れば、彼らは栄誉の礼を受けて、我
が国を去ることになる」。そして、傭兵の助けを借りたことについては、自分がその責任を取ると
明言しました。
  もう一つモブツがストップを掛けたのは、キンバのグベニエやスミアロと話し合いです。カサヴ
ブとキンバにとって、傭兵を追い出す以上、革命派勢力が再び勢いを増して、国内情勢が混沌
とすることは目に見えていました。従って、キンバはこれらの革命派勢力のリーダーと話し合わ
ねばならなかった。それはモブツとして許せないことであった。モブツはAFPの記者に向かって
叫んだ。「自分がANCの指揮をとっている限り、外人傭兵は追い出さない。反乱の徒が首都に
入ってくることは許さない」。
  カサヴブ大統領はアクラから帰国すると、そこでの発言については言葉を濁し、モブツと直接
的な対決をする気はありませんでした。それどころか11月4日付の大統領令をもってモブツ大
佐を陸軍中将に昇進させ、その正式な昇格の式典を19日にキンシャサの兵営キャンプで行い
ました。この昇格を誰が決めたのかを思えば、カサヴブの権威の失墜を見せつける出来事でし
た。そこに集まった内外の記者団は、カサヴブを差し置いてモブツにマイクを集中しました。モ
ブツはただ単に「政治情勢がどうあろうと、軍は中立を保っている。自分も中立の立場を守り通
すだけである」と答えていました。しかし、その心中では、最早カサヴブとキンバを追い出すしか
ないと決めていたに違いありません。ただ単に、クーデターの首謀者の肩書きが大佐から中将
に格上げされただけです。
  モブツが忠告を発し、カサヴブが言葉を濁しているにも拘わらず、キンバ首相やカミタツ外相
は左寄りの道を歩み始めていました。外交的には非同盟諸国との接近を推し進め、中国の支
援を受けているコンゴ・ブラザヴィルとの対話を再開し、その一方でいわば保守的な旧仏領アフ
リカ諸国や南ア・ローデシアとの関係を疎んじる行動をとり始めていました。
 
     7−2 モブツのクーデター決行
  モブツの決断を待ちながら、CIAは1960年の時と同じように、色々なデマ情報を意図的に流
して、危機感を煽っていました。曰く、ポーランド船籍の船がマタディ港に接近している。曰く、ガ
ーナと中国の兵士3大隊がブラザヴィルに駐屯し、カサヴブ大統領支援のため何時でも介入で
きるようになっている。モブツもこんな情報をわざとらしく取り上げ、もしガーナ兵が河を渡って
来るようなら、自分の手で彼らを河の中に叩き込んでやると息巻いていました。モブツに対する
支援はCIAを初めとする外国の諸機関から確保され、軍部の体制も準備万端でした。
  11月20日にANCの最高司令部のメンバーに対して、24日水曜日の夕刻5時に集合するよ
う指示が出されました。その名目は、丁度1年前の11月24日にスタンレーヴィルがベルギー
軍の介入で奪回されたことを記念してということでした。それならば、カサヴブ大統領も特に怪し
むことはなかったでしょう。
  コンゴ史総論の著者ンデウェル教授によるクーデター当日の模様は、次のようなものでした。
(*3)
  「24日の朝早くモブツの秘書はモブツから電話で呼び出され、マリラ参謀本部長のところに
行くように命ぜられた。そして最高司令部のために政治、社会、軍事情勢についてのレポートを
作成するように言われ、二重扉の参謀本部長の執務室に鍵を掛けられ、閉じこめられた。秘書
は昼前にそのレポートを書き上げると、マリラ本部長はそれを取り上げ、秘書は再び執務室に
閉じこめられ、夜の9時になりやっとそこから出されて、モブツのところに連れ戻された。驚いた
ことに、そこにはコンゴ国軍最高司令部のお歴々が顔を揃えていた。
  秘書は座らされ、モブツの発言を筆記させられた。それはクーデター断行を正当化することを
骨子とするコミュニケであった。ANCの法務担当将校であるベルギー人のヴァン・ハレウィン大
佐がその文章を法務的な見地からチェックして、仕上げる役割を果たした。
  24日の一日中、キンバ政府の主要メンバーは何か異様な雰囲気を感じて、気掛かりであっ
た。キンバ首相自身は、最高司令部メンバーが集まるというのに、ANCの最高司令官の肩書
きを持つカサヴブ大統領がこの会合に出席しないのは、どうしてかと訝っていた。キンバ首相
は、8時半頃、何か訳の分からない事態が起きていることに気付いた。
  キンバは首相に任命されて以来、ビンザ・キャンプの中に住んでいた。その日の夕方、彼はキ
ャンプを出ようとしたが、警備の兵士たちに止められた。彼らによれば、上司から誰もキャンプ
から出さないようにとの命令を受けているとのこと。キンバ首相は強引にその関門を通らせても
らい、自分の執務室にたどり着いた。9時半頃、外相のカミタツと一緒に電話で大統領と連絡を
取ろうとしたが、電話は通じなかった。ますます不安になったキンバは自ら大統領のところに赴
こうとした。大統領官邸のあるスタンレー丘(現在のンガリエマ丘)への道は閉鎖されていて、通
してもらえなかった。彼は首相の身分を明らかにして執拗に通すように迫ったが、兵士たちは武
力行使を口にして、首相を脅かした。仕方なくキンバはビンザのキャンプに引き返し、そしてそ
の翌朝クーデターの声明をラジオで聴くことになった。
  モブツの邸宅では夜を通して騒がしい雰囲気が続いていた。声明文がタイプで打ち上がると、
モブツはそれを手にとって部屋に入り、一人で落ち着いて読み直し、その内容と字句をチェック
した。その間に、ワバリ少佐とロノー少尉が呼ばれて、これからの任務を言い渡された。それは
先ず、カサヴブ大統領官邸の電話線を切断することだった(それでキンバ首相の電話は通じな
かった)。次いで、翌朝の5時にラジオの放送が始まると直ちに、ラジオを通じてANC最高司令
部のコミュニケを読み上げることであった。
  マリラ大佐の方は、7時にカサヴブ大統領に同人を解任する信書を手渡すことを命じられた。
大佐がこの信書をカサヴブの前で読み上げると、大統領は、後で将軍に会うことにすると落ち
着いた声で言って、引き下がった。このような事態を予め予想していたと言わんばかりの態度
であった」。
  1960年9月の第1回目のクーデターでは、その最大の目的がルムンバの排除であったの
で、モブツはカサヴブ大統領には特別の配慮を行いました。しかし、今回は違います。カサヴブ
は大統領の座についたモブツを将軍と呼び続けようとしましたが、モブツはそれを許しませんで
した。カサヴブの住居に兵士を派遣し、監禁状態にしました。カサヴブも観念し、モブツ大統領
宛に特別の配慮を要請する手紙を送りました。その要請の一つであった故郷に隠退することに
ついては、モブツもこれを認めました。そしてモブツは中央銀行のンデレ総裁に相当な金額を
用意させ、それをカサヴブに届けさせました。12月4日カサヴブは、コンゴ国軍に謝意を表明し
たうえで、少人数の側近と共にキンシャサを後にし、故郷バ・コンゴのマユンベに向かいまし
た。
  コンゴ独立運動の第一人者であり、清廉で、コンゴの伝統を背負った古武士のような最後の
政治家が、舞台から消えました。
   
     7−3 モブツの政権構想
  モブツの政権掌握により議会制民主主義の政治にストップが掛けられ、コンゴの歴史の新し
いページが開かれました。国民は反乱や混乱に苦しめられていただけに、喜びの声でこの政
変を迎えました。政界はこれからの政治がどうなるのか思いめぐらす余裕もなく、混乱が避けら
れたと言う意味で、このクーデターを歓迎しました。
  国会は早速25日に会議を開き、軍の声明を承認する決議を行いました。FDCはモブツを支
持する声明を出し、CONACOは、モブツが5年間政権を掌握することの意味も分からないま
ま、軍のとった措置に敬意を表明しました。
  軍隊の兵士たちはどうかと言えば、彼らは最高司令部の将校たちの手でクーデターが実行さ
れ、軍人による政権掌握が成功したことで、満足していました。モブツは将校たちに次のように
告げました。
  「私は諸君が私の行政府の特命大使になってもらうことを期待している。自分は5年間共和国
大統領を務める。しかし、その間私は諸君と同じように軍人であり続ける。軍服を着続けるし、
私の手当は総司令部からもらうことにする。さらに、内閣の舵取りをするのは武勲に輝く軍人で
ある。それはムランバ大佐である。そして国軍の総指揮をとるのはボボゾ将軍である」。
  またもやコンゴはその国家としての未熟さを克服できず、議会政治を通じて混乱を乗り越える
ことができませんでした。
  モブツはこのクーデターによって、カサヴブ大統領を解任し、キンバ内閣を潰し、向こう5年間
自ら大統領の座に着き、首相には人望の高いムランバ将軍を任命することを宣言しました。そ
して、その間大統領令をもって統治を行い、その大統領令の効力は国会により廃棄が決議され
るまで続くものとしました。そのことは、国会の機能を制限付きではあるが、一応認めるものでし
た。
  モブツは次のように語りました。「国軍は決意を固めた。最早政治家は必要でない。一人も要
らないことは明白である。もし一人でも政治家が集会を開こうとするならば、その男は軍法会議
に送られる。そして5年の刑を食らうことになる。軍法会議は大衆を集めたスタジアムで開かれ
る」。
  政治家が一人も要らないという言葉は1960年9月のクーデターの時と同じ言い分です。それ
は政治家たちに対する警告であり、政治家による如何なる論評をも許さず、全ての権力を自分
一人に集中するということです。それがまたモブツの国際的後見人たちが彼に期待したところで
もありました。
  モブツが最初に署名した大統領令は、クーデター5日後の11月30日付けのものであり、これ
によって自らに《特権》を賦与するものでした。さらに12月に入ると、今後5年間にわたる措置と
して次のような決定を発表しました。すなわち、その間は政党の活動を禁止し、国会議員の報
酬を減額し(休職にしたので止むを得ないかも知れない)、汚職を厳禁し、ダイヤモンドなど貴
石の密輸の取締を強化し、ストライキの権限を停止することにしました。
  立法権に関しては1966年3月7日に、国会が再会された際、モブツは上下両院の議員から
大統領令を審議し、採決を行う権利を剥奪してしまいました。そして大統領令を審議する権限を
国会から取り上げ、単に事後に、その内容について報告を受けるだけとしました。国会はモブ
ツの施政について何の発言もできなくなりました。
  さらに、5月22日、ついに自らの《特権》を5年間にわたり、《全権》とすることにし、これで完全
な独裁政治の基礎固めが出来上がりました。この年の11月28日に、ドイツのシュピーゲル誌
の編集長にモブツは次のように語りました。
  「最初、我々は発布する政令を国会に付議し、採決してもらっていた。しかし、一部の議員が
一連の政令に異議を唱え、採決を拒否した。従って、国会と私自身との間で起きる力の対決を
避けるために、これらの政令を国会に付議することを停止した。ただし、同時に私は、今後5年
間にわたり国会がなすべきことを、文書をもって定めた。私は上下両院議員に対して、先ず休
息することを命じ、5年間にわたり国会の活動を休止するよう告げた」。
 
     7−4 学生を体制内に引き込んで
  モブツは1960年9月の時と同様に今回も、旧来の政治家たちを排除し、若いエリートたちを
登用して政治を行うことを考えていました。クーデターから3週間目の12月14日、モブツはキ
ンシャサ郊外のロヴァニウム大学を訪れました。学生たちはモブツを救国の政治指導者として
熱烈な歓迎を行い、学生総会の代表ムワンバはモブツを歓迎して、「真実を語る勇気をもった
リーダー」と祝意を表明しました。そしてムワンバは自分たちコンゴの選良が有能な若者であ
り、大統領の期待に応える用意があると挨拶しました。それに応じてモブツも、若い世代がこれ
からの国の発展に積極的に参画するよう呼び掛けました。
  これまで国外や国内の大学で学んでいるコンゴ人学生の学生運動は、幾つかの組織に分か
れ、その組織も孤立状態にありました。これを機に、全ての大学の学生運動を統合するコンゴ
学生総同盟(UGEC)が設立されました。そして、その第2回総会においてモブツ政権に次のよ
うな意見書を提出することにしました。
  @ ルムンバを国民的英雄とすることを宣言し、その栄誉をたたえる記念碑を建立すること
  A 国内政治の民主化の一端として地方分権化を推進すること
  B 国民投票によって選出される大統領制度を確立すること
  C 国会を一院制にすること
  D 婦人参政権を具体化し、有権者の年齢を18歳以上とすること
  モブツはこのような決議の内容を受け止めて、その幾つかを政権掌握早々に具体化して行く
のですが、それはあくまでも、自分の独裁政治の強化に利用できる範囲内のことであり、逆に
このような提案を取り入れて、あたかも国民的政治家であるというイメージ作りに利用しました。
  UGECを指導していた若いエリートたちは、何時しかモブツ政権の中に組み入れられ、革命
人民運動(*4)の創立に奔走し、大統領府や内閣に入り、やがてはモブツ体制の中核と成って
いきました。
  この年の10月にUGECは、第3回総会を開き、国家の再編成についてその立場を明らかに
しました。そして、国民的、民主主義的、人民主義的革命のために社会主義国家を建設するこ
とをそのスローガンとして掲げました。そのために人民の願望を具体化する《最高意志決定機
関》として、単一政党制を設立すること、大統領はこの党の推薦による候補者から国民投票に
よって選出することなどを決議しました。これはそのまま体制の単一政党設立と全く同じ趣旨で
す。
  このような学生運動の流れは、モブツの命を受けた工作人の介入によるものでした。純粋だっ
た学生リーダーたちはモブツ体制の中に次第に取り込まれて行き、やがては独裁政治の担い
手に変身していきました。スローガンの民主、人民、社会主義の文字の実体が消えていくことに
気が付いた時は、すでに遅かったのです。後になって学生たちが本気でそれを守ろうとした時、
彼らは暴力による弾圧と直面するしかありませんでした。ただ、この時点では未だ、新生国家の
建設に尽くそうという純粋な気持ちで行動したのです。
  やがて学生運動家は、この単一政党のMPR、そしてその青年部であるJMPRに吸収され、
独裁体制の基盤を固める手段として使われることになりました。
  行政府についても同じように、若きエリートたちがモブツの意向に沿って登用されていきまし
た。1966年11月8日には大統領職総事務局が設立され、UGECのリーダーであったカマン
ダがその局長に任命されました。その総事務局には3つの局が設けられ、一つは経済・通商・
財務局、二つ目は司法・行政局、3つ目は技術・鉱山・エネルギー・通信局でした。そしてそれ
ぞれの局はJ.ボンゴマ、J.ウンバ・ディ・ルテテ、B.ビセンギマナなどの若いテクノクラートに
よって運営されることになった。その1年後、この総事務局は大統領府と改称され、内閣の各省
庁よりはるかに大きい権限と予算を持ち、重要案件のみをモブツの側近だけで処理していくメ
カニズムが確立されました。この大統領府の初代長官にはロリキが任命されたが、その後ビセ
ンギマナが長年にわたりこの長官の座を占め、モブツの知恵袋の役割を果たすことになりま
す。
  ビセンギマナは長身族出身のルワンダ人であり、痩身でスマート、物静かなインテリであり、
大学を卒業した後、イタリアの国営企業ENIで実務の研修を受けた経歴を持っています。モブ
ツがこのビセンギマナを行政面での最側近として重用したことには色々な理由があります。勿
論、彼が有能であったからですが、隣国出身である以上、どんなに権力を集中的に持っても、
ライバルになるリスクが全くないこと、陰の立役者に徹するしかないことが最大の理由でした。
  1966年の6月30日はモブツが政権を掌握してから迎える最初の独立記念日でした。この記
念日に際し、モブツ大統領はキンシャサのスタジアムに集まった大群衆を前に、独裁政治を行
う上で決定的な3つのことを発表しました。その第一はパトリス・ルムンバを国家的英雄として
崇めることであり、第二は単一政党の《革命人民運動(MPR)》の創立であり、第三は新憲法
の発布でした。
  第一のルムンバについては、上記の通り学生たちの要望に応えるものであり、自分の独裁政
治に学生や若い活動家たちを引き込んでいくためには、巧妙な手段でした。さらには、国際的
にもあたかも自分がルムンバの流れを汲むナショナリストであるかのような錯覚を与え、特に
アフリカ諸国でモブツの名前を売り込むためには、必要な儀式でした。
  第二の単一政党の創設については、全ての政党の活動を禁止した上で、モブツの独裁政治
を賛美し、あらゆる批判や反抗を封じ込めるための政治的道具として翼賛機関を立ち上げたの
です。この国民革命運動=MPRについては第X章で改めて述べます。このMPRこそがモブツ
の独裁体制を可能にし、国民を挙国一致の美名の下で抑圧し続けることを可能にしたからで
す。
  第三の新憲法については、1967年の6月4日から20日間に及んだ国民投票の手続きを踏
んだ上で、この新憲法を公布しました。この憲法は、権限の異常なまでの集中を合法化するも
のであり、アフリカの諸国の中でも類を見ない憲法です。立法権については、大統領自らが直
接国会に法案を提出し、一定の条件の下ではその立法権を大統領自らが行使することになっ
ている。そして、国会の同意が得られない時は、大統領は直接国民投票に訴えることができま
す。国家予算についても、緊急の場合には、国会の承認なしに自ら財政支出を行えるようにな
っています。とにかく大統領の権限は限りなく広範囲に及ぶものです。それでも未だ不十分だっ
たのか、その後1980年2月までに実に10回近くの憲法改正を行います。
 
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