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第 2 章 ジョセフ・デジレ・モブツの生い立ち  
2−1
出生から公安軍に入るまで
2−2
 広報紙担当として記者活動を
2−3
 アヴニール紙の記者となる
2−4
ブラッセルで研修中に
2−5
モブツの人柄について

   2―1 出生から公安軍に入るまで
 ジョゼフ・デジレ・モブツは1930年10月14日、エカトゥール州のリサラという村で産声をあ
げました。このリサラという村はコンゴ河に面しており、そこに住んでいる住民は、バンガラ族の
流れを汲む小さな集団であるヌバンディ族の人たちでした。彼らは丸木舟を巧みに操り、漁業
を得意とする村人であり、この大河の恵みに頼って暮らしていました。
 母親のイエモは端正な顔立ちの美人で、初めはヌバカ族の酋長一家の中で暮らしており、正
妻という身分ではなかったが、この酋長との間に4人の子供を産んでいました。その後、イエモ
はこの酋長のところから離れ、宣教師たちの料理人をしていましたアルベリック・グベマニと結
婚することになり、彼女の4人の連れ子も村の慣習に従って、新しい父親の下で暮らすことにな
りました。その4人の子供の内の一人がジョゼフ・デジレ・モブツでした。
 モブツ自身インタビューの中で、自分の子供時代が波乱に満ちた、厳しいものだったこと、父
親がカトリックの宣教師たちの料理人という貧しい家庭だったことを語っています。何よりも母親
のイエモには深い尊敬の念を持ち続けていました。大統領になってからレオポルドヴィルの最
も大きな病院(* )の名前をオピタル・ママ・イエモとしたことでも、それは伺えます。大統領にな
ってからも、何時でも本当に心を割って話すことのできた唯一の人がこのママ・イエモであり、こ
の母親の言うことには逆らえませんでした。
 父親のグベマニは、カトリック・スクート(淳心)修道会の宣教師たちの料理をその器用さで覚
え、ベルギー人の間では腕のいい料理人として通っていました。ジョゼフが4歳の時、家族はキ
ンシャサに移り、父グベニエはデルクールという名のベルギー人判事のところで働くようになり
ました。デルクール夫人は、夫の事務所でうろちょろしている幼い子ジョゼフ・デジレが物覚え
の良いことに気づき、フランス語を少しずつ教えていました。
しかし、間もなく父親のグベマニは病に倒れ、1938年8月にキンシャサの病院で亡くなりまし
た。ジョゼフが8歳の時のことです。その2年後、母イエモは、ジョゼフを連れてエカトゥール州
に戻ったが、夫の家族とは折り合いが悪く、その家族に世話になることを避けていました。そし
て、修道院で働かせてもらって生計を立てていました。その間、ジョゼフ・デジレは、父方の祖父
と大叔父の世話になりました。
 修道会の神父たちは、ジョゼフ・デジレがしばし問題を起こす腕白な子供であるが、それと同
時に本を読むことに夢中になる、なかなか頭のいい子であることに気づいていました。この時
代のコンゴにおいて教育は、カトリック教会や修道会を離れては、考えられないことであり、優
秀な子供は教会学校の中で頭角を現わし、その中でフランス語とカトリック教理を学び、聖歌隊
に入り音楽の才能を見出されたのです。さらに上級の学問を続けるためには、神学校に入るし
か道はありませんでした。
 ジョセフ・デジレもその初等教育を教会の学校でスタートしましたが、神学校への道は選びま
せんでした。選ばなかったというより、神父たちが規則を守らず、無謀な行動をほしいままにす
るこの腕白少年を追放してしまったのです。父親を亡くした後、通学を一時中断していました
が、ジョゼフ・デジレは、16歳の時、母方の叔父の世話になり、ムバンダカで再び学校で勉強
するようになりました。しかし、無断でキンシャサに遊びに行ったり、図書館の本を勝手に持ち
出したりしたため、神父たちは、彼を退学にしました。それは、ジョセフ・デジレ・モブツが19歳
の時のことでした。その翌年の1950年2月に、彼は公安軍に強制的に編入され、そこで7年を
過ごすことになります。
 植民地時代の慣行として、公安軍の新兵の募集を割り当てられた酋長は、村の厄介者を先
ず志願者に指名していました。それは、公安軍の規律と訓練が厳しく、気の弱い若者では務ま
らなかったからです。それに酋長としては、村の頑固者をお払い箱にする良い機会でもありまし
た。神父たちも同じような考えで、彼を公安軍に送り出したのでしょう。ただ、この青年が後にな
って、この国の大統領になり、ベルギーに対し憎愛の絡んだ戦いを挑む人物になるとは、想像
すらできませんでした。
 1951年の11月に、彼はルルアブール(今のカナンガ)にある公安軍教育センターに送ら
れ、そこで書記と会計の研修を受けることになりました。後に、彼自身が述べているように、「私
は人の言うままにならず、馬鹿げていること、不当と思えることは受け入れなかった」のであり、
「理解できない命令には服従しなかったので、鞭打ちの懲罰を受けることにもなった」。 そして
何時も、反抗的な兵士たちのリーダー役を務めていました。それでも、知能の面でも、肉体的な
訓練の面でも卓越した成績を収めており、同期の仲間の中で3番目の成績で、このルルアブー
ルのセンターを卒業しています。1953年に、キンシャサの公安軍の3謀本部に配属され、そこ
で会計士とタイプ要員のチーフに任命されました。その翌年には、コンゴ人としては最高の階級
である軍曹に昇任されています。

    2―2 広報担当として記者活動を
 ジョゼフ・デジレはこの首都の本部で、彼の生涯に大きな影響を与えることになるマルリエー
ル大佐に出合いました。大佐は、すでにこの時点で、公安軍のアフリカ人化を準備し、コンゴ人
の育成を急がねばならないと考えていました。彼は、このルルアブールから配属されてきた、頑
固者という前評判のモブツ軍曹に注目しており、この軍曹にやる気を起こす仕事を与えました。
それは、公安軍のリンガラ語機関紙《サンゴ・ヤ・ビスー(私たちのニュース)》の編集という仕事
でした。その仕事には、リンガラ語を自由に使えるスタッフが必要だったのです。この仕事を担
当させられてから、モブツは、取材のために色々な人物と交流することが許され、それがモブツ
の視野を広げるのに大いに役立ちました。
モブツは、マルリエール大佐が自分にこの新しい道を開いてくれたことに対して、感謝の気持ち
を持ち続けていました。それは、モブツの最初の子供が生まれた時、この大佐に名付け親にな
ってもらったこと、自分が3謀本部長に任ぜられた後も、最も信頼のおける顧問として、大佐を
相談相手としたことを見ても、よく分かります。
ジョゼフ・デジレ自身も早くからジャーナリズムには関心があり、中学時代に学級新聞の作成
に携わることもありました。自己主張の強い若者だっただけに、このサンゴ・ヤ・ビスーの編集
にあたっても、自分の出生の地からほど近いバンジヴル(現在のモバイ)の地名から《ド・バン
ジィ》というペンネームを使って、自分の記事に署名を入れていました。それも3面記事的なも
のより、どちらかと言えば社説や政治経済の分析記事に力を入れていました。当時、彼の記事
を読んだ人々によれば、モブツの記事は、相当広い視野を持ち、問題の核心に迫るものだった
が、その反面、主観的な色彩が強かったとのことです。
モブツは生涯初めてと言っても良いほど、水を得た魚のように、意欲的に取材活動を行い、資
料を漁って読み、内外のジャーナリスト仲間との接触を広げていきました。その時の仲間には、
後で自分が政権を取った時、情報大臣に任命したジャン・ジャック・カンデや、その後、報道の
自由を踏み潰した際、廃刊に追い込んだ新聞社のオーナーのガブリエル・マコッソなどがいま
した。そして、その当時レオポルドヴィルで仕事をしていましたベルギー人記者たちのところにも
よく出入りしていました。
この時のジャーナリストとして学んだことが、モブツの政治家としてのキャリアーに大きな影響を
与えました。報道機関の活用と弾圧、世論の操縦術にいたるまで、彼が権力者として最も得意
とする分野でした。国内ばかりでなく、国際舞台でも報道機関を巧みに利用し、自分の危機的
状況を抜け出すことに成功した例もあります。
1955年7月26日に彼はビアティブワ・ボンベ・ビアテネという女性と結婚しました。ママ・モブ
ツとなった彼女は、モブツとの間に9人の子供を設けました。そして、彼女は大統領の初代夫人
となり、その人柄やカトリック教徒としての敬虔な態度から、多くの国民に慕われました。彼女の
その後の悲しい運命については、また後の章で詳しく触れることにします。

    2―3 アヴェニール紙の記者となる
 1956年の初めに、ベルギーの現地の新聞である《アヴニール》紙は、アフリカ時事ニュース
という欄を設けることになりました。そして、ジャーナリストとして世に出ようという野望を持って
いたモブツが、この欄の担当者に採用されました。彼に目を付け、バックアップしてくれたのは、
ベルギー人のピエール・ダヴィステールであり、彼とモブツは、その後も長い間親密な関係を保
ち続け、それがベルギーとザイールとの関係が極度に緊張した時、貴重なパイプ役を果たしま
した。
モブツは自分が社会に出て、一つ一つ階段を上っていくに当たって、自分を本当に支援してく
れる人が誰であるかを、鋭敏に見抜く能力を持っていました。そして、その助けには十分報いる
ことに気を遣いました。そのことは、ダヴィステールとの関係だけでなく、その後政治家になり、
権力を蓄えていく中で出会ったあらゆる分野の人間関係について言えることです。
ダヴィステールは、この時事ニュース欄の記事を書くに当たっての心得をジョゼフ・デジレに、
手取り、足取り教え込みましだ。その当時の植民地の情勢を考えれば、単にセンセーショナル
な記事を書けばよいというものではなく、ベルギーの公安当局を刺激しないように、しかも自国
の要人とのインタヴューでは、彼らの自尊心を傷つけないようにしながら、記事を書かねばなり
ませんでした。その技術とコツを手っ取り早く覚えられたのは、ダヴィステールのお陰です。そし
て、モブツは《ド・バンジィ》の署名入りの記事を書きまくりました。
1956年末に、モブツは公安軍の7年の兵役義務を終え、本格的にジャーナリズムに専念する
ことになりました。この年の7月、ジョゼフ・デジレはこの新聞社で、反植民地主義運動のリーダ
ーでしたパトリス・ルムンバに初めて会いました。その2年後の1958年10月に、パトリス・ル
ムンバはコンゴ国民運動(MNC)という政党を結成し、独立運動の中心人物となったのです。
モブツもその2ヵ月後にMNCの党員になり、やがてこのルムンバに引き立てられ、政治活動に
入り、権力の座に近づいて行きました。しかし、その時点では、ルムンバも独立早々に、この自
分が引き立ててやった男によって逮捕され、むごい仕打ちを受けた挙句、殺害されることになる
とは想像できませんでした。
1958年、モブツにとって一つの転機が訪れました。この年にベルギーの首都ブラッセルでは、
植民地時代の栄華を飾る最後の出来事として、万国博覧会が開催され、その催し物の一つと
して、植民地報道機関会議が開かれました。ダヴィステールは、この会議を取材するためにジ
ョゼフ・デジレをブラッセルに派遣することにしました。
当時、コンゴ人が海外に出かけることは、非常に難しく、その点では英・仏の植民地より大いに
遅れていました。ベルギー人は、自分たちのコンゴが他国からの影響を受けるのを望まず、他
国の人たちがコンゴへ移住するのを制限してきました。逆にコンゴ人が海外に出かけることもな
かなか許しませんでした。そんなコンゴ人がグループをなして海外に出掛けるのは、この万博
の時が初めてでした。彼らは、会場にコンゴの森と自分たちの生活の小屋であるニュンバを再
現し、博覧会に興を添えたのです。
そんな時代だったので、ジョゼフ・デジレにとって生まれて初めてコンゴを離れて、この植民地プ
レス関係者会議に参加することは、貴重なチャンスでした。エカトゥール州の小さな漁村から出
てきて、キンシャサでの活動を踏み台に、ついに宗主国の首都に足を踏み入れることができま
した。
彼はブラッセル滞在を利用して、すでにこの地で活動している同胞と積極的に付き合いました。
また、モブツは、ベルギーでは少数派ではあるが、植民地の独立に好意的なベルギー人たち
の集まりにも顔を出しました。モブツはジャーナリストとして勉強をブラッセルで続けたかったの
ですが、滞在資格の点で、取材期間以上は残れませんでした。この点では、植民地住人に対
する規則は厳格でした。モブツは何とかして、研修の名目でベルギーに戻りたいと考え、植民
地当局からベルギーへの再入国の許可を取り付けることに成功しました。後で分かったことで
すが、彼は相当早い時点で、ベルギーの公安当局の情報提供者となっており、この再入国の
許可もそのことと無関係ではなかったのです。
ジョゼフ・デジレは、1959年1月のレオポルドヴィルでの大規模なABAKO党の騒乱事件を取
材した後、植民地体制の変化に大きな加速が掛けられるのを見ながら、再びブラッセルの地を
踏むことになります。

    2―4 ブラッセルで研修中に
 ブラッセルに戻ったジョゼフ・デジレは、ベルギー報道協会のジャーナリスト学校と社会研究
上級学院に通うことになりました。当時のモブツを知っている人たちによれば、彼は熱心に本を
読み、謙虚な態度で学び、自分の意見も積極的述べる青年でした。街にも良く出かけ、若い人
たちの集まる酒場にも足を運んでいました。もちろん、加速度を上げる母国の独立への動きに
も、細心の注意を払っていましたし、ブラッセルにおける同胞の政治活動にも、何とかして入り
込もうとしていました。それは、当時の若いコンゴ人ならば、皆が考えていたことであり、自国の
独立のために自ら役立ちたいという熱望を持っていたからです。いわんや野心家であるジョゼ
フ・デジレにとっては、どんなチャンスでも逃さないつもりでした。さらには、ベルギー公安当局
の情報提供者としての任務もあったに違いありません。
 モブツにとって大きなチャンスが訪れたのは、この留学中に円卓会議が始まったからであり、
独立の指導者ルムンバと親しくなるチャンスが与えられたのです。ブラッセルの国際空港にル
ムンバが到着した時、彼を出迎えたコンゴ代表団の中に、モブツの姿がありました。
 1958年にアヴニール社でルムンバの面識を得ていましたモブツは、すでにMNCのブラッセ
ル駐在代表の肩書きをもらっていました。モブツは、ルムンバに巧みに近づき、ルムンバをサ
ポートする労を惜しみませんでした。原則として、この円卓会議にはベルギーに留学中のコンゴ
人は3加参加することを許されませんでした。それでモブツは、ルムンバの秘書役としてコンゴ
代表団の内輪の話し合いには顔を出し、円卓会議の入場者をチェックする役目をもらっていま
した。
そんな役をしていたモブツの姿を見たPSA(アフリカ連帯党)の創立者であるカミタツは、モブツ
にそこの「若い男前の大男」と呼び掛け、内輪の会議の場から出て行くよう声を荒げて叱責した
ことがありました。後日モブツが政権の座についてから、カミタツは嫌というほどその仕返しを受
けます。そのことについてカミタツは次のように述べています。
 「モブツは、この私の厳しい発言を覚えていて、絶対に許すことができなかったと思う。その時
期に、このような会合の場に、彼が姿を現わしたことが、偶然の出来事でなかったことは明らか
である・・・。というのも、その後になって、この時点ですでにモブツ研修生は、ベルギー公安サ
ービスの情報員であったことが分かったからである。ルムンバは、面倒を見てやった弟子の役
割を知る由もなく、自分の政治活動の秘密を喋ってしまうのであった」。(*2)
コンゴ側が相談する交渉戦術がモブツを通じてベルギー側に筒抜けになっていました。カミタツ
やその他の人々は、コンゴの政治をリードしていかねばならなかったルムンバのモブツに対す
る甘い対応、言い換えれば盲目さを注意しましたが、空しい結果となりました。モブツは、ルム
ンバにブラッセルの格好のビストロを案内したり、その手足となって便宜を図ったりしながら、そ
の信頼を得ていました。
 この円卓会議は2月20日に終わり、独立の期日を6月30日とすること、その前に立法議会
の選挙を行うこと、コンゴ政府を発足させることなどが合意された。そして、経済と財政問題に
関する第2の円卓会議が4月に始められた。ベルギー側としては独立の名を与え、経済的隷属
の実を取るための重要な会議でした。コンゴ側からは、主要な政党の代表が出席することにな
っていましたが、ルムンバはMNCの代表としてブラッセルに未だ残っていましたモブツを指名し
た。
 レオポルドヴィルでは独立を目前にして、政治的な熱気が高まっており、この第2円卓会議
は、どちらかと言えば技術的な問題を処理するものと考えられ、コンゴ人たちの間ではこの会
議は余り話題にならなかったのです。しかしながら、ベルギー側としては、独立後のコンゴに実
質的な支配権を持ち続けるためにこの会議を十2分に利用したかったのです。この会議にMN
C代表として出席したモブツは、後になってこの若き日の苦い思い出を次のように語りました。
 「こちらは経済活動の経験もない、哀れな無力の新聞記者であり、それがベルギーの財界の
最大級の老獪な人物たちと同じテーブルに着いているのである。私は財政面での教育は何も
受けておらず、コンゴの他の政治運動を代表している仲間たちも、私以上のことはなかった」。
(*3)
 そして現実的にも、モブツとその仲間たちは、議題の内容を理解するのがやっとであり、対等
な交渉などできる訳がなかったのです。未だ新聞記者だったモブツにとっては、忘れることにで
きない屈辱であったに違いなく、このようなやり方は、訴訟に値すると、モブツは機会あるたび
に繰り返し述べていました。
 独立の時期に間に合うようにと、ジョゼフ・デジレは帰国することになるのですが、ブラッセル
滞在中の出来事の一つとして、忘れてならないのは、ユダヤ系アメリカ人の金融業者モーリス・
テンペルスマンと知り合いになったことです。この人物はCIAと深い関係を持っており、CIAのコ
ンゴ問題担当者であるローレンス・デブリン(暗号名ビクター・ヘッジマン)の友人でもありまし
た。このテンペルスマンがモブツをデブリンに紹介したのです。
 デブリンは、コンゴ人との接触を求めて当時ブラッセルにおり、コンゴの独立と共に、レオポル
ドヴィルに入り、CIAの現地支局長として、ルムンバの暗殺を指揮した人物です。デブリンが接
触を持ったコンゴ人の中で、最も信頼に値する人物がモブツであったことは間違ありません。こ
れ以降モブツはCIAのバックアップを受けて、軍の中でその地位を築き、やがて1965年11月
にはクーデターにより、政権の座に着くことになります。
デブリンもまた、そのモブツから大変な経済的利益をお返しに貰いました。1974年にCIAを退
職したデブリンは、「キンシャサに踏みとどまり、ニューヨークに本社があるレオン・テンペルスマ
ン・アンド・サンのザイール支社長となった。テンペルスマンは、金属、貴金属の鉱物資源を扱う
会社であり、《モブツの国》でダイヤモンドを採掘するのもその事業活動の一つであった。」(*4)

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2−5  モブツの性格について
2−5 モブツの性格について