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第 6 章 革命派の勢力拡大とその制圧
6−1
ムレレに代表される革命派勢力 
6−2
キヴ州とオリエンタル州でも
6−3
チョンベの再登場と革命派の制圧
6−4
外人傭兵とベルギー軍の出動
6−5
新憲法の下での政治的再編成

     6−1 ムレレに代表される革命派勢力6−1  
  中央政府が不安定な状況を続け、政府軍の横暴な略奪行為に泣かされていた地域では、ル
ムンバ主義の流れを汲む革命派勢力が住民の信頼を次々に勝ち取って、政治的組織を固め
て行きました。その革命派勢力の核となったのは、一つはピエール・ムレレがバンドゥンドゥ州
のクゥイル地方を中心に展開したゲリラ的抵抗運動であり、もう一つは、オリエンタル州(現在の
オー・コンゴ州)とキヴ州で、ギゼンガ、グベニエとスミアロなどが指揮した反体制運動でした。そ
のような革命派勢力を率いたに指導者たちの一例として、ピエール・ムレレを取り上げてみま
す。
  ムレレは、ルムンバやギセンガの政治的姿勢を生ぬるいと批判するほど、急進的で戦闘的な
人物でした。ルムンバ亡き後、ムレレは先ずスタンレーヴィルのギゼンガ政府の大使としてカイ
ロに赴任し、大使の職を解任されてからはモスクワ、ベイルートと渡り歩き、そのベイルートで、
やっと自分の運動を支援してくれる中国と出会えました。
  彼は1962年3月から中国に滞在して、ゲリラの戦術、政治教育のやり方、地雷や爆薬の製
造、銃砲や通信機器などの技術を学びましだ。1年後の1963年7月に西アフリカ人に扮して
キンシャサに戻りました。彼の目的は農民の中に革命を浸透させ、革命によって国民の支持を
得た政権を樹立することでした。
  ムレレは先ず闘争の場所としてレオポルドヴィル州の東側に隣接するバンドゥンドゥ州のクゥ
イル地区を選び、さらにカサイ川とコンゴ河が合流するマインドンベ地区を根拠地としました。コ
ンゴ河沿いの町であるムシエやボロロを完全に支配下に置いたのは、1年後の64年の7月で
した。これらの拠点は、首都キンシャサを制圧するのには、戦略上最も有利な地域でした。ブラ
ザヴィルには、革命戦士の教育のキャンプを設け、海外からの支援受け入れの窓口としまし
た。
  ムレレは毛語録を真似たモットー集を掲げ、規律の厳しい、そして住民を味方に引き付ける行
動を兵士たちに求めました。それと共にカリスマ的な要素の強い呪術的な力を持つリーダーと
して、人々を惹き付けていました。戦闘の前に行われる禊ぎの儀式によってゲリラ兵士たちは、
不死身になれると信じており、戦闘の時、《マイ・マイ・ムレレ》(マイとは現地語で水の意味)と
叫んで突進すれば、敵の弾が当たらないと信じていました。この狂信的な突撃に対して、モラル
の低い政府軍の兵士たちは戦闘意欲を失ってしまうのです。ムレレはアフリカの歴史の中でも
最も規模の大きい農民の反乱を組織したのです。それが故に、体制派のコンゴ人やヨーロッパ
人たちを恐怖に陥れたのです。
  ムレレの闘士たちは、修道院と行政機関を攻撃の対象としました。これらが昨日までの白人
権力の象徴だったからです。それと同時に、農民を味方に付ける努力もしました。革命軍はま
ず農村にその勢力を張り巡らした上で、キクウィットやイディオファなどの町に向かって侵攻して
行きました。一方で、特殊部隊をレオポルドヴィルまで潜入させ、64年の5月には破壊活動を
行いましが、散発的なものでした。
 
     6−2 キヴ州とオリエンタル州でも
  1964年4月になると、ブラザヴィルからキヴ州に潜入した革命兵士たちは、キヴ南部のウヴ
ィラとフィズィにその根拠地を構えることに成功しました。この2つの町は、タンガニイカ湖の湖
畔にあり、戦略的にも重要な地点であり、ここからキヴ州だけでなくカタンガ州北部やオリエン
タル州への作戦の拠点ともなりました。湖上の交通によって、外界との接触も容易になりまし
た。
  この東部で革命軍を指揮したのは、ガストン・スミアロ、ローラン・カビラ、オレンガなどでした。
革命軍兵士たちはシンバ(スワヒリ語でライオンを意味する)と呼ばれ、政府軍の兵士たちから
恐れられていました。《ドクター・フェティシュール》と称する呪術師から不死身の洗礼を授けら
れると、兵士たちはシンバと呼ばれ、その印として豹の毛皮の小片を頭に着けてもらいました。
戦闘では麻薬の効果のある薬草を口にして、恐怖心を麻痺させるようなこともやっていました。
  シンバの恐ろしさに戦意を失った正規軍の兵士たちは、彼らが入ってくる前に、逃げ出しまし
た。そして残していった車輌や武器を手に入れて、シンバはその戦力を強化していきました。シ
ンバたちはボードワンヴィル(現在のモバ)からカバロ、マノノ、コンゴロ、カボンゴと西に進み、7
月だけでカタンガ州の北部のほとんどを制圧しました。さらにキヴ州西部マニエマ郡のキンドゥ
およびカリマ、カソンゴなどを次々と陥れました。
  このようにして、革命派軍は7月末には、カサイ州の北部、オリエンタル州、それにモブツの出
身地であるエカトゥール州にまでその勢力を伸ばしてきました。
  1964年8月5日ついにスタンレーヴィルを占領し、そこでグベニエを大統領とする《コンゴ人
民共和国》の設立が宣言されました。さらに、レオポルドヴィル州に隣接するバンドゥンドゥ州ま
でが攻撃の標的となり、首都から300キロ以内のボボロ、ムシエなどが制圧されました。そして
その州都であるバニングヴィル(バンドゥンドゥ)にまで迫る勢いを見せました。この時期がいわ
ば革命派勢力の全盛の時期であり、その支配する範囲は国土のほぼ半分に及びました。
  革命派勢力の政治的組織としてはCNL(解放国民評議会)があり、その議長には、アドゥラ内
閣の内相にまで任命されたグベニエが就任しました。副議長のスミアロは、革命派軍の軍事的
勝利を背景に、CNLの臨時政府を設立し、自らが首相となり、副首相にはローラン・カビラを任
命しました。アフリカのクメール・ルージュとも言われたスミアロのシンバたちは、公開処刑の方
法を採り、搾取する者、腐敗している要人を次々に弾劾の対象としました。それは一種の恐怖
政治であり、農民は正規軍の復讐ばかりでなく、革命軍のやり方にも恐怖を感じていました。
 
     6−3 チョンベの再登場と革命派の制圧
  欧米陣営の支援を受けて政権の座にあるアドゥラ首相も、それを支えるビンザ・グループも革
命派勢力の軍事的優勢に危機感を募らせるばかりでした。そこで彼らはアメリカ人やベルギー
人顧問の助言を得ながら、スペインに亡命していたチョンベを再びこの危機的な状況にあるレ
オポルドヴィルに呼び戻すことにしました。それは、実行力に欠けるアドゥラ首相に代わって、コ
ンゴ国軍の補強を行い、外国人傭兵の支援を呼び込める人物が必要だったのです。チョンベ
は、軍資金と1万人に上る旧カタンガ軍をこの掃討作戦に提供できるからである。
  もし万一チョンベが革命派勢力の要請に応じて、そちらと手を組むことになれば、レオポルド
ヴィルを中心とするモブツとビンザ・グループの政治勢力は風前の灯火になってしまいます。現
実にチョンベは、革命派からもアプローチを受けていました。しかし、最終的にはモブツが先手
を打ち、P・ダヴィステール(p.  3照)を亡命先のスペインに派遣して、チョンベに中央政府に
復帰するよう説得しました。チョンベは1964年6月26日レオポルドヴィルに戻ってきて、ンジリ
空港でアドゥラ首相とモブツに迎えられました。
  カサヴブ大統領も革命派勢力の拡大を阻止するためにはチョンベの協力が必要であるとは
考えていましたが、そのチョンベを首相に迎え入れることは事前に相談を受けていませんでし
た。カサヴブは、ルルアブール憲法に基づく第2共和制の発足までは、現首相のアドゥラを暫
定政府の首班にしておくつもりでした。従って、このカサヴブ説得にはモブツの介入か必要でし
た。モブツ側としては、チョンベを革命派勢力潰しのためだけに、徹底的に利用するつもりでし
た。
  チョンベは、早速救国政府を発足させるための奔走を始めました。彼はその点では骨身を惜
しまず、実務家としての能力を十分に発揮しました。そして、出来上がった閣僚リストは、革命
派にとっては救国政府という名にはほど遠いものでした。11名の閣僚の内、革命派の流れを
汲むものは僅かに1人で、さらに驚いたのは、カサイ分離独立の首謀者であったカロンジとか、
ルムンバの実質的な処刑者の1人であるムノンゴが入っていました。
  チョンベの暫定政府は、それでもレオポルドヴィルの管轄権の及んでいる地域では、比較的
好意をもって受け入れられ、彼のカリスマ性、情熱的な姿勢、実務家としての巧妙な立ち回り
で、人々の共感を勝ち取っていきました。レオポルドヴィルに戻って1ヶ月後には、首都のサッ
カー場で3〜4万人の群衆を集め、3ヶ月後に新生コンゴを誕生させることを公約しました。そし
て、何とスタンレーヴィルまで出掛け、ルムンバの記念碑に花束を捧げ、この地の人々の信頼
を勝ち得ようと努めました。スタンレーヴィルだけでなく、革命派の勢力に取り囲まれているブカ
ヴ、ブニア、キクゥイットなども訪問しましたが、革命派の圧力をはね返して、全国制覇を遂げる
ことは難しいことでした。
  国内だけでなく、チョンベは革命派のリーダーと話し合うために、ブジュンブラ(ブルンディの首
都)やブラザヴィルなど国外にも出掛けました。さらには、1964年7月17日から21日までカイ
ロで開催されたOUAの首脳会議にも出掛けましたが、カサブランカ・グループ(*11)の反対に
遭い、会議に参加できませんでした。10月にはカイロで非同盟諸国会議が開かれ、チョンベは
何とか国際的支援を取り付けようと、また出掛けました。しかし、これらのアフリカ諸国会議は、
ルムンバ処刑の責任追及と外人傭兵の排除を要求しており、チョンベは受け入れることのでき
ない人物でした。チョンベは、アフリカ諸国の協力を得て、革命派勢力との話し合いで国家統一
を図ることが不可能であることを思い知らされた。
 
     6−4 外人傭兵とベルギー軍の出動
  チョンベは、コンゴ国軍を再編成し、全国的な武力制覇を達成するには、外国人傭兵と旧カタ
ンガ憲兵隊の力を借りるしかないと考えました。チョンベはこの年の9月27日にコルウェジにお
いて、ベルギー人顧問のヴァンデウォール大佐が準備した一つの合意書に署名しました。それ
は、モブツの機関がすでに手掛けてきた傭兵の採用を、中央政府として承認するものです。モ
ブツは、すでにその数ヶ月前から南ア、ローデシア、ヨーロッパなどで傭兵の採用を進めていま
した。この合意書によって、傭兵の契約書には国防省のレター・ヘッドが入り、モブツの正式代
理人が署名することになりました。
  白人傭兵の中でも極悪非道の人物として名高いマイク・ホアーは、すでにカタンガ分離独立の
際も、チョンベのために働いたことがありましが、今回もモブツの呼びかけに応じてやって来ま
した。彼は国家安全委員会のメンバーであるチョンベ、モブツ、ムノンゴ、ネンダカに迎えられ
て、やるべき仕事について話し合い、遂行すべき任務と契約条件を文書で確認することを要請
しました。モブツが署名したマイク・ホアーの作戦任務は次のようなものでした。
  @ カミナ基地に集合する傭兵200名の中隊を指揮して、マノノ、アルベールヴィル、フィズィ、
ウヴィラを奪回する。
  A 遊動6分隊のための300名の傭兵を新たに編成する。
  B 500名の傭兵は、コンゴ国軍と合同してスタンレーヴィルを直ちに奪回する。
  この冷酷非情なマイク・ホアーの指揮があったからこそ、革命派軍への反攻が始まり、スタン
レーヴィル奪回作戦は成功したのです。彼の厳しさの一例として、彼は傭兵たちに、自分を含
め戦場で動けなくなったら即座に射殺することを言い渡しました。そして、実際それを実行しまし
た。
  この傭兵たちに支払う報酬はどこから出るのでしょうか。カタンガの富はチョンベを通じて、モ
ブツに渡されました。また、CIAもモブツへの金銭的援助を惜みませんでした。これらの資金を
一手に握って、経済的な権力を誰にも渡さなかったのがモブツです。そして傭兵の報酬につい
てもモブツが自ら交渉し、その額を決めていました。
  CIAが傭兵の募集とその訓練を行ったうえで、コンゴやアンゴラに送り込んだことが、傭兵たち
の証言で明らかになっています。
  伝説の傭兵と言われるマイク・ウイリアムズは、落合信彦とのインタビューで、モブツとホアー
との契約金の交渉について、次のように述べています。(*12)
  「ホアーはモブツがまだ大統領になる前の一軍人時代からよく知っていた。それだけに彼はモ
ブツを全く信用していなかった。私(ウイリアムズ)もこれに同感だった。自己の利益のためなら
どんな汚いことでも平気でやるのがモブツだ。ある時CIAが彼の軍隊を近代化する資金の一部
として8百万ドル送ったことがあった。しかし、その金は1セントたりともCIAが考えていた目的の
ためには使われず、ストレートにスイスのモブツの口座に振り込まれた。
  こんな男だからホアーとの契約を守るかどうかも疑わしい。契約では半分前金で受けとり、残
りは6ヶ月後、仕事が完了してからということになっていた。しかし、仕事が終わってしまってか
らでは、残金の受けとりはまず不可能と考えた方が妥当だ。そこで私はホアーに全額前金で受
けとるようアドバイスをした。ホアーはこれに同意しモブツと交渉を始めた」。
  さらに、全国的な規模で危機的な情勢を立て直すためには、外人傭兵だけの投入では十分
ではありません。ベルギー軍の直接介入も必要となり、その空輸作戦にはアメリカ軍の大型輸
送機が提供された。ベルギーの落下傘部隊は革命派勢力の本拠地であるスタンレーヴィルに
降下し、ベルギー軍将校が、傭兵たちとコンゴ国軍の合同作戦を指揮しました。
  1964年8月の始めにアメリカ大統領の特使がベルギー外相のスパークを訪れ、スタンレー
ヴィルを初めとする重要な拠点が次々と反政府軍に占拠されたことへの危機感を訴えました。
9月8日付のルモンド紙は次のように書いています。
  「米国は、コンゴが共産陣営に鞍替えすることを何としても阻止するつもりであり、そのために
必要なら、米国自身が直接介入することを、ブラッセルでの協議で確認した。ワシントンはベル
ギーがあまりにも慎重なのに苛立っており、独自に重装備武器、軍用トラック、軍用機などをレ
オポルドヴィルに送り込もうとしていた。ただし、独自の行動には問題があった。それは米国の
軍事援助を効果的に行う上で、言語の問題があったからである。バラバラになったコンゴ国軍
をまとめるには、ある程度コンゴの軍事情勢に精通し、しかもフランス語を話す軍事専門家が
必要である。そのような専門家を急に現地に派遣することは、米国にとっては不可能である。こ
れは旧宗主国のベルギーに頼むしかなかった。スパーク外相は米国にベルギーのパラ・コマン
ドと作戦将校を貸すことにしたが、表現上は非戦闘要員という名目であった」。
  60年のコンゴ動乱に際し、ベルギーは時代錯誤的な軍隊派遣を行ったために、国連の舞台
で厳しい批判を受け、悪者にされたが、スパークは、そんなベルギーの国際的な威信の回復に
苦労してきた人物であるだけに、今回は慎重にならざるを得なかったのです。けだし、この非戦
闘要員というのは国連の非難を避けるための誤魔化しでした。
  とにかく、このような国外からのテコ入れもあり、革命派勢力の制圧攻勢が開始されました。
  革命派勢力は一時期、レオポルドヴィルの300キロ近くまでその支配を伸ばす勢いでした
が、その内部組織は、政権を目指せるようなものではありませんでした。その内側を覗けば、部
族的要素を含んだ派閥の対立や組織としての脆弱性を抱えており、勢力範囲が広がるにつれ
て、政策の面でも、軍事の面でも組織としての機能を維持していくのが困難になっていました。
一口で言えば、ムレレ、スミアロ、カビラ、オレンガなどの個人の指導力に頼っていた感があり
ました。
  最初の躓きは8月中旬のブカヴの攻防をめぐる政府軍との対決の時に生じました。ブカヴの
飛行場は、山岳地帯にあって、物資や武器の貴重な補給基地であり、革命派としても何として
も攻略したかったのです。革命軍は8月15日と18日の2度にわたり、ブカヴに攻撃を仕掛けま
したが、ムランバ将軍に率いられる政府軍は、ヨーロッパ人入植者たちの支援を得て、この攻
撃をはね返すことに成功しました。これまで敗北を知らなかった革命軍兵士のモラルは一挙に
落ち込み、オレンガ将軍の威信も失墜しました。オレンガは一旦キンドゥに後退し、体勢の建て
直しを図り、新たな作戦を練った上で、9月末に再度の攻撃をブカヴに仕掛けましたが、結果は
前回以上に惨めなものでした。それはムランバ将軍の正規軍が、その間に南アの傭兵によっ
て補強され、戦闘機の導入により空からの攻撃も加えたからです。オレンガは10月2日、命か
らがらキンドゥにたどり着き、これでキヴ州の革命派軍は崩れ去ることになりました。そして、ス
タンレーヴィルのコンゴ人民共和国も11月24日のベルギー軍パラシュート部隊の降下によっ
て、崩壊する運命となりました。
  その年の12月14日、マイク・ホアーは南アフリカにおいてAP記者とのインタビューで次のよ
うに語っています。
  「共産主義者たちを殺すことは、虫けらを殺すようなものだ。アフリカのナショナリストを殺すこ
とは、動物を殺すようなものだ。そんな奴らはどちらも好きになれない。自分と部下たちでコンゴ
にいた20ヶ月の間に、コンゴ人の反乱者を5千人から1万人ほど殺した。それでも十分とは言
えなかった。それは、知っての通りコンゴの人口は1400万人にも及んでおり、恐らくその半分
が当時反乱の徒となっていたからである」。(*13)
  これが金をもらって人間を虫けらのように殺すプロの殺し屋の言葉です。アフリカだけでなく、
世界中から非難の声が寄せられました。しかしながら、反乱分子の制圧の手柄を独り占めにす
るモブツにとっては、厳しい国際的非難も馬耳東風でした。彼は記者会見でも、外人傭兵の功
績を称え、感謝の気持ちを隠しませんでした。スタンレーヴィル攻略に当たった傭兵部隊のチー
フであった上記のマイク・ホアーについても、忠誠心を賞賛し、彼のお陰で革命派勢力の陰謀
を打ち砕くことができたと感謝の意を表明しています。
 
     6−5 新憲法の下での政治的再編成
  カサヴブ大統領を中心として、コンゴ人自らの手で作られた通称ルルアブール憲法は1964
年8月1日に公布されました。そしてその規定に従って、1965年の3月に総選挙が行われ、新
しい国会が4月以降に招集され、第2共和制の新大統領はその年の11月に選出されることに
なっていました。しかし、現実にはこの第2共和制への移行は、そのような予定通りにはいきま
せんでした。
  革命派勢力との武力対立が解消されたところで、今度は政治勢力の再編成が進められること
になります。それは1965年の5月に行われるルルアブール憲法の下での初めての総選挙に
備えるためです。その選挙を控えた2月にはルルアブール(現在のカナンガ)で50に及ぶ政党
の代表が集まり、政党の統廃合について話し合いが行なわれました。
  新憲法の下での大統領の選出に向けて、カサヴブとその座を争うことになるチョンベは、自分
の政治的基盤であるCONAKATがカタンガ州に本拠を置く、地方政党であることから、これを
全国的規模の組織にする必要に迫られていました。そこでチョンベはCONAKATを連想させ
る、しかもフランス革命の国民公会から借用したようなCONACO(コンゴ国民公会)という政党
を発足させ、政権政党として多くの他の政党をその中に吸収してきました。
  1965年5月から6月にかけて行われた総選挙において、このCONACOは圧勝を収め、16
7議席中の122を占めました。一見、チョンベは政情の安定化に成功したかに見えましたが、
政権内部をカタンガ派で固めようとしたことが仇となって、カサヴブと反カタンガ勢力の抵抗に遭
って、たちまち窮地に追い込まれました。
  引き続き大統領の座に残りたいカサヴブにとってチョンベは最大のライバルであり、彼が暫定
内閣の首相になっていること自体に強く反撥していました。政府内にカロンジ、ムノンゴなどの
人物がいることにも不満を募らせていました。
  一方でモブツを背後に持つビンザ・グループも、反乱勢力の制圧が終わった今となっては、チ
ョンベは無用の長物となりました。最大政党とはいえチョンベのCONACOの中には日和見主
義者も多く、その内部的団結は脆弱なものでした。ビンザ・グループに属しながらこの政党に入
っていたネンダカはCONACOのチョンベ派が全国的基盤を固めるのを恐れて、その潰しにか
かりました。新憲法の下で最初の国会が開催されるのを前にして、その準備のために開かれた
CONACOの党大会をボイコットして、ネンダカは党内の非カタンガ派エリートを集めて、新たに
FDC(コンゴ民主戦線)を結成しました。
  チョンベがCONACOのメンバーだけによる内閣改造を考えていることを察知したカサヴブ大
統領は、FDC結成の動きも利用して、チョンベの解任を決意しました。その解任が発表された
のは新国会が開催される10月13日であり、カサヴブとしては、アクラで開催されるOUA元首
会議に出発するにはギリギリのタイミングでした。それはこの元首会議でコンゴ問題を議題から
外してもらうためには、どうしても踏み切らざるを得ない決定だったのです。チョンベは国際的に
は、外人傭兵、カタンガ分離などの問題の責任を問われている張本人であり、カサヴブとして
は彼を解任してからアクラに赴きたかったのです。チョンベが前年のカイロでのOUA元首会議
でどんな扱いを受けたかはすでに述べたとおりです。
  チョンベの代わりに首相に任命されたのはカタンガ分離政権の時、その外相の地位にあった
キンバでした。彼はカタンガ北部出身でBALUBAKAT党に属していましたが、CONACOに合
流し、その後FDCの結成の際にこの政党に鞍替えしていました。この政変の舞台回しをやった
のはネンダカであり、ビンザ・グループと相談し、モブツの了解を取り付けた上でカサヴブ大統
領に話しを持ち込んだのです。キンバ政府では、チョンベ派は1人も入閣せず、ネンダカが内
務、カミタツが外務を担当することになりました。この内閣は国会では承認を得られず、カサヴ
ブ大統領が再度キンバを首相に指名しているところで、いよいよモブツのクーデターを迎えるこ
とになります。

 
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第 7 章  モブツが満を持して舞台に
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