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     15−3 ルブンバシ大学の虐殺事件
  1990年5月3日民主化へのフィーバーに水を掛けて、右旋回をしたモブツは、もう一つの重
い流血事件を起こします。それがルブンバシ大学における学生虐殺事件です。何故この時期
にこんな血生臭いことを起こしたのか、冷静に考えれば不思議なことですが、これがモブツ体
制の本音であったのです。
  では、どうしてモブツはこの期に至り、学生を弾圧したのでしょうか。その端緒は5月3日の演
説にあります。この民主化の約束を有名無実にするモブツの発言にショックを受けた人たちの
先頭に、学生たちもいました。彼らは、その演説の内容に満足して拍手喝采をしている国会議
員に憤りを感じました。学生たちは、国会議員がモブツに買収されたと考え、その不満の矛先を
議員に向けたのです。キンシャサ大学を初めとする首都の高等教育機関の学生たちは、一斉
に抗議行動を起こしました。5月7日に国会議員を乗せたバスを取り囲み、モブツの右旋回を
受け入れたことを非難し、議員に乱暴を働きました。さらに、キンシャサの学生たちは、ルブン
バシを初めとする地方の大学生に、「君たちも立ち上がれ」と檄を飛ばしていました。
  こうなればモブツの暴力的独裁者としての顔が再び出てきます。ここで学生の反抗を押さえ
込まないと、このまま民主化への流れが全国的に勢いづくと判断したからです。モブツは公安
サービスと憲兵隊に学生の弾圧を命じ、全てのデモ行為を改めて禁止しました。キンシャサで
は29名の学生を含む46名が逮捕され、マカラの刑務所に入れられました。しかし、モブツとし
ては、これ以上キンシャサで手荒いことをするのは少々危険と考えたに違いありません。それ
は、首都では外国のジャーナリストもたくさんいますし、外交団の目や耳も気になります。そこ
で、地方の学生が暴力の対象となりました。それは全国の学生がこのキンシャサでの弾圧に抗
議の声を挙げたからです。ルブンバシとブジュマイ(カサイ州)の学生が最も厳しい弾圧を受
け、その他キサンガニ(オー・ザイール州)、ムバンザ・ングング(バ・ザイール州)などでも次々
に学生の弾圧が行われました。
  偶々、ルブンバシ大学では、武力介入を行うきっかけとなる学生間のもめ事が起こりました。
それがルブンバシの学生虐殺事件のきっかけとなり、多くの犠牲者と負傷者が出ることになり
ました。治安当局は、弾圧の後、流血の証拠を残さないよう最大の配慮と後始末をし、この事
件が国際的な関心を呼ぶことを何とかして避けようとしました。
  できる限り客観的な資料(主としてN、P)に基づき、この事件の概略を述べまてみましょう。
 ルブンバシ大学は、学生11,000人を擁する大きなキャンパスの中にあります。校舎は市の
北部のサバンナの中に建てられており、市街地はもとより、住宅地からも少しばかり隔離され
た静かな環境にあります。ただし、その東側3キロのところにあるルアノ空港の滑走路の延長
線上に位置していますので、その静けさも時々は離着陸する飛行機の騒音に破られます。
  1万人を超える学生の約半数がこのキャンパス内の寄宿舎に入っていました。このキャンパ
スでは、すでに数ヶ月前から教授団が学生の支持を得て、政府に待遇改善の要求を突き付け
ていました。当局からは給与の75%アップを含めて、前向きの回答がありましたが、その具体
的実施がなされずに、教授団は事実上ストライキのような状態でした。その間キャンパスの管
理は学生たちが自主的に行っていました。そのような状況の中で学生たちは、投獄されたキン
シャサの学生の釈放を要請すべく、モブツへの抗議の運動を起こしていました。キンシャサで
の学生弾圧に敏感に反応したことで、ルブンバシのキャンパスには4つ駐屯軍隊が派遣され、
その周辺を警備していました。
  騒動のきっかけは、キャンパス内で体制派の学生3名が反モブツの学生たちに囲まれ、厳し
い追求を受けていた中で、彼らが公安当局の送り込んだスパイであることが発覚したことにあ
ります。暴力で痛めつけられたこの3人のスパイ学生は、自分たちがモブツと同じングバンディ
族の者であること、そして学内には、自分たちを含め全部で6名のスパイが学内にいることを白
状しました。彼らの部屋を調べたところ、残りの3名はすでに脱走した後で、部屋からは無線通
話器(ウオーキー・トーキー)や、刀剣、拳銃などが見つかりました。さらに問いつめたところ、処
刑すべき23名の学生のリストを持っていることが分かりました。それは、彼らがこれから拉致し
て、処刑すべき反体制の学生のリストだったのです。その内の2名は、すでに、この年に入りキ
ャンパスの近くで死体となって発見されていました。この殺人がングバンディ族のスパイ学生に
よることが分かり、反モブツの学生たちは怒りで興奮し、この3人を穴ぐらに押し込み、焼き殺そ
うとしていました。
  しかし、難を逃れた他のスパイ学生が州当局に救いを求めたため、軍隊が介入し、この3人
を助け出しました。その内の一人は病院に収容された後、息を引き取りました。
  モブツの甥に当たるコヤギャロ州知事は、密告者を大学の中に送り込んでいたことが暴露さ
れたり、ングバンディ族の学生1名が犠牲になったことで動揺し、ルブンバシ大学の状況が危
機的なものであることを強調して、キンシャサに通報しました。これを受けて、モブツ体制は、こ
の学生の暴力的な行動を捉えて、学生の反体制的な活動に壊滅的な打撃を与える絶好のチ
ャンスと考えました。
  5月11日はルブンバシでの最も長い一日となりました。午前中学生たちは知事に抗議を申
し込むために市内に向かって行進しようとしましたが、キャンパスを取り囲む軍隊によって阻止
されました。午後には学生と軍隊の間に衝突まで起きて、軍隊は空砲で学生たちを脅して、沈
静化を図りました。午後4時頃、軍隊の一部がキャンパス内に入り、モブツの親族の学生を捜
しましたが、その学生はすでにキャンパスから逃げ出していました。それは、その夜起きること
の前兆でもありました。
  6時半頃キャンパスでは停電が起きました。学生たちはその原因を突き止めようとしました
が、それは学外の送電所で切られたものであることが分かりました。夜の帳が下り、学生たち
は薪を集めて、キャンパスの中で火を起こし、真っ暗なキャンパスを照らす明かりとしていまし
た。もちろん、5月の中旬ともなれば乾季が近づき、高度が1300メートルのルブンバシでは夜
の気温は相当下がり、火が欲しくなるのです。しかし、この時はもう一つ別な理由がありました。
それは、ングバンディ族の学生たちが復讐を企てているという噂もあり、何か騒動が起きそうな
不安な気持ちを鎮めるため、暗闇を避け、皆で火の周りに集まりたかったのです。
  11時が過ぎた頃、学生たちは襲われた場合の対応について、延々と議論を尽くしていたとこ
ろに、大きな叫び声をあげながら侵入者たちがキャンパスに入ってきました。聞き慣れない言
葉で喋ったり、叫んだり、命令する声が聞こえました。目に入る長身の人影は、スポーツシャツ
を着て、バスケットシューズを履いていました。(C P:4)  この侵入者こそこの夜、特別機でモ
ブツ体制が送り込んだ250名のDSP(大統領特別師団)の特殊部隊でした。彼らは、制服を着
ておらず、マスクで覆面し、様々な武器の他に懐中電灯を持っていました。「聞き慣れない言葉
を話す」ということは、DSPの大半のメンバーが大統領と同じ部族であるングバンディ族の出身
の男たちであり、その地域の方言を使っていたのです。何れも筋肉隆々の大男たちでした。
  学生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ回り、ある者は自分の部屋に、ある者は友人の部
屋に隠れ、また逃げる際に転んで、侵入者たちに捕まり、殴打されたり、ナイフで刺されたりし
ました。侵入者たちは襲うべき学生の名前とその部屋の番号を記したリストを持っていました。
ある証言によれば、この侵入者たちはあるングバンディ族の学生の指示に基づいて、行動し、
暴力を振るい、殺戮を行っていたそうです。暗闇の中で仲間を識別するために合い言葉が使わ
れました。それは直訳すれば「藪=村」を意味する「リティティ=ムボカ」という合い言葉だったそ
うです。すなわち、「リティティ」という呼び掛けに、「ムボカ」と応えた学生は襲われなかったので
す。
  食堂など一部の施設にはガソリンを撒き、火を付けました。侵入者たちは指示に基づき、寄
宿舎の部屋を次々と探し回り、剣を使ってベッドの下などを突き刺して、隠れた者を探し続けま
した。見付けられた学生は、刺し殺されたり、切り傷を負わされました。捕まって犯された上に、
膣を剣で刺されたり、乳房を切り取られたりした女子学生もいました。また、ある証言によれば、
サイレンサーを付けた拳銃も使われたとのことです。そして、殺された学生の死体は集められ
て、トラックにに投げ込まれました。。
  標的にされた学生は、キヴ州、バンドゥンドゥ州、東西両カサイ州などの出身の学生です。エ
カトゥール州の学生は復讐する側ですから問題はないとして、シャバ州の学生も標的にはなっ
ていませんでした。その理由はシャバ州の学生が殺戮された場合、そのことが地元であるだけ
に直ぐ分かり、犠牲者の家族の騒ぎを押さえ込むことが難しいと考えたからです。しかしなが
ら、暗闇の中のことでありシャバ州の学生も何人かは犠牲になっています。
  襲撃は朝の3時半ころまで続き、その後30分を掛けて、殺された学生の死体を集め、市内
の鉱山会社などから徴用した車両に乗せ、襲撃の証拠を残さないように後片づけをしました。
そして、4時頃、侵入者たちはランドローバーとランドクルーザーに乗って、キャンパスから消え
ていきました。
  キャンパスを取り囲んでいた軍の兵士たちは、襲撃の際の悲鳴を聞きつけて、騒ぎに介入し
ようとしましたが、これは学生間の内輪もめであるので、介入するなと司令官から告げられたそ
うです。翌朝、傷ついたり、恐怖に怯えるた学生たちをキャンパスから出してやろうとして、知事
に電話で許可を求めたところ、エール・ザイールのDC10が離陸してからにするようにと言われ
たそうです。このDC10で、キンシャサから前夜ルブンバシに来た250名のDSPのコマンドは
ングバンディ族の学生も一緒に連れて、この地を離れました。そして、その後はキャンパスのを
取り囲んでいた駐屯部隊の兵士たちによる略奪です。学生たちの個人の持ち物、大学のあら
ゆる施設にある器材や物品が根こそぎ持ち去られました。兵士たちにとって最高学府の施設に
ある全てのものが略奪に値するものだったのでしょう。大学のキャンパスはもぬけの殻となって
しまいました。
  嵐が去った後のキャンパスには血生臭い空気が漂っていました。「あちこちで壁や床が血だ
らけになっており、半殺しにされた学生の呻き声が聞こえ、命からがら逃げ延びた学生は、うつ
ろな目で周りの藪の中をさまよっていました。ある者は、静かに放心状態で、市内の方に下りて
いきました。彼らは呪われたキャンパスから逃れたかったのです。また、一部の学生は鉄道の
駅に身を隠し、できるだけ遠いところに連れて行ってくれる列車を待っていました。また、ある者
はザンビアまで逃げ延びて、そこでこの恐るべきニュースを外部に伝える最初の人となりまし
た。」(C P:7)
  不思議なことに、誰の指示か分かりませんが、コマンドが姿を消した後、間もなく救急車がキ
ャンパスにやって来ました。そして、負傷した学生たちを市内のあちこちの病院に搬送しました。
カトリック司教団が配布した書簡では、その数は14名となっています。5月29日に現地入りし
て、調査を行った国会議員団がルブンバシの医療施設を訪問して、確認した入院学生の数は
23名でした。その内の1名がジェカミンの付属病院で死亡しました。それが政府筋が発表した
死者の1名と言うことです。
  5月22日のベルギーの日刊紙ル・ソワールは幾つかの証言を根拠に50名以上の学生が
殺戮されたと報じました。キンシャサの反体制週刊誌のラ・スメーヌは信頼すべき政府筋の情
報として、死者の数を23名と書きました。ルブンバシのベルギー総領事は殺害された学生を、
暫定的なものという留保付きで、14名と発表しました。ただし、ルブンバシの米国総領事館は
死者の数をザイール政府の発表と同じように1名としています。
  ソワール紙の50名という数字は、アムネスティー・インターナショナルによっても報告されて
います。あるベルギーの代表は、個人的な見方として300人以上と結論し、現場にいた治安警
察の一人は、死体を347まで数えたと告白しています(C P:15)。5月23日付で作成された軍
の情報部将校のヤンガーレ他3名が署名したルブンバシ・キャンパス作戦報告(P P:101)によ
れば、エール・ザイールのDC-10でルブンバシから運ばれた死者と負傷者は、ルブンバシの
北北西350キロのところにあるウペンバ湖の上空で投げ捨てられ、その数は107名であると
記されています。処分の理由は証拠となる跡を残さないためと書かれています。ただし、残念な
ことに、ザイール政府から独立した機関による調査や死者数の確認は一切なされておらず、こ
のような間接的な情報しかありません。
  AZAPやエリマ紙などモブツが直接コントロールしている報道機関は、「この事件は学生間の
乱闘であり、部族問題が原因の暴力沙汰であり、死者は僅か1名である」と発表し、このまま事
態を放置すれば、独立直後の混乱へ逆戻りをする恐れがあることを示唆していました。このよう
な主張を政府当局がいくら行っても、目撃者の証言からして、DSPが介入したことは否定でき
ません。モブツが自分の専用機のように使用していたエール・ザイールの唯一のDC−10機
が、DSPのコマンドを運んだということは、モブツの指示でこの武力介入は行われたということ
に他なりません。「モブツが何も知らされずに、エール・ザイールの飛行機1台が徴用され、大
統領警備の特殊部隊が行動を開始することなど、あり得ないのである。大統領警備隊は、大統
領の身辺警備を行う以外の役目を持っていない筈である。」(C P:14)
  政府当局は、内外の圧力で国連を含む国際的機関の調査が入るのを政治的にも、物理的
にも妨害しようとしました。ベルギー、フランスなど欧米諸国政府が繰り返し行った要請にも拘
わらず、実現した唯一の国際的な調査は、国連の人権委員会の特別調査員であるアモス・ワ
ッコ氏によるものでした。それもザイール当局の非協力的な態度のため、同氏がルブンバシま
で入り、そこで滞在できたのは僅か2日間でした。(C P:18)
  結果的には、この虐殺事件によりモブツは国際社会の信頼を決定的に失い、欧米諸国はつ
いにモブツにノーを突き付けました。アメリカは、ザイール政府の発表を受け入れる姿勢を見せ
ていましたが、前節で述べたように(11−2.参照)、すでに3月の時点でブッシュ大統領は、ザ
イール支援政策の変更を意味するメッセージをモブツに伝えています。
 ベルギーは、事件が起きた翌日に早くも、本当の責任者の所在の全貌を明らかにするため、
国際的な調査を行うことを要請しました。ベルギーはこれまで、両国関係を何とか維持していこ
うと、多岐にわたる面で経済的、技術的援助を続けてきました。ベルギーは、1988年以来緊
張していた両国関係を改善するため、1989年の7月に2億8千万ドルに上る債権の半分を帳
消しする決断をし、さらに、この90年3月にエイケンズ首相がザイールを訪問するなど、ようや
く両国関係に明るい見通しが開けてきたところでした。しかし、今回の事件はこのような状況を
再び打ち壊してしまいました。5月25日ベルギー政府は、この事件の真相が国際的調査団に
よって明らかにされるまで、6月に予定されていた両政府の合同委員会の準備を中断するこ
と、そして予定していた3億5千万ベルギー・フランの援助資金の供与を棚上げにすることを発
表しました。モブツこれに対して、700人に上るベルギー人の協力要員の退去を命じ、両国関
係は最悪の事態を迎えます。
  真相究明については、カナダもフランスも、EUもベルギーと同じ立場を表明しました。カナダ
は、キンシャサで開催されることになっていたフランス語圏諸国首脳会議の中止を要請し、フラ
ンスもこれに応じて、キンシャサ開催を止めてしまいました。
  内外からの圧力で、一応この事件の責任者の割り出しが行われました。当日の夕刻キャン
パスへの電源を切った配電会社SNELの技師が捕まり、その責任を追及されました。でもこん
な枝葉末節のことで世論は納得するでしょうか。現地のでの責任者としてコヤギャロ州知事
は、直ぐに他の州に転勤になり、その後収監され、1年後に形式的な裁判を受けました。刑務
所での待遇はVIP並みだったとのことです。とにかく、事件の責任をあくまで地方レベルに限定
するために、あらゆる手段が講じられ、調査の追跡がキンシャサにまで及ぶことを避けようとし
ました。大学キャンパスは証拠を残さないように1年間閉鎖され、破壊されたところは改修され、
ペンキが塗り替えられました。犠牲者の家族は葬儀を行うこともできず、沈黙の代償としてお金
が渡されたとのことです。国内外を問わず、逃げ去った学生たちには秘密警察の手が回わされ
ました。
  モブツは事件から1ヶ月半後の6月30日すなわち独立記念日に、独立30周年記念行事を
あえてこのルブンバシで行いました。実にモブツらしいやり方です。その際の演説でモブツは独
立直後の混乱が政治指導者の未熟によるもで、その後の25年間はその教訓を活かして、国
家の統一と独立を確保し続けた功績を自負しました。ルブンバシ事件については、民主化への
道を歩んでいる中で、将来を担うべき最高学府の若者の一部が暴力沙汰を起こしたことを非難
し、学生はあくまでも学問に専念するよう強調しました。その上で、国際的反響について声を荒
げて、外国人学生の犠牲者が一人もいないのに、何故国内の出来事に干渉して、この問題を
国際化しようとするのかと怒りを表明しました。事件の責任は国の司法機関が追及しているの
で、その結果を待つべきで、国外からの干渉はザイール国の主権の重大な侵犯であると語りま
した。このモブツの言い方は裏を返すと、ザイール人がザイール人を殺したり、傷つけたことに
ついて何故外国の世論が文句を言うのか、ということです。
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15−4  政党結成への動き
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