トップページへ  目次ページ

     4−6 ルムンバのキンシャサ脱出
 カサヴブ大統領は、11月初めに国連総会で演説するため、アメリカに飛びました。その時点
で国連には、コンゴ代表が2人いました。1人はルムンバ政府の代表であるT・カンザであり、も
う一人はカサヴブが派遣した代表のJ・ボンボコでした。9月の緊急安保理においてもこの両代
表が、それぞれの正統性と演説の権利を主張したため、肝心の理事会が開けないという事態
も生じました。
 この異常事態を解消するため、国連の資格審査委員会は、11月22日、カサヴブの代表の
議席を正統なものとして推薦し、総会の議決に付しました。結果は、53対24票、棄権19票
で、カサヴブ派の正統性が承認されました。これは、ルムンバの国際的な立場にとって大きな
打撃でした。また、これまで国連軍の保護で身の安全を図ってきたルムンバ自身にとっても、こ
のニュースは大きなショックであり、国連の保護もどこまで続くのかという危惧にもつながるもの
でした。
 実際にモブツはクーデターの後、数度にわたり国連軍に対して、ルムンバの身柄を引き渡す
ように要請しており、その都度、国連軍に拒否されていました。11月に入ってからは、モブツは
国連代表に最後通牒を突きつけ、もし国連軍が引渡しを拒否するなら、コンゴ国軍は、国連軍
に攻撃を開始するという通告まで出していました。
 そのような事情もあり、ルムンバは監視されているヴィラから脱出して、スタンレーヴィルに逃
れることを決心しました。そこは彼が独立運動を通じて、政治的基盤を築いたところであり、ギ
ゼンガを初めとする自分の一派がスタンレー政府を設立していました。コンゴ国軍の親ルムン
バ派がルンドゥラ将軍に率いられて駐屯していることもありました。ルムンバがそこを足場とし
て、モブツへの巻き返しを図ろうと考えたのも、至極当然のことです。
 それに、もう一つの出来事がルムンバを無謀な脱出に駆り立てました。それは娘の死でした。
治療のためスイスに送った娘が、11月18日にそこで亡くなったのです。その遺体がスタンレー
ヴィルに帰り、埋葬されるので、ルムンバはこれに立ち会いたかったのです。
 一方で、この逃避行が極めてリスクの高いものであることも承知していました。出発の2日前
ルムンバは、常に頼りにしていた情報大臣のカシャムラに電話しています。「自分のことには構
わないでくれ。特に、移動中は自分の近くに来ないでくれ。君がスタンレーヴィルに来てくれるこ
とを大変嬉しく思っている。君は助かるであろう。私は死ぬかもしれないが、それは仕方がない
こと。コンゴは殉教者を必要としているのだから」。(* )
 11月27日、カサヴブは国連で外交的勝利を収めて、レオポルドヴィルに帰国しました。その
日、ルムンバは国連事務所に電話をして、娘の葬儀のためにスタンレーヴィルに行く飛行機を
用意して欲しいと頼みましだ。しかし、国連の代表は、本部から命ぜられている目的以外に国
連の飛行機を使用することはできないと断りました。この国連の拒否に、気性の激しいルムン
バは感情的な行動に走ったに違いありません。
 その27日の夕刻、あたりが暗くなってルムンバはムレレ、グベニエなどの側近4名、それに
妻のポーリーヌ、次男のローランと共にヴィラを抜け出し、スタンレーヴィルへの逃避行を始め
ました。何故、国連軍にもモブツの兵士たちにも気付かれずに、厳重な包囲網を突破できたの
か不思議ですが、この点については、資料によって色々な記述がなされています。
 「信じ難いことであるが、ルムンバを乗せた車が家から走り出たとき、兵士たちが全然疑わな
かったのは事実である」と述べているのは、ルムンバの良き理解者であったガーナのンクルマ
大統領です。CIAのオドンネルがアメリカ上院の調査委員会で、「ルムンバをおびき出す工作
は引き受けた」(*2)と証言したことと併せてみれば、現場で起きたことを想像するのはそれほ
ど難しくありません。
 ルムンバは脱出するに当たり、部屋のテーブルの上に置書きを残していました。それによる
と、レオポルドヴィルを出ることは逃げるためではなく、娘の埋葬に立ち会うためであり、純粋に
家庭の問題である。また戻ってきて、国連の調停委員の到着を待ち、カサヴブの提案している
国民円卓会議にも3加したいと書かれていました。(*3)
娘の埋葬が唯一の理由であるというのは、彼を支持してくれている国民のこと、また国連など
の場で自分を擁護してくれるアフリカや非同盟の国々、共産圏諸国のことを考えての建前論で
あろう。
 しかし、現実には、監禁状態の中で、政治活動の手段を奪われ、国連でルムンバ政府の代表
がその正統性を拒否され、モブツが国連に身柄引渡しの最後通牒を突き付けていたことから、
ルムンバとしては我慢の極限に達していたに違いない。安全な根拠地であり、政治活動の再
開が可能なスタンレーヴィルに戻りたいというのは、切実な願であった。
 脱出に当たり、レオポルドヴィル州知事のカミタツは、自分の勢力範囲である西側のクワン
ゴ・クイル地域を通過して、バンドゥンドゥ州の中心地であるキクウィット(レオポルドヴィルから
東へ約3百キロの距離)へ行くことを勧めました。そこまで行けば、カサイ州までもう一息です。
ルムンバもリスクを回避するため、数人ずつに分かれて行動し、全員が捕まらないように、それ
ぞれが別のルートを取ることにしました。
 逃避行は辛いものであったと、カシャムラは書いています。そして、先発したオキト組が29日
にキクウィットに入る手前で、捕まってしまいました。ルムンバも最初は密かに移動する筈でし
たが、彼の熱しやすい性格から、通過する村人たちからルムンバ首相であると見破られると、
つい演説を一席ブツはめになりました。民衆との対話が彼の唯一の政治生命であるだけに、ル
ムンバは、乞われれば、断りきれずに喋りました。行く先々で集まってくる村人たちに囲まれ、
時間を費やし、それによって追跡を容易にしました。しかし、村人たちも逃避行に協力してくれ
て、一行が立ち去った後、道に穴を開けたり、渡しの小舟を隠したり、橋を外したりしました。
 12月に入って最初の日、ルムンバたちはクィル川沿いのマンガイという小さな村に着きまし
た。ルムンバはそこで5時間も過ごし、演説も行いました。その中でカトリック教会と帝国主義を
非難し、その勢力と結託しているカサヴブとモブツを攻撃しました。その村人に混じって、たまた
ま一人の神父がいたので、ルムンバはその神父を指差しながら、この人々がわが国の混乱の
根源であると叫びました。それは、イディオファ(キクウィットの近くの町)の司祭をしているトゥッ
サンという神父でした。
 この神父はその後、無線連絡網でルムンバがこの村を通ったことをレオポルドヴィルに知ら
せました。教会や修道院は、活動上の必要から無線連絡網を持っていました。そして、それが
行政やその他あらゆる面で活用され、重要な通信手段となっていました。従って、このような地
域の出来事を報告することは日常的なことでした。

     4−7 ルムンバ一行の逮捕
 一方、レオポルドヴィルではルムンバ脱出の報に接したモブツとそのアメリカ人顧問たちは、
大変慌てだったと報じられています。しかし、本音はチャンス到来だったのでしょう。脱出の翌日
モブツは、ルムンバが未だキクウィットには到着しておらず、その逮捕のために万全の措置が
執られていると発表しました。それと共に、独立前から公安警察のプロであったポンゴという男
をルムンバ逮捕作戦の責任者に当てました。
 12月2日、ルムンバ一行は、ついにカサイ州に入りました。しかし、マンガイ通過の情報で追
手はかなりの精度で近寄っていました。そして、サンクルーという川を渡ろうとして、渡し場で地
元の人たちと交渉しているうちに、モブツの派遣したポンゴとその兵士たちに取り囲まれてしま
いました。ほとんど一網打尽でした。そして、一行は直ちに、ポート・フランキーで飛行機に乗せ
られ、レオポルドヴィルに連れ戻されました。
 ルムンバ逮捕の知らせに、モブツはその参謀たちと共にシャンパンを抜いて、祝杯を上げ、知
らせの電報を読み返しながら、笑いを噛みしめていたと報ぜられています。シナリオ通りの結
末に満足していたのに違いありません。
 その日の夕方5時過ぎに、ンジリ空港に到着したルムンバは、国軍兵士たちにより飛行機か
ら下ろされました。その場に居合わせた国連監視要員によると、眼鏡は外され、シャツは血だら
けで、髪の毛は乱れ放題、頬には血の固まりが着いており、両手は後で縛り上げられていまし
た。そして、直ちに軍のトラックに乗せられ、ビンザのモブツ邸に連れていかれました。そこに着
くや否や、兵士たちがルムンバを殴打し、彼がコンゴの正規の総理であることを示す文書を、そ
の口に押込み、それから髪の毛を引っ張り、手首に巻かれている紐を締め上げた。その間、モ
ブツは平然とそれを見下ろしていました。そして、ただ「この男は殺すな」と言いました。ルムン
バが周囲の反対にも拘わらず、モブツを重用し、共に独立のために闘っていた時から未だ1年
も経っていません。その恩人へのこの仕打ちは、たとえその短期間に激しい政治的混乱と対立
があったとはいえ、モブツの冷酷な本性を見せたシーンでした。
 「今、殺すな」ということは、自分でルムンバの処分はしたくないということです。それは、国連
筋を初めとして各方面からルムンバの助命の要請が早くも殺到していたからであり、ルムンバ
の第3世界における人望も無視できませんでした。そこで、モブツは、ルムンバとその側近であ
るオキト、ムポロなどの身柄を首都の南西50キロのタイスヴィル駐屯キャンプに移すことを決
めました。そこでは、長老軍人のボボゾ大佐が指揮をとっていました。翌日モブツは国際報道
陣を招いて、この囚人たちが連れて行かれる場面を撮影させ、その映像は世界中を駆けめぐり
ました。
 タイスヴィルでの厳しい監禁生活で、ルムンバは衰弱し、孤立状態のために意気消沈してい
ました。ルムンバは国連のダイヤル代表や、国際人権機関に文書をもって実情を訴えました。
その中で、彼は、監禁の状態が非人道的であること、独房から1ヶ月以上全く出してもらえない
こと、日に2回の食事も食べられるようなものでなく、1日をバナナ1本で過ごすことも度々ある
こと、赤十字の医者に診てもらい、薬を処方してもらっても、その薬がもらえないこと、35日間、
着ている衣類を一度も洗濯させてもらえないこと、等々と訴えています。
 ルムンバは自分の運命が長くないことを悟り、1月8日付けで、妻ポーリーヌに遺書ともいうべ
き次のような手紙を書きました。この手紙はルムンバの死後、ルムンバ主義の人々だけでな
く、広い範囲で第3世界人々に大きな影響を与えた文章ですので、その要点だけを紹介しま
す。
  「愛しい妻ポーリーヌへ
 自分は以下の言葉を、それが君に届くかどうか、君がこれを読む時、私が未だ生きている
か、知るよしもなく書いている。
 独立への闘争の中で我々はこの神聖な闘いの最終的な勝利を信じてきた。そのために我々
の生活を犠牲にした。しかし、気品のある生活を送る権利、妥協なしの尊厳さを持つ権利、完
全な独立の権利など我々の望んだものをベルギー人たちは与えようとしなかった。我々が信頼
していた国連の高官たちもこのような人々を直接・間接に支援している。彼らはコンゴ人を腐敗
させ、金で買収した。
 植民地主義者の差し金で私が生きようが、死のうが、自由の身であろうが、なかろうか、たい
したことではない。それより大切なことは私の自身のことでなく、コンゴとその人民のことであり、
その人民の独立を植民地主義者たちが悲しむべき道化芝居にしてしまった。私の信念は揺る
ぎないものとして生き続ける。
 早かれ、遅かれ、私の人民はこれら全ての内外の敵を追い払い、堕落と侮辱に満ちた植民
地主義に《ノー》を突き付けるために立ち上がることを私は信じて止まない。我々は孤独ではな
く、植民地主義者や傭兵との戦いを弛まず続けている幾百万の人々がコンゴ人の味方をしてく
れる。
 私が残してきた、そして再び会えないであろう息子たちにコンゴの未来は輝いていると言って
欲しい。我々の独立と主権の回復という神聖な使命を果たすことを、コンゴは君たちに期待して
いる。(中略)
 何時か歴史が判決を下すであろうが、それは欧米や国連で教えられる歴史ではない。それは
植民地主義とその傀儡から解放された国々で教えられる歴史である。アフリカはそれ自身の歴
史を書くであろうし、それは栄光と尊厳のある歴史となろう。
 我が妻よ、泣かないで欲しい。私は、このように苦しんでいる私の国がその独立と自由を護る
ことができることを知っている。
 コンゴ万歳!アフリカ万歳!
                            1961年1月8日、タイスヴィルの獄中にて パトリ
ス・ルムンバ」

    4−8 ルムンバと二人の同志の処刑
 ルムンバがそんな状態にあったにも拘わらず、タイスヴィルのキャンプはモブツにとって、安
心できる監禁の場所ではありませんでした。それは、彼の処遇そのものが、極めて大きな国際
的問題であり、彼の天才的な説得力で、警護の兵士たちが何時、篭絡されてしまうかも知れな
かったからです。そうでなくても兵士の間には6月の暴動の時と同じように、昇進や処遇につい
ての不満が高まっていて、蜂起のためにルムンバを利用しようとする動きがあったのです。従っ
て、ルムンバを早急に、もっと安全な場所に移し、それで彼の抹殺が第3者の手で行われれ
ば、万事うまく行くという訳でした。
 一月初旬にハマーショルド事務総長は、自らレオポルドヴィルにやって来て、国連のコンゴ介
入が引き起こしている困難な問題を現地で視察しました。その結論の一つとしてカサヴブとル
ムンバの和解の必要性を実感しました。一方で、米国の政権交代が1月20日に行われること
になっており、アイゼンハワーの対コンゴ政策が内外の批判を浴びていることから、ケネディ政
権がこの政策の見直しを行うことは必至の状況にありました。国民的和解の推進ということか
ら、ルムンバの存在の意義が見直される可能性が出てきたのです。その意味で、ルムンバの
身柄の処分は急がねばならず、やるなら今しかないという危機感をモブツ側は持っていまし
た。
 1月17日、計画は実行されました。ルムンバは一緒に捕らわれた上院副議長のオキトと青年
問題大臣(ルムンバ内閣)のムポロと共に連れ出されて、一0時、ムアンダの飛行場でエール・
コンゴのDC-4に乗せられました。引渡し先は、カサイかカタンガどちらかでした。結局、飛行機
は、ルルアブールで給油をしてから、カタンガ向けに飛び続けました。目的は、ルムンバを徹底
的に骨抜きするために、最も冷酷になれる人たちに引き渡すことでした。
 すでに、機内でこの骨抜きは始まっていました。このフライトを担当した南アフリカのジャック・
ディクソンは証言しています。「コンゴ人たちが機内でルムンバと2人の仲間を殴りつけていた
ので、止めさせようとしたが、無駄だった。彼らはルムンバの毛を引き抜き、それを口に押込もう
としていた。操縦室に戻り、責任者のムカンバに、彼を生きたまま引き渡すように命じられてい
るのではないか、と言ったら、彼は肩をすくめるだけだった。到着した際、ルムンバは生きられる
かどうか分からない状態であった」。(*4)
 この飛行機がルルアブールで給油した後、エリザベートヴィル空港に着陸したのは一6時45
分でした。到着した際、その現場にいた国連軍のスウェーデン人下士官リンドグレンは次のよう
に報告しています。
 「飛行機から下りてきた最初のアフリカ人はきちんとした服装をした人物だった。その次に、目
隠しをされ、両手を後で縛られた3人のアフリカ人が続いた。その内の先頭の者は、ひげを生
やしていた。タラップを降りた瞬間、憲兵隊員たちが3人に跳びかかり、殴りつけ、銃床で叩き、
ジープに投げ込むように乗せた。4人の兵士がそのジープに乗り込んで、座った。その瞬間、3
人の内の一人が、鋭い叫び声を上げた」。
 DC―4から降ろされた3人は、ジープに乗せられ、空港から3・5キロのところにある旧植民
者の空き家に連れて行かれました。その夕刻、チョンベ邸に閣僚たちが集まり、3人の処分に
ついて意見が交わされました。例えば、ムノンゴ内務相のバイエケ部族の根拠地であるブンケ
イヤに連れて行くこと、直ちに処刑すること、キンシャサに送り返すことなどでした。チョンベとい
えども、ルムンバの国際的な人気を恐れない訳ではありませんでした。
ムノンゴは、「もしルムンバがエリザベートヴィルに来たならば、我々はベルギー人がやれない
ことをやる。我々は彼を殺す」と宣言していたし、カタンガの憲兵隊の指揮官に、ルムンバがど
んな状況の下でもカタンガに来るのなら、彼には消えてもらうしかないと語っていました。
 結論は、強硬派であるムノンゴが押し切り、その日の内に処刑することになりました。閣僚た
ちは一緒に、3人が閉じこめられている現場を見に行きました。そして、チョンベ、ムノンゴ、キブ
エ、キテンゲの4人だけがそこに残りました。その他に、執行人のヒューグ大佐、ガット大尉など
のベルギーの軍人たちがいました。彼らは3人を車に乗せ、エリザベートヴィルから西に向かう
リカシ街道を走り、シラテンボという村で街道を下りて、さらに舗装されていない道を数キロ走り
ました。着いたサバンナの中でルムンバ、オキト、ムポロの3人は処刑され、地中に埋められま
した。
噂を聞いて、好奇心でやってくる村人の目を恐れて、その翌日、遺体は掘り出され、別の場所
に埋められましたが、遺体を徹底的に消すために、再度掘り出され、硫酸で溶かされました。

    4−9 国内外での処刑の反響
 以上が国連の調査委員会を初めとする種々の調査、および資料に基づいて、描くことのでき
るルムンバの最後です。そして、ルムンバ殺害のニュースはその日から、口から口へと伝えら
れていきました。2月に入り、ルムンバとその同志2人の殺害の噂は燎原の火のように広がり、
カタンガ政府も口を閉ざしていれなくなりました。
 2月13日、ムノンゴ内相は、記者会見で3人が監禁されていたヴィラから脱走し、逃走中にコ
ルウェジの近くのある小さな村で、村人たちに捕らえられ、殺害されたと発表しました。しかし、
こんな説明を今さら信じろといっても無理なことであり、結果的に3人が殺害された事実がカタ
ンガ政府から公表されたことで、国内的のみならず、国際的にも衝撃的なニュースとなりまし
た。
 国内では、ルムンバの信奉者のみならず、多くの国民が、独立運動のリーダーを失った悲し
みに打ちひしがれていました。彼の本拠地であるスタンレーヴィルでは、人々は外出する気力
も失せて、町全体が静まり、ここに政権を築いていたギゼンガは、市民に一週間の喪に服すこ
とを命じました。ベルギー人たちは報復を恐れ、兵士たちの襲来の噂におののいていました。し
かし、ルンドゥラ将軍のお陰で、心配していた混乱は何も起きませんでした。2万5千以上の市
民たちが、虐殺された3人を追悼する儀式に3加し、暴力行為には絶対に走らないよう、そして
家に帰って沈黙を守るように諭されたのです。
 国際的にも、ルムンバ処刑のニュースは驚きと衝撃をもって迎えられ、世界各地でデモや騒
動に発展しました。一4日カイロのベルギー大使館が怒った民衆に略奪され、放火されました。
ワシントン、パリ、東京など世界の主要都市で、ルムンバの死に直接・間接関与した政府を避
難するデモ行進が繰り広げられました。
 国連においても、すでにこれまでコンゴへの国連介入のあり方に非難していたソ連など共産
圏諸国や一部の中立諸国は言うに及ばず、アジア・アフリカ、その他多くの国の代表が、この
ルムンバの死について、ハマーショルド事務総長の責任を問う声が高まりました。アフリカ諸国
の中では穏健派に属するモロッコの国王が事務総長に宛てた書簡は、そのような声を代表す
るものであり、「(ルムンバとその同志2人の殺害という)このアフリカ・ナショナリズムに加えら
れた犯罪は、国連の威信とアフリカ新興独立国が特に示している国連への信頼に対し、恐るべ
き鉄鎚を加えるものである」と述べています。(*5)
 ルムンバはコンゴが独立を達成してから6ヶ月余りで、36歳という若さで、その命を絶たれま
したが、その短い政治家としての実績、あるいは政治的手腕の評価については、様々な見方
がされ、意見も分かれるところです。しかし、彼は部族主義的な枠を乗り越えて、国民的規模で
人々を引き付ける魅力と能力を持った、コンゴの最初の政治家であったと言えます。
 彼の悲劇的な死に方、そしてアフリカの独立と統一を熱望して彼が残した演説と文書は、彼を
独立の殉教者として復活させました。パトリス・ルムンバは、アフリカの真の解放を目指す
人々、それを支援する世界の人々によって、英雄の座に着かされることになります。モスクワで
は彼の名前を冠した大学が生まれ、多くの都市で、ルムンバ通りが誕生しました。
 モブツは、政権を掌握した翌年の一966年6月30日の独立6周年に際し、何とこのルムンバ
を国民的英雄に祀り上げ、コンゴ独立のために命を落とした国民的殉教者にすることを、公式
に宣言しました。そして、レオポルドヴィルの最も広い大通りに彼の名前を付け、ルムンバが最
後に監禁されたエリザベートヴィル郊外のヴィラを巡礼の地に指定しました。その上で、式典に
3加している大衆に対して、パトリス・ルムンバを追悼するため、一分間の黙祷を捧げることを
呼びかけました。
 これはモブツの政治的手法を物語る一つの出来事として、注目に値いします。学生運動のリ
ーダーたちがモブツに提示した要望事項の一つがこのルムンバの名誉回復であったとしても、
自分の部下に手足を縛らせて、唾を吐きかけた人物を5年後とはいえ、国民的統一の精神的
拠り所として利用するということは、ルムンバ処刑の本当の首謀者が誰なのかを知っている人
たちにとっては、全く白々しいことでした。モブツにとって、自分がアフリカのリーダーの一人にな
り、国際社会でコンゴの大統領として受け入れられるためには、必要な儀式だったのでしょう。
 J・ショメは書いています。「人の手を借りて抹殺したその人物を、自分自身でこのように殉教
者に仕立てるということは、歴史上でもほとんど例を見ないことである。それは、どんな論評をも
する気にもなれない、嫌悪の念を抱かせることであり、驚きの声も出ないような破廉恥なことで
ある」と。(*6)
 こうしてルムンバは抹殺されましたが、すでに4―5で述べたように、このモブツの政治的決断
を促したのは他ならぬアメリカでした。「ルムンバ殺害の3年後、モブツは自分が成し遂げたサ
ービスに対する公式な報酬をアメリカ合衆国で受け取るとことになった。アメリカの参謀総本部
長の招待客として訪米した際、ケネディ大統領の指示で功労勲章を叙勲されることになり、そ
の勲記には《自らの国から外国の共産主義者たちを掃討することにより、この人は自由の擁護
者で、世界の自由主義諸国の友人であることを証しした》と記されていた」。(*7)


 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップ頁へ   章のトップへ    次の頁へ
第 5 章  ルムンバ後の政情と国連の武力行使
第 5 章  ルムンバ後の政情と国連の武力行使