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第 4 章 ルムンバの排除とモブツの登場   
4−1
ルムンバの解任
4−2
モブツの最初のクーデター
4−3
行政国務委員会の発足
4−4
CIAが選んだモブツ
4−5
ルムンバ暗殺を計画をしたCIA
4−6
ルムンバのキンシャサ脱出
4−7
ルムンバ一行の逮捕
4−8
ルムンバと二人の同志の処刑
4−9
国内外での処刑の反響

    4−1  ルムンバの解任
 これまでカサヴブ大統領とルムンバ首相は、それぞれバコンゴ族とバテテラ族の代表として、
また、穏健派と急進派のリーダーとして、決定的な立場の違いはあったものの、国家統一の責
任者としての自覚から、2人はこれまで相携えて、行動してきましました。ベルギーの軍事介入
について国連に提訴した時も、カタンガの分離独立を何としても阻止しようとして、エリザベート
ヴィルに乗り込もうと努力した時も、2人は行動を共にしました。しかし、ベルギーが用意してく
れた基本法の規定によると、両者の権限分担には大いに問題がありました。お互いに相手を
信頼できなくなるのに時間は掛かりませんでした。その上に、2人の対立意識をいやが上にも
扇動し、利用しようとするCIAやフランス人、ベルギー人顧問たちの策動もありました。
 CIAのレオポルドヴィル駐在代表であるデブリンは、ワシントン本部からの指示に基づき、す
でにルムンバ首相排除の工作に取り掛かっていました。8月24日、デブリンは、反ルムンバ派
の指導者グループを通じ、カサヴブ大統領にルムンバ暗殺計画を持ち込んだが、カサヴブは、
これを拒否した旨の報告を本部に行っています。それは、カサヴブ大統領が、暴力に訴えるの
を嫌い、またルムンバに代わるべき人材なしとその時は思っていたからです。
 先ず、憲法とも言うべき基本法の解釈をめぐって議論が交わされ、基本法の条項に従って大
統領には首相の罷免権があることが指摘され、カサヴブ大統領にこの条項を援用して、ルムン
バ解任を行うよう説得が始まりました。そして、カサヴブも、最後にはこの大統領の権限を持ち
出す決心をします。
 9月に入ると早々、ルムンバ排除の具体的行動が開始されました。5日の朝、カサヴブ大統
領はレオポルドヴィルの放送局を通じてルムンバ首相の解任を発表しました。ルムンバはこの
ことを事前に承知しておらず、この大統領の放送をたまたま聞いた友人から連絡を受けて、初
めて知りました。ルムンバは、慌ててラジオ局に赴き、9時から10時半までの間、3回にわたり
声明を出しました。その要旨は次のとおりです。
 「国民の前で公然と国家を裏切ったカサヴブの予期せぬ声明によって引き起こされた情勢を
検討するため、本日夕刻閣議が招集されることを皆さんにお知らせする。私はカサヴブ氏から
も、閣僚からも、国会議員からも相談を受けなかった。国民から選ばれていない政府、国民の
信頼を得ていない政府は、国を統治することができない。それが民主主義の根本である。この
国民の信頼を我々は得ている。皆さんが選挙を通じて自由に選んだ国民的な政府が、今日に
いたるまで国家の崇高な大義のために尽くしてきたことを我々は国民や全世界に対して証して
きた」。
 国連もまた、ルムンバの排除に向けて動いており、モブツの協力を得て成立させたカタンガと
の休戦協定を実施すると言う名目で、国連軍は全ての空港を閉鎖しました。現実には、それに
よってルムンバに忠誠を誓っていた国軍の兵力がレオポルドヴィルに戻るのを、結果的に阻止
しました。中央政府に忠誠を尽くしてきたムポロ大佐も、ルムンバの兄弟党であるPSAの党首
であり、首都圏知事の役職にあったカミタツも、レオポルドヴィルに帰ろうとしましたが、国連軍
部隊による空港閉鎖で、戻れませんでした。
 このように、ルムンバを孤立させ、無力化させる手段が次々と採られ、ルムンバがラジオをこ
れ以上利用できないように、国連軍がラジオ局の建物を占拠しました。それに対して、カサヴブ
はコンゴ河対岸のブラザヴィルの放送局を使って、自由に声明を出すことができました。
 しかし、ルムンバは、国会においてはまだ多数派のリーダーであり、9月7日国民議会(下院)
において演説を行うことができました。
 「・・・人々は、私を共産主義者として非難しており、私があたかもコンゴをソ連の属国にしよう
としていると言い張っている。しかし、そのような発言の原稿は、現実にベルギー人やフランス
人たちによって書かれている。9月3日、私はカサヴブ大統領官邸でゲル、ヴァン・ビルセン、ク
ロッケ弁護士たちの姿を見かけた。彼らは、端的に言ってコンゴをバルカン化する目的でいろ
いろな計画を練るために、官邸に開設された参謀本部を構成する人々である」。(* )
 ルムンバは、同日下院で信任投票を要求し、下院は60対19で「首相の解任は無効である」
旨の決議を可決しました。翌8日には、上院が41対2、棄権6をもって首相の信任を可決しまし
た。さらに、両院合同会議でパトリス・ルムンバに国家統治の全権を委任する旨の決議が、88
対25、棄権3で可決されました。
 一方、ルムンバを解任したカサヴブ大統領は、後任首相として上院議長のジョセフ・イレオを
任命しました。このイレオは9月14日に至り、モブツをルンドゥラ将軍に代わり、国軍の最高司
令官に任命しました。その理由は、その日の内に明らかになりました。いよいよ主役のモブツの
登場です。

    4−2  モブツの最初のクーデター

 レオポルドヴィルのレジナ・ホテルは、コンゴ河に平行して街の中心部を貫いている《6月30
日大通り》に面しており、当時はメムリングに次ぐ第二のホテルでした。大通りの反対側には、
象牙やさまざまな民芸品を売る広場が、外国人相手に開かれています。厳しい太陽が沈む頃
になると、暑い一日を終えた人々が現地製のビール、プリミュスを飲みに、あるいはくつろげる
仲間を求めて、このホテルにやって来ます。さすがに動乱のため往時のような賑わいはありま
せんが、それでも国連関係者や緊急援助要員、それに生活の根拠であるこの地をそう簡単に
は離れられないギシャやレバノン、シリアの商人たちで、何時もならテラスとバーは混んでいま
した。
6月30日通り−右端にホテル・レジナの一部
が右端に見えます。中央にみえる白い建物はコ
ンゴー国内の輸送を独占的に行う運送会社OT
RACOの本社ビルです。

元日本鉱業(ジャパンエナジー)駐在員 田村
彰三氏撮影 
  しかし、イレオ新首相がモブツを軍の最高司令官に任命した9月14日の夕方は全く別世界
で、内外のジャーナリストがぞくぞくとこのホテルのロビーに集まっていました。それは、その日
の朝8時半にモブツがラジオを通じて、国家元首、議会、対立する二つの政府の機能を停止さ
せる旨のメッセージを流したからです。そして、このクーデターとも言うべき行動について、夕刻
ここで自ら記者会見を行なうと発表したからです。そこでモブツは次のように語りました。
 「軍が国家元首、並びに対立する2つの政府(ルムンバとイレオ)、さらには国会の機能を停
止させるのは、国家を行き詰まり状態から抜け出させるためである。これで政治家たちは、より
良く国家に奉仕するために、対立を解消するよう努力する時間を持つことができる。これは軍
事的クーデターではなく、どちらかと言えば、単純で平凡な平和的革命であり、軍人は一人とし
て、政権に入らない」。
この声明で、国家元首と2つの政府、そして上院・下院の機能は、この年の12月31日まで停
止されることになりました。この措置がルムンバと議会を標的としたものであることは、一目瞭
然でした。
これに対して、ルムンバ首相も黙っていませんでした。翌15日の朝、中央政府として次のよう
な声明を発表しました。
「コンゴ共和国政府は、国軍参謀本部長のモブツ大佐が、合法的で国民のものである政府に
対してクーデターを起こすために、帝国主義者たちによる陰謀に巻き込まれたことを国民に告
げる」。
ルムンバは記者会見で、モブツの恩知らずをなじりました。「モブツ大佐は、その全てを私に負
っている。彼が食うに困っていた時、食べさせてあげたのは私である。そして今、彼は帝国主義
者たちの手先になってしまった」。
モブツを大佐に昇任させた時、軍の長老たちであるボボゾ、ルンドゥラ、ムランバ、ココロたち
は、ルムンバに言いました。「貴方は、何時かこの昇任を間違いだったと悔やむことになります
よ」と。しかし、言われた本人は勿論のこと、この長老たちもその日がこんな早くやって来ると
は、想像できませんでした。
このクーデターで、モブツが目指していたのは、何はさて置いても、ルムンバの排除でした。と
いうのは、カサヴブは従来どおりの活動を続け、ラジオ・ブラザヴィルとラジオ・マカラ(注 反ル
ムンバのために、ベルギーとカタンガ筋の者により運営されていた放送局)を通じて、国民に呼
び掛けることができました。それに対しルムンバは、モブツの兵士に追いまくられ、自宅に監禁
状態となり、自らの身柄の安全はガーナの国連軍兵士に確保してもらっていました。そのガー
ナ兵たちも、ルムンバが放送局に入ることを拒否していました。
クーデターのもう一つの目的は、政治を混乱させる悪の元凶であるとモブツが考えている政治
家を黙らすことで、そのような政治家抜きの政府を作ることでした。それは、裏を返せばアフリカ
戦略上、また資源戦略上、重要なコンゴに反共産主義の強力な安定政権を確保したい欧米、
そしてCIAの要請でもありました。

     4−3 行政国務委員会の発足
 2つの政府の代わりに、モブツは、コンゴの行政機能をコンゴ人の《テクノクラート》とも言うべ
き、若い大学生たちに委任することにしました。そのために、モブツはブラッセルのルーヴァン・
カトリック大学に留学中のコンゴ人エリートたちを呼び戻しました。これまでの政治家とは違った
キャリアーの若い人たちに行政執行の任務を与えたのであり、それを統括する人物として、ル
ムンバ政府の外務大臣を務めているジュスタン・ボンボコを指名しました。そして、この組織に
行政国務委員会という名称をつけました。
 留学中の若い人たちに新生国家の行政を任せるという発想は、どこからきたのでしょうか。す
でに、モブツの生い立ちの中で述べたように、植民地時代にブラッセルに留学すること自体が
異例なことでありました。そのような留学生は、多かれ少なかれ、ベルギー当局から便宜を図ら
れていた若者たちでした。そして、ベルギーの反ルムンバ陣営のお世話になって、反左翼的な
政治活動に係わっていました。ベルギー黒人学生協会という組織を作り、急進的、親共産主義
のルムンバを排除するスローガンを掲げていました。そして、コンゴの政治的危機が深まるに
つれて、ブラッセルにおいてその活動を活発化していました。彼らを物心両面で支援するベル
ギー人のグループがありました。そのグループとは、カタンガ分離をサポートし、独立後のコン
ゴに権益を持ちつづけようとするベルギー人たちに他なりません。
 彼らの支援を受けて、最初に帰国したのは、上記学生協会の会長格のマルセル・リハウであ
り、次いでエヴァリスト・ロリキ、アルベール・ンデレ、マリオ・カルドーソなどでした。ボンボコは
すでに独立の際に外務大臣に任命されていました。それに、留学組みではないが泣く子も黙る
公安当局のパトロンと言われることになるネンダカも加わりました。これらの若者は、それから
長年にわたり政治的な集団として、モブツ体制に深く係わることになり、ビンザ・グループと呼ば
れました。ビンザとは、植民者たちが瀟洒な住宅地としてレオポルドヴィルの郊外の丘に開発し
た地区の名前であり、その近くにある軍隊のビンザ・キャンプをモブツが活動の基地にしていた
ことにも関係があります。
 モブツは14日のクーデター声明で、この若きエリートたちによる行政国務委員会に、軍人は
一人も入らないと宣言しながら、その全てを後から指揮していたのは、実はモブツ大佐でありま
した。9月21日モブツは報道陣に次のようなメッセージを送っています。
 「本9月21日より、私自身が定めた規定に基づき、あらゆる省庁の管轄を任務とする行政国
務委員会が設けられることになった。国家の総合的な政治を執り行い、法律の遵守を励行さ
せ、外部に対しコンゴ共和国を代表する任務を施行するための全権限を持つのは、この委員
会だけである。報道機関は、今後この行政国務委員会だけと接触すること、そしてライバル関
係にある諸政党の対立的なコミュニケを撒き散らそうとする行為、この規定に抵触する行為を
行う者は全て、国家秩序を侵害する者として公権をもって逮捕されるものとする」。
 これはまさに報道管制を意味するもので、さらには、国会の機能の停止は年末までと、当初
言明したにも拘わらず、モブツはその国会の再開に新たな条件を付けました。それは、もし国
会議員全員がルムンバを拒否するなら、という非現実的なものでありました。この行政機関と
国会に関するモブツの発言は、これから自分が全てを支配するという明確な意思表示であり、
特に、「私自身が決めた規定に基づき」という言い方は、本質は独裁そのものです。
ビンザ・グループの名称の由来である軍のビンザ・キャンプをその当時訪れて、モブツと会見す
ることを許されたAFPの特派員は次のように報じています。
 「レオポルドヴィルの中心地から5キロほど離れたビンザ・キャンプに、本拠を置いているモブ
ツのところに到達するためには、有刺鉄線が張られた検問所を2度通過しなければならない。
その関所を通過するためにはモブツ大佐の個人的な許可が必要である。この2重の検問所を
抜けて、しばらく進むと展望の開けた平地に出る。これは、かつてベルギー人たちが住んでい
た瀟洒なヴィラがあるビンザの住宅地であり、今はモブツのパラ・コマンド兵士3百人ほどに占
拠されてしまっている。モブツのヴィラの入り口では、大佐の身辺警護の中心となっている10
人のモロッコ兵が自動小銃を持って警護に当たっていた」。
 このような独裁的なやり方と軍の眼に余る横暴な行動に、勇気をもって反発した人物がいまし
た。それは、レオポルドヴィル州の知事をしていたクレオファス・カミタツでした。彼は、知事とし
てレオポルドヴィルの治安と秩序を守らなければという責任感から、モブツの独断専行と軍の
横暴に反抗する声明を出しました。
 「レオポルドヴィル州政府当局の知らぬ間に、ビンザに監獄が設けられ、そこでは捕らえられ
た人々が、数日間食べ物も与えられず、ひどい虐待を受けている。多くの人々が有無を言わさ
ず、連れ去られ、姿を消している。娘たちが兵隊に襲われ、犯された事例が多々ある」。
  そして、このような事態に対処するため、カミタツはモブツに書簡を送り、モブツが軍に戻っ
て、その指揮を自ら執り、明らかに軍人の責任である多くの不祥事を止めさせることを要求しま
した。それと共に、カミタツはモブツの独裁を食い止めることができるのは、ルムンバしかいない
と考えて、ルムンバ支持のキャンペーンを繰り広げました。
彼は自分が発行している週刊紙《連帯するアフリカ》を通じ、ルムンバの地位の正統性と彼の
復活を説いていました。これにモブツは大変怒り、軍事警察の兵士を使って、週刊紙の発行所
を襲い、問題の新聞を没収し、その上でカミタツ本人を逮捕させました。その他に、モブツは自
分にはっきりとものを言う数人の政治家を逮捕し、投獄しました。すでに独裁者モブツの片鱗が
伺えます。
 一方で、国の政治を任された若い行政国務委員はどうしていたのでしょうか。モブツと右派の
ベルギー人たちに支援されて、行政府の座についたものの、国際的にも一部の国からしか政
府として承認を得られず、また、公民活動の経験が全くない彼らに行政を担当させるというこ
と、それ自体が、そもそも無理な話でありました。国連のコンゴ駐在特別代表のダイヤル大使
は、11月2日付けの事務総長に対するレポートで次のように述べています。この行政国務委
員会の実体が分かります。
 「未経験の若い学生によって形成された行政国務委員会は、国連の支援活動との関連で、新
たな問題を生み出している。これらの若い国務委員は、皆揃って多数のベルギー人顧問に囲
まれており、その顧問たちは、いわば彼らの今までの指導者に他ならない。従って、当然のこと
ながら、彼らは、国連のコンサルタントたちと協力して仕事をするというよりは、ほとんどの場
合、自分たちの後見人の言うことを聞いて行動することになる。その結果、国連の要員たちは、
厚い反発の壁にぶち当たってしまう。彼らは、国連決議に従った目的で、活動する国連の援助
要員と協力するどころか、その要員と根本的に対立している。
彼らの経験のなさ、行政の手法と統一性に欠けていること、外部からの影響を受けやすいこ
と、さらには加えて、矛盾だらけの通告を出したがることなどにより、事務の遅延、混乱、無秩序
が一層ひどくなっている。これらの要素が重なり、行政と経済の無秩序状況は、崩壊という段階
に入っている。
この行政国務委員会は、国際的にも全面的に承認されているものでなく、国内的にも何ら合法
性を持ったものではない。唯一の権威といえば、それは裏に控えているモブツ大佐の権威以外
の何ものでもない。それは、モブツの支配しているコンゴ国軍の部隊の武力によるものであ
る」。
 ルムンバの追い落としには、それなりの責任を持っているハマーショルド事務総長も、このよ
うな現地からの報告を受けて、このモブツのクーデターが惹き起こしている政治情勢について、
危惧の念を強めざるを得ませんでした。国連はモブツを利用したが、モブツはすでに国連の手
に負えない存在になっていたのです。事務総長は、モブツのクーデターを非難し、国連総会へ
の報告で、次のように述べています。
「コンゴ国軍の無規律は、あらゆる種類の非合法的で勝手極まりなき行為の根源であり、現時
点では、コンゴにおける国連の行動に対するもっと重大な脅威となっている。モブツ大佐のクー
デターは、軍隊の政治への介入であり、平和と安全に対する新たな脅威となっている。経験の
ない学生たちから構成されている行政国務委員会は、国連の使命を阻害しており、許されるべ
き存在ではない」。

    4−4 CIAが選んだモブツ
 モブツがベルギー公安当局の通報者であったことは、多くの人々が証言していることであり、
モブツがブラッセルに来る以前から、その関係は始まっていました。ベルギーの国会議員で、
大臣職にもあったエルネスト・グリンヌは、1960年9月24日付けの「ラ・ゴーッシュ」紙で、ま
た、ミッシェル・メルリェはその著書「ベルギー植民地時代から独立までのコンゴ」の中で、それ
ぞれその事実を述べています。(*6)
ルムンバも円卓会議の時点で、モブツが通報者の役割をしていることを知ったのですが、生活
のためにやったことであろうと寛大な態度でモブツを許したのです。ルムンバ自身もそのことを
「パトリス・ルムンバの生と死」の著者であるピエール・ド・ヴォスとの対談の中で語っています。
セルジュ・ミッシェルは、その著書「ルムンバへの賛辞」の中で次のような逸話を書き残していま
す。「ルムンバが解任される数日前に、ルムンバ邸で開かれた閣議において、ルムンバが報道
記者たちの問題を処理する必要に言及した際、モブツは声を荒げて発言し、報道記者たちはそ
の全員がスパイであり、そのことは誰よりも自分が知っており、自分自身もそうであった、と述べ
た」。(*7)
アメリカの歴史作家であるチャールズ・ホワードは書いています。「1960年8月の間、モブツは
ひっきりなしに、夜になるとレオポルドヴィルの米国大使館にやって来た。そして、コンゴ国軍の
兵士の給料支払を確保し、ルムンバ政府を転覆させるに十分な資金が用意されるまで、大使
館詣でを続けていた」。(*8)
これらの証言から、モブツがベルギーの公安当局の手先であったことは、紛れもない事実であ
り、その諜報活動の元締めをベルギーからアメリカのCIAに変えることには、それほどの抵抗も
なかった筈です。
CIAのコンゴ担当のチーフであるL・デヴリンは、後になってから記者とのインタービューで次の
ように語っています。
「円卓会議がブラッセルで始まった日、我々は米国大使館にいて、我々が未だほとんど知らな
い未来のコンゴ人指導者たちのことをもっと知りたくて焦っていました。その翌日我々は集まり、
会ってきた人物について議論し、得られた情報を文書にまとめた。一番良く出てくる名前はモブ
ツと呼ばれる若い男であった。如何に我々が彼を将来のリーダーとして考えていたか、今思い
出してみれば、極めて面白いことである」。(*9)
この発言は、すでにその時点でCIAがモブツに着目していたことを物語っています。しかも、そ
の時モブツはまだ円卓会議のメンバーではなかったのですが。

    4−5 ルムンバ暗殺を仕組んだCIA
 CIAがモブツを撰んだということは、その次にはルムンバを排除するということでありました。
デヴリンはルムンバの排除についてもインタビューで次のように話しています。
 「思うに、8月の12日から15日の間に、米国政府は新しい(ルムンバに代わる)リーダーが
政権の座に着くことが望ましいという結論を出したのではないか。すなわち、ルムンバは追い出
さねばならないということである。この決定は国の最高のレベルで行われものである。その当
時、私は米国の大統領が行った決定であると聞いたが、今となってはそれを証明することも、否
定することもできない。ルムンバは物理的に抹殺されねばならないということである。そのことを
私は文書によって通告された訳ではない。ジョーという名前の人物から指示を受け取った。そ
れはパリから来たジョーと名乗る人物であり、彼はCIAの上層部のオフィサーであると了解して
いました。私は彼から必要な指示を受け取ることになっていました。ある日大使館から出掛けよ
うとしたところ、大使館の向こう側で私を待っている一人の男がいることに気づきました。その男
は私にある決断を告げた。その決断とはルムンバを排除することであり、もし彼を政治的に排
除できなければ、彼を肉体的に抹殺するということであった」。(脚注9に同じ)
 デヴリンの発言は、ルムンバ排除について自分はワシントンの決定に従っただけだという趣
旨です。でも実際は、この後述べるように逆にデヴリンこそがルムンバ排除の必要性を現地か
らCIAの本部に訴えていたのです。
この点に関しては、「CIAの内幕」を書いたアンドリュー・ターリィの生々しい記述がある。彼は1
948年から1961年までのホワイトハウスの年代記を公式に編纂した責任者でもありました。
ターリィは、「CIAの内幕」で、コンゴの《頼りになる男》であるモブツを見つけ出したことをCIAの
大いなる功績の1つとして挙げています。
 8月18日、CIAの現地支局長だったL・デブリンはワシントンに打電し、ルムンバが自由陣営
にとって危険な人物であり、ルムンバ排除の緊急性を次のように訴えています。
 「大使館および当支局は、コンゴが共産主義者による古典的な政権奪取を経験しつつありと
確信する。多くの勢力が活動中。ソ連機関や共産党、等々。権力闘争の結末を予測するうえで
主たる影響要因を特定するのは困難であるが、決定的な時機の到来はそう遠くない。ルムンバ
が実際にアカなのか、あるいはただ自分の安定勢力を育成するためにアカ戦術を用いている
のかどうかはともかく、反西側勢力は日ましにコンゴ内で強くなっており、第2のキューバを回
避するための行動をとろうとすれば、ほんのわずかな時間しか残っていないと思われる」。(*
10)
 そして、CIA本部のアフリカ部長のB・ツィーディは、「ルムンバ排除」の工作の承認を国務省
に取り付け、翌19日には、早くもこの工作実施の許可がL・デブリンに打電されています。同時
に、ロードアイランド州ニューポートの《夏のホワイトハウス》で国家安全保障会議が開かれ、ア
イゼンハワー大統領とCIA長官アレン・ダレスも出席しました。会議の議事録をとっていたR・H・
ジョンソン(CIA計画委員会事務局長)は、この日の会議のことをよく覚えていて、15年間のギ
ャップがありながら、次のように証言しています。
 「議論の行なわれている最中だったか、アイゼンハワー大統領が何か発言した ― その言葉
を正確に覚えていないが ― コンゴの政治紛争で議論の中心人物だったルムンバの暗殺を命
じたように、私には聞こえた。議論は起こらなかった。
 会議はただ、とんとん進んでいった。私はそのとき自分が受けた感じをかなりはっきり覚えて
いる。大統領の発言に大きなショックを感じたからだ。しかし、この18日の国家安全保障会議
の公式(事後作成)記録には、暗殺に言及したくだりは載っていない」(*11 以下本節の引用は
全てこの脚注と同じ)。
 8月25日にはダレスCIA長官を初めとする4人のホワイトハウスの専門家会議が開かれ、ル
ムンバ排除工作が検討され、「直截な行動の必要性」が強調され、そこでの議論に基づきダレ
ス長官は、翌日現地のCIA支局長に自らの署名を入れた電報を打った。「CIA長官は工作関係
の電報にみずから署名を入れることは少ない。署名した場合は電報の受領者に、指示が最高
位者から、つまり大統領から出た許諾に基づくことを暗に教えるのが目的である」。
この電報の一部を引用すると次のとおりです。
 「当地の上層部が出した明快な結論によれば、もし(ルムンバが)高い地位を引き続き維持す
るならば、不可避的な結果はよくて混乱、悪くすれば共産主義にコンゴ支配への道を開く羽目
となろう。後者の場合は国連の威信にとっても、自由世界全般の利益にとっても、破滅的な悪
影響を及ぼすことになる。よって、(ルムンバの)除去は緊急かつ第一の主目的であり、当面の
状況下では、それがわれわれの秘密活動の最優先事項にならねばならないとの結論に達し
た」。
 このダレス長官の指示が発せられると、現地ではルムンバ首相排除の動きが激しくなりまし
た。すでに、8月24日、CIA本部は現地のデブリンから次のような電報を受け取っています。
 「反ルムンバ派の指導者グループがカサヴブ大統領にルムンバ暗殺計画を持ち込む・・・・。
カサヴブ、同意を拒否す。暴力に訴えるのは気が進まず、またルムンバに代わるべき人材なし
と答える」。
 このようにCIAからその命を狙われていたルムンバは、どのような状況にあったのでしょうか。
すでに述べたように、彼は9月5日、カサヴブ大統領により首相を罷免され、事実上、監禁状態
にありました。さらに、彼の政治的基盤でもある国会は、モブツによりその機能を停止されてい
ました。
 そんなルムンバの首が何故欲しいのか。それは彼の大衆政治家としての能力、熱狂的な演
説で大衆を引きつけてしまう力を恐れ、また、そのような能力を共産主義陣営から利用されるこ
とを恐れていたからです。CIAのアフリカ部長のB・ツイーディは、出張中のレオポルドヴィルか
ら9月13日に次のような報告をワシントンに打電しています。
「ルムンバの才幹、ダイナミズムたるや、その地歩が半ば失われたかに見えながら、そのつど
失地回復をはかる上での決定的な要素となっているように思われる。換言すれば、ルムンバは
土壇場でも民衆を動かせる主張を披露し、状況を有利に急転させうる力量を持つということ
だ」。
 国連の場でもアフリカ諸国を中心とするグループは、モブツのクーデターによる政権を承認せ
ず、国会の再開とカサヴブ大統領とルムンバ首相の和解を求めていました。そして、ルムンバ
を国連総会に招き、演説させることを提案し、そのために、事務総長に対しルムンバに飛行機
の提供など、物理的便宜を図ることを求めていました。
 やはりCIAにとってルムンバは、解任しただけでは安心できない存在でした。しかし、カサヴブ
に断られたことで、暗殺を請け負ってくれるようなコンゴ人を探すことを止め、別のもっと直接的
な手段を講ずることにしました。
 フリーマントルは、その著書「CIA」でルムンバ暗殺計画の準備と実施状況について、具体的
に関係者の証言を引用しながら、詳細に述べています。毒殺、狙撃、その他色々な手段が準
備されました。結局、CIAの工作によるルムンバの暗殺計画の実施場所は、キサンガニに切り
替えられ、その間にルムンバはモブツの部下たちにより捕らえられ、カタンガに送られて、殺害
されてしまいました。CIAとしては、自ら手を下さずに済んだということです。

       
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4−6 ルムンバのキンシャサ脱出
4−6 ルムンバのキンシャサ脱出