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第 14 章 表面化してきたモブツ体制の矛盾
14−1
モブツ体制に対する反抗
 @ モロッコ軍に助けられた第一次シャバ紛争
 A 千人近い人が犠牲となった第二次シャバ紛争
14−2
モブツに異議を唱えた13人の国会議員
14−3
チセケディによるUDPS党結成
14−4
死刑囚から外相へ復帰したングザ
14−5
沈黙を破った教会
14−6
公務員もモブツに怒りをぶつける

   14−1 モブツ体制に対する反抗
  モブツ体制に対する批判は、彼の独裁者としての本質が見えたと同時に始まりました。しか
しながら、モブツは、第9章(9-5)で述べたような武力、秘密警察、シークレット・サービスを使
って、体制に対する批判が組織的なものにならないように、自分に刃向かう者の声や活動を片
っ端から潰していきました。もちろん、政治的な集会や、デモ行為は禁止されていました。
 それでも、モブツに対してものを言おうとする者たちがいなかった訳ではありません。それは
先ず、学生たちでした。1969年6月4日、ロバニウム大学の学生たちは集団を組んで、郊外
のキャンパスからキンシャサの市内に向かって行進しました。そして軍隊から酷い弾圧を喰ら
いました。国家教育省が公式に発表した犠牲者の数は23名でした。しかし、犠牲者を目撃した
あるベルギー人医師が語ったところでは、112名でした。(@P:183) その2年後にも、ロバニ
ウム大学内でこの犠牲者の追悼集会を開き、カトリックの司祭にミサを捧げてもらおうとしまし
たが、これまた厳しい弾圧をうけました。最終的に大学のキャンパスは閉鎖され、ほとんどの学
生が強制的に軍に編入させられ、厳しいしごきを受けることになりました。
 1975年6月には軍部の中で反モブツの烙印を押された士官たちが粛正されました。アメリカ
の軍事アカデミーで研修を受けた士官たちが、そこで軍事戦略の勉強をした機会に、自由な民
主主義社会の空気を味わったのが問題だったのでしょう。米国の扇動でクーデターを企んだと
いう罪で数名の将校が死刑の判決を受けました。ただ、この時は処刑は執行されませんでし
た。
 その3年後の1978年2月にはムコボ・ムデンデ将軍がベルギー軍との親密な関係を疑われ
て、彼と関係した士官など13名が処刑者されました。これらの粛正の対象となった軍人たちは
必ずしも、直接反モブツの行動をとった訳ではなかったのですが、単にモブツを批判したと取ら
れる発言や行動をしたという理由で、また、ベルギーや、アメリカやその他の外国筋から高く評
価されたが故に、モブツの反感を買ったというだけで、排除されたり、処刑されたのです。
 ある意味では、モブツの諜報機関が密告制度や金の力で、あるいは暴力を使い、反モブツの
声を次々に潰していったというのが実体でしょう。
 そんな中で思わぬ出来事がモブツに降りかかります。それはモブツに騙されて、中央政府軍
の傘下に入ることを受け入れた旧カタンガの憲兵たちに関係することです。(5-5.参照) この
悲しい運命を辿った3,000人の旧カタンガ憲兵隊の残党たちは、アンゴラの地で復讐の日を
待っていました。それが次に語る第一次と第二次のシャバ紛争です。
 ついでながら、コルウェジという町について簡単に触れておきましょう。この町は国営鉱山会
社ジェカミンの操業の中心ともいえる鉱山町です。世界有数と言われる銅、亜鉛、コバルトなど
の鉱石を採掘する露天掘りを初めとする採鉱の現場がある他、その鉱石を処理して選鉱の段
階を経て、製錬の工程にいたるまでの巨大な設備があるところです。シャバ州にはこの他にも
多くの鉱山がありますが、このコルウェジはその中でも最も規模の大きい、最新の設備をもっ
た、いわばジカミンの生産の中枢をなす事業所です。第 8 章(8-2-2)で触れたインガ・シャバ
送電線の目的地であるわけです。それだけにこの鉱山町がザイール国経済に及ぼす影響は
大変なものです。また、ここには外国人の幹部従業員や技術者も家族同伴で住んでおり、その
他土木・建設関係、それに商業関係などを含めると3千人に近い外国人が住んでいました。今
流に言えば、テロの対象になるには格好の場所でした。そして、この町が悲劇の場となるので
す。

 (1) 第一次シャバ紛争(80日戦争)
  アンゴラの地に逃れた旧カタンガ憲兵隊たちやカタンガ分離独立時代のベテラン兵士たち
は、内戦の続くこの国で、そのプロ並みの戦闘能力を活かして、生き延びる手段を見い出して
いました。1975年11月のアンゴラ独立以前は、ポルトガル当局が彼らに武器を与えて、ゲリ
ラ掃討作戦に彼らを利用していたのです。そして独立の際は、ソ連やその代理者であるキュー
バの支援が到着するまで、ネトの率いるMPLA(アンゴラ人民解放運動)が首都ルアンダで政
権を樹立するのに大きな手助けになりました。
 独立後もアンゴラの内戦は収まらず、このカタンガ人たちは警備隊に編入され、その中で彼ら
なりの役割を果たしていました。MPLAの財政源だったダイヤモンド鉱山の警備に当ったり、時
にはモブツに支援されていたFLNA(アンゴラ解放国民戦線)と、時にはアメリカや南アなどに
支援されたUNITA(アンゴラ統一独立国民連合)との戦闘に従事したこともありました。この武
装兵力は人々から《タイガー》と呼ばれ、恐れられていました。
 しかしながら、彼らは雇われ侍の仕事をしながらも、一時たりとも故郷のカタンガのことや、モ
ブツに対する恨みを忘れたことはありませんでした。そしてコルウェジの元警察署長であったナ
タニエル・ムンバを中心に、、FNLC(コンゴー解放国民戦線)とう組織を作り上げていました。
だが、時が流れるにつれて、この武装集団も有り難迷惑な存在になってきました。それはMPL
Aの党首であるネト大統領がモブツとの和解を目指すようになったこと、そしてダイヤモンド鉱山
を完全に自分の管理下に置くためには、この集団が邪魔になってきたことです。(ムンバは鉱
山の警備や反MPLA勢力との戦闘によって、それなりの戦利品を得ていたことは容易に想像
できることです。) 1977年1月6日、ネトはモブツは、両国の関係を正常化すること、お互いに
相手国に逃げ込んでいる避難民を引き取ること、などを内容とした合意を交わしました。しか
し、ネトはムンバとその一党に借りがある以上、彼らを直ぐにモブツに引き渡す訳にもいかず、
彼らにザンビアとの国境近くにその本拠地を移動してくれるよう頼みました。
 ムンバの率いる《タイガー》はザンビアの方へ移動する代わりに、ザイールに攻め入ることを
選びました。キューバ人やMPLAの軍隊の支援も受けて、FNLCの武装集団は二手に分かれ
て、シャバ州の侵攻しました。一つは、ロビト=ルブンバシ間を走るベンゲラ鉄道沿いに、国境
の駅があるディロロからシャバ州に入りました。もう一つはディロロの北方約280キロのカパン
ガ周辺から入り、西北西のカニヤマを目指して進撃しました。これに対してザイール国軍の駐
屯部隊は、指揮系統や装備、それにモラルの面でも問題を抱えており、ろくな反撃も加えられ
ずに、それに住民もむしろムンバ側に協力的であったこともあり、ずるずるとこの反乱軍の前に
後退するのみでした。3月13日にカサジ(地図参照)が、同25日にはムチャチャが占拠されまし
た。

 ザイール国軍は、ベルギー、フランス、アメリカなどの兵站支援を受けたモロッコ軍1,500人
の介入を得て、ようやく反撃に移り、カパンガが奪回されたのは、5月28日でした。これが通常
80日戦争と呼ばれている事件です。
 モブツは、モロッコ軍の助けを借り、キンシャサ駐屯の特殊師団カマニョラに属する4旅団を
自ら指揮して、復讐の意味で《タイガー》たちに協力した村々の掃討作戦を行い、捕まえた村人
たちを惨いやり方で殺害しました。これまでもそうでしたが、国軍は叛乱分子の掃討作戦では、
情けのない戦績しか残していませんが、非武装の市民とか村民の掃討や略奪となると恐ろしい
力を発揮するのです。
 実は、今回の侵攻作戦を行ったFNLCの本部はブラッセルにあるのです。このことは、モブツ
政府にとって気になることです。アンゴラのダイヤモンド鉱山にベルギーのソシエテ・ジェネラル
が権益を持っているので、その筋から経済的支援があったことをザイール政府は厳しく非難し
ています。そして、この事件の当時外務大臣の職にあったングザ・カール・イ・ボンドは、FNLC
と通じていたと疑われ、反逆罪の廉で死刑の判決を受けました。彼はカタンガの旧王国の最後
の王ムワント・ヤヴの直系の子孫であり、チョンベとも姻戚関係にありました。また、ルーヴァン
大学を卒業しており、ベルギーの政財界にも親しい友人が多かったのです。モブツは本人が否
定するにも拘わらず、FNLCの侵攻が差し迫っていることを知らせなかったと、彼を非難したわ
けです。
 モロッコ人部隊とフランスなどの兵站支援のお陰で、《タイガー》たちは、退却させられました
が、はっきりと勝負がついた訳ではありませんでした。引き揚げる時、彼は占拠していた町の
店々に次のように書き残して行きました。「今回はお前たちが勝った。しかし、来年の今日は、
我々が勝者となっている。」 そして、この約束を果たすため、本当に翌年の1978年5月13日
に彼らは再度やって来てました。それが次に述べる第二次シャバ紛争と呼ばれる悲惨な事件
です。

 (2)第二次シャバ紛争(コルウェジ事件)
  まさに丁度1年後の5月13日の未明、FNLCの《タイガー》たちは再びシャバに侵入してきま
した。アンゴラとの国境地帯には第11・12の2つの旅団を配備し、国境の反対側の兵力を牽
制していました。コルウェジには編成されたばかりの第14旅団を置いていました。その他、大
統領直属のカマニョラ師団に属する4旅団をシャバ州に張り付けておきました。FNLCは、この
ようにアンゴラとの国境周辺の警備が厳しいことを見てとり、今度はザンビア領の方から入って
きました。そして前回の失敗から学んで、奇襲攻撃で一気にコルウェジの町まで攻め入り、国
の経済の大きな担い手であるジェカミンの鉱山施設を破壊することを狙いました。
 ザイール国軍はこのような重点的な配置態勢をとっていたにも拘わらず、今回もまた一部は
コルウェジから敗走し、一部は市内の幾つかの拠点に分断されて、何とか抵抗を続けている状
態でした。そして《タイガー》たちはコルウェジへ到達する第一の目的をとにかく果たすことがで
きました。
 キンシャサではその日の午後、モブツ大統領が各国の大使を大統領官邸に呼び、2回目の
シャバ戦争が始まったこと、そしてこの侵入作戦が、カタンガ叛乱兵士がアンゴラに駐留してい
るキューバ人傭兵の支援を受けてのものであることを説明しました。 そして、このような計画が
あることを事前に承知していたことも明らかにしました。ただし、昨年モロッコ部隊に助けてもら
ったような、軍事支援の要請をこの時点で口にすることはありませんでした。あるいは、モブツ
は派兵を要請するには、もっと危機的な状況、すなわち外国人の犠牲者の出るような状況が必
要だと思ったのでしょう。
 だが、翌14日には再び各国大使たちを招集し、「重大な情勢に鑑み、ザイールの友好国政
府に対して、大統領個人、ザイール政府、ザイール国をどんな形でもよいので、援助してもらい
たい。」旨のお願いをしました。(HP:26) これはザイール国軍が自分たちの力ではムンバの率
いるFNLCの武装兵力を押し返す自信がないという、告白でもあったわけです。もちろん、この
日呼ばれたのは友好国の大使たちだけで、ソ連大使の姿はありませんでした。
 ザイールと最も関係の深いベルギー、フランス、そしてアメリカのこのモブツの要請に対する
反応は、必ずしも同じものではありませんでした。特に、ベルギーはモブツ政権があと一押しで
潰れるのではないかという、思惑もあり、またFNLCの海外拠点がブラッセルにあり、ここでの
交渉によって何とかコルウェジの自国民の安全についての取引をする可能性を探っていまし
た。ただし、コルウェジの外国人の生命が本当に危機に曝され、パニック状態が生じれば、人
道的見地から、外国人の安全確保だけに限定して、派兵することを考えていました。
 それに対して、フランスはその軍事顧問団が具体的にザイール国軍の状況を把握していただ
けに、当初から外国の軍事支援なしでは事態を収拾することは不可能と判断していました。従
って、コルウェジの3千人の外国人、とりわけ400人のフランス人の安全を確保するため、直ち
に空挺部隊をコルウェジに降下させることを考えていました。それは、人道的見地のみならず、
モブツ体制そのものを維持し、アンゴラから干渉するソ連・キューバへの牽制を一つの戦略的
課題としていました。この辺はベルギーと全く立場を異にしていました。後で述べるとおり、この
時ほどフランスとベルギーの関係がギクシャクしたことはないでしょう。フランスは大統領を初
め、現地のロス大使もベルギー側の態度に相当な怒りを感じていました。
 アメリカはヴェトナム戦争の後、海外出兵が議会の承認なしではできないため、簡単に派兵
は決められませんでした。ただし、昨年の時同様に兵站確保、兵力の輸送などの面で協力を惜
しみませんでした。それはアンゴラを含めたアフリカ政策とも関係するものです。
  コルウェジの市内では《タイガー》兵たちが略奪行為によって、食糧など物資の確保をしてい
ましたが、その様子はどうだったのでしょうか。最も頼りになる情報源は、ジェカミンの現地事務
所とルブンバシ本社やキンシャサ事務所を結ぶテレックスでした。その連絡で戦闘の2日目の
朝方に確認できたことは、カタンガ兵たちはヨーロッパ人に対して略奪や虐待をしていないとい
うことであり、ヨーロッパ人に対する態度は敵対的なものでないということでした。(HP:23)。この
点は極めて重要なことであり、反乱軍は昨年同様、自分の故郷に帰ってきたのであり、ここで
自暴自棄的な殺戮を行うことは、本来考えられないことでした。
 それが3日目に入ると、少し変わってきたようで、当初は外人に対して寛容な態度を見せてい
た叛乱兵士たちも、規律が乱れてきて、態度を硬化させてきたようです。叛乱兵士にとって、ヨ
ーロッパ人たちはモブツ体制の支持者である、すなわち自分たちの敵であるというのが、基本
的な見方であり、その意味で自己防衛的な行為として、あるいは車や物資の調達のためにヨー
ロッパ人を殺害することは現実にあったわけです。簡単な手続きで、処刑を行い、ベルギー人1
0名、イタリア人1名が簡単な裁判だけで処刑されたらしいという連絡も入りました。(HP:37) 
さらには39名のヨーロッパ人が殺されたという情報が入り、これが関係者の間にパニックを呼
び起こしました。
 コルウェジに駐屯していたザイールの第14旅団とその他の部隊の兵士たちは、通信手段を
無くして、散発的に反撃を試みるだけで、一旦敗走した兵士たちも、再び団結して反攻を試みる
ことはそもそも無理なことでした。
 フランス軍事顧問のアドバイスで、モブツは最も評価の高かったマヘレ少佐に直接指示を出
し、フランス軍人の訓練を受けていた第311空挺部隊の投入を命じました。この部隊は国軍の
エリートを集めた精鋭部隊でした。その第2中隊300人余りをコルウェジに降下させ、一方でマ
ヘレ自身の指揮による別の2中隊がルブンバシ側、すなわち東側から地上戦でコルウェジに迫
るという作戦でした。実戦の経験もない、未だろくに降下訓練もしていないこの中隊を降下させ
ましたが、これは反乱軍の餌食となって、壊滅的な敗北を喫しました。かろうじて生き延びた兵
士たちは分断されている正規軍の兵士と合流するのがやっとで、戦闘行動をとることもできま
せんでした。
 幸い、東側から攻め入ったマヘレの兵士たちは、抵抗に遭いながらも、コルウェジの飛行場を
何とか奪回しました。それが、4日目の16日の夕刻のことでした。ただし、それはザイール国軍
がコルウェジ全域を掌握したことではなく、マヘレ少佐の200名でやっと飛行場の滑走路を確
保しているということでした。
 5日目の17日には思ってもいないことが起きました。それはモブツが驚くべきパフォーマンス
を見せたのです。それはマヘレが確保している滑走路に、自分が搭乗しているトランザール輸
送機を着陸させたのです。モブツは内外の報道記者を伴い、1時間ほどコルウェジの地を踏ん
でいたのです。そして、この飛行場が正規軍によって確保されていることを世界にアピールした
かったのです。しかし、そんなパフォーマンスは、市内で人質になっている外国人たちの解放に
は、何の役にも立ちません。
 そして、市内では奇妙なことが起きていました。それは市内の一部の拠点で頑張っていた正
規軍の兵士たちがヨーロッパ人たちに救出のヘリコプターが来るので、集まるよう呼びかけて
いたことです。ザイール約50人のヨーロッパ人たちがバロン・ルベックという会社の事務所に集
められたのです。そこは正規軍の指令部の役割をしている拠点から近くにあり、《タイガー》たち
の襲撃に応戦を続けていました。ヨーロッパ人としてもここが救出につながる可能性が高いと
判断したからです。(HP:84-85)
 しかし、彼らを待っていたのは悲惨な運命でした。そのほとんどの人たちが虐殺されたので
す。ザイール側の発表ではそれはカタンガ兵たちによる行為とされていますが、時が経つにつ
れてそれが正規軍によるものであるとの証言が出されたのです。しかもモブツ自身の命令によ
るものということです。そんな馬鹿なことが?と言わざるを得ません。それは出兵を躊躇してい
るフランス、ベルギーなどに決断を迫るためです。そして、《タイガー》たちによって危機に曝され
たモブツの権威を取り戻そうとしたのです。
 6日目の5月18日、フランスは第2空挺連隊2箇中隊をコルウェジに降下させることを決定し
ました。司令部などを含めて約400人の出兵です。コルシカ島に集結していたこの空挺連隊
は、直ぐにキンシャサ向け出発し、翌19日午後に先発隊が先ずコルウェジに降下しました。そ
して、その日の夜と20日の明け方までに、反乱軍から外国人たちを解放する作戦に当たりまし
た。20日の明け方には第2波の降下を行い、フランスの空挺連隊全員が揃いました。
 フランス部隊が単独介入を実施しましたが、ベルギーは結局、アメリカと共同して人道的見地
から外国人の救出という面に限り、派兵を行うことにしました。20日午前中ににアメリカ空軍の
C130型輸送機がコルウェジの飛行場にベルギーのパラ・コマンドを運んできました。しかし、
ベルギー部隊は反乱軍の掃討作戦には加わることなく、作戦の目的をヨーロッパ人のコルウェ
ジ撤去に限定し、それも72時間以内という命令を受けていました。当然、未だ戦っているフラン
ス側との共同作戦など不可能だったわけです。フランス軍事顧問団の長であるグラス大佐は、
ベルギー軍の行動に憤慨して、次のような言葉を吐いています。
「ブラッセル政府は情勢の分析を間違え、二つの間違いを犯した。一つは、カタンガ兵の侵攻の
始まる前から、ヨーロッパ人に降りかかる危険の実体を5日間、頑として無視してきたことであ
り、もう一つは、この危険が遠ざかった今となって、この危険を過大視していることだ。」(HP:1
92) ただ、これは後から歴史が回答を出す問題ででしょう。モブツ体制の維持という面から考
えれば、フランスが積極的であったのであり、ベルギーは消極的であったということです。
 5月20日の夕刻までに、フランスの空挺部隊は、コルウェジの市内とその郊外にあるジェカミ
ンの施設から反乱軍を掃討することができました。事件発生の8日目に当たります。その間に
犠牲となった人々の数は次の通りです。(HP:192)
     ○ ザイール正規軍     384名 (その内326人が飛行場にて)
     ○ 現地民間人        151名 (その内8人は女性)
     ○ ヨーロッパ人       131名 (その内6人は女性)
       以上合計         664名
 僅か1週間足らずの間にこんなに多数の死者をだしたこの第二次シャバ紛争の酷たらしさを
改めて考えざるを得ません。その半数以上が先ずザイールの正規軍の死者です。これは降下
時に反乱軍の餌食となった第311空挺部隊の2中隊の兵士が大半を占めていると思います。
それにフランス・ベルギーの出兵にも拘わらず、ヨーロッパ人も131名に及ぶ犠牲者を出したこ
とは、本当に悲劇という他ありません。
 そして、フランスの空挺部隊も犠牲者5名の戦死者を出しています。さらに、反乱軍の死者は
約250名と見られています。これらを合わせると、実に920人余りの人命がこの第二次シャバ
紛争で尊い命を奪われたのです。
 ヨーロッパ人がザイール正規軍の兵士によって集められて、結果的に虐殺された姿でフラン
スの空挺部隊によって発見されましたが、この点について後になり、これが反乱軍の兵士によ
って殺されたものでないことが証言されています。
 「後になって反モブツに踏みきった元外務大臣のングザ・カール・イ・ボンドは、モブツ大統領
が欧米諸国を軍事介入に踏み切らせる目的で、自分自らヨーロッパ人の虐殺を命じたことを明
らにしたが、彼がこの話をパリとブラッセルですると、人々は必ずそんな馬鹿なという顔で、声も
出せない程であった。」(CP:71)
 このングザの発言は、事件の時現場を目撃したヨーロッパ人の疑問に答えるものであり、そ
れはさらに、事件当日コルウェジにいた国軍ヘリコプターのパイロット、ピエール・ヤンブイヤに
よっても確認されています。ヤンブイヤは次のように書いています。「“5月14日の17時に突
如として、ボサンゲ大佐は、ヨーロッパ人がカタンガ兵士と共謀しているらしいとの理由で、全て
のヨーロッパ人を銃殺せよとの命令を下した。大佐によれば、ヨーロッパ人は全て(カタンガ反
乱軍の)傭兵である由。(中略)ボサンゲは、自分の命令を執行させるために、情報・公安班の
チーフであるムトゥアーレ中尉と3人の兵士を指名した。ムトゥアーレは、銃殺兵士を伴って50
メートルほど先のヴィラに向かって進んだ。彼らは、鉄製の扉付きのヴィラに近づき、自動小銃
で数回乱射を行った。銃撃の音は、敵との交戦の時の射撃のように響きわたった。”」(OP:57)
 犠牲になった131名のヨーロッパ人の内、少なくともこのヴィラで殺された39名はモブツの命
に従って正規軍が殺害したものでしょう。自分の体制を維持するためには、何でもする、人の命
も犠牲にして構わないというモブツのやり方を如実に物語る事件でした。
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14−2 モブツに異議を唱えた13人の国会議員
14−2 モブツに異議を唱えた13人の国会議員