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第 5 章  ルムンバ後の政情と国連の武力行使
 5−1 軍部の掌握を図るモブツ
 5−2 国民的和解に向けて
 5−3 アドゥラ政府の誕生
 5−4 武力介入に踏み切った国連軍
5−5
カタンガ問題で殉死したハマーショルド
5−6
ウタント事務総長のカタンガ作戦


    5−1  軍部の掌握を図るモブツ
 ルムンバが抹殺された時点で、モブツの政治的な立場はどうなっていたのでしょうか。モブツ
は内閣に代わる行政国務委員会を発足させましたが、自分自身は直接その行政組織には入
っていません。自分で政権を掌握する前に、未だやるべきことがあったのです。それは政治権
力の基盤とも言うべき軍隊の統合とその強化でした。そのため一時的に政治の舞台から姿を
消します。では、その強化すべきコンゴ国軍はどんな状態にあったのでしょうか。
分離独立したカタンガは別として、国軍全体の武装兵士の数は約2万人だったと推察されてい
ます。その内訳は、レオポルドヴィル州に5千、エカトゥール州に2千、オリエンタル州に6千、キ
ヴ州に3千、カサイ州に4千となっています。(*8)
 レオポルドヴィル州の軍隊は、首都のキャンプとタイスヴィルのキャンプにバランスがとれるよ
うに分けられ、一部が南部カサイとカサイ・カタンガ州境線付近での作戦に従事していました。
これらの軍隊は、原則として首都にある国軍総司令部によって統帥される建前になっており、
その時点では、すでに将校団は全員がザイール人化されていました。レオポルドヴィル部隊を
指揮していたのは、最高司令官のルンドゥラ将軍と3謀本部長のモブツ大佐、タイスヴィルの駐
屯部隊は司令官のボボゾ大佐、そしてレオポルドヴィル駐屯部隊は司令官のココロ大佐でし
た。
 ルンドゥラ将軍は、独立前に植民地軍の一員として、第2次世界大戦に3戦した経験のある唯
一の軍人でしたが、軍隊の組織的管理については何の経験もなく、出身地の関係からもレオ
ポルドヴィルではよそ者であり、そこで実権を振り回すことは無理でした。ましてや、全国的規
模で、各州の駐屯部隊の総合的な指揮・命令を行うことのできる将軍は一人もいませんでし
た。
 兵士たちは部族的なつながりの延長として、自分の属する司令官に忠誠を誓っていました
が、給料の未払いが続いたり、自活による生活を強いられたりする中で、軍の規律や忠誠心の
問題よりも、給料を支払ってもらえる指揮官の下にいることが、最大の関心事でした。その意味
で最も頼りになるのはモブツ大佐でした。彼はその点で断然有利な立場にあり、資金調達に奔
走し、兵士たちの信頼を得ていました。
 9月10日に、ONUC(コンゴ国連機構)がレオポルドヴィル駐屯部隊の秩序を強化し、兵士た
ちの生活を安定させるために国連の資金を投入して、給与の支払いに充当した際、その資金
をモブツ3謀本部長経由で提供しました。また、CIAもベルギーもモブツに相当な資金を提供し
ており、これらの軍資金がモブツを通じて配分されることになり、そのことは軍部内でのモブツ
の権威をますます高めることになりました。
 また、経済的な面だけでなく、ザイール国軍の大半の兵士が、モブツと同様にエカトゥール州
の出身であったこともモブツにとっては、好都合でした。植民地軍に6年間いて、公安軍の経理
と書記の研修を受けていたこともあり、他のザイール人将校より多少は軍の組織に精通してい
ました。そして、モブツは駐屯部隊の司令官であるボボゾとココロ両大佐とは親しい関係を持つ
ことができました。ただし、ルンドゥラ将軍は、軍人職に徹した人であり、政治的には親ルムンバ
であったので、やがて、レオポルドヴィルから転出を余儀なくされ、スタンレーヴィルとキヴの国
軍の指揮任されていました。
 9月14日のクーデターの記者会見で、モブツは社会主義陣営を敵視する立場を明確にし、ソ
連を初めとする共産圏諸国の外交代表を国外退去させることにも言及しました。そして、実際
にその3日後には、ソ連とチェコの大使館を閉鎖させ、その外交官たちを国外に退去させまし
た。また、国会の機能停止についても、声明の2日後に、自分の兵士を国会議事堂に行かせ、
上下両院の議員を追い出してしまいました。
 このようにモブツが実力行使によって、声明したことを具体的に実行していったことは、何時ま
でも続く政治的混乱にうんざりしている国民や、コンゴの政治的安定を願う欧米諸国から大い
に評価されることになりました。モブツは、明らかに権力の掌握ということに非常に敏感な人物
でした。そして、自分の権威を高めるためには、あらゆる権謀術数を用いることになるのです
が、その裏には、コンゴを欧米陣営に抱き込み、アフリカ中央部の政治的な安定化を図ろうと
するアメリカの戦略が露骨に見えていました。
 次にモブツは、軍の資金調達のこともあり、カタンガのチョンベに接近する機会を狙っていまし
た。なんと言ってもコンゴの財政源であるユニオン・ミニエールの税金がすべてチョンベに入っ
ていたからです。しかしながら、チョンベはコンゴ統一の最大の敵とも言うべき人物であり、8月
にはモブツ自身がその制圧のために、カタンガ侵攻作戦を用意したこともありました。しかし、モ
ブツもそして国連もその対応を変更して、チョンベとあっさり停戦協定を結びました。それは共産
主義陣営との連帯を強めていくルムンバ主義者たちや革命派の台頭を押さえ込むために、チョ
ンベは手を結ぶべき盟友だからです。
 最初のコンタクトは、クーデターの1ヶ月後の10月16日に行われ、自らエリザベートヴィル
(現在のルブンバシ)に乗り込み、チョンベと会談を行ったのです。会談後、2人はお互いに相
手を尊重する発言を行い、記者団の前でにこやかに握手を交わしながら、フラッシュを浴びて
いました。
 3日間の滞在の後、帰りにはベルギーの航空会社サベナの特別機が用意され、これにはカタ
ンガ分離独立の裏の立て役者であったロスチャイルド大使、後にベルギー外務大臣として、国
連でコンゴ問題の収拾に当たったスパークなどが同乗していました。誰がこの両者の会談をお
膳立てしたか明白です。
 モブツは、レオポルドヴィルに帰ってから記者団に対して、チョンベ大統領から政治、経済、財
政の面で、全面的な支持を得ることができたと語りました。数百万ベルギー・フランの贈り物を
持って帰ったと言われています。この後、2人は政治の舞台で主役を演じることになり、最後に
チョンベがモブツによって抹殺されることになりますが、その第一幕として注目されるべき出来
事でした。

    5―2 国民的和解に向けて
 カサヴブ大統領の提唱し、ルムンバも参加する積もりだった国民的和解のための円卓会議
は、1961年1月下旬に開催されました。本来は全政党、政治グループが参加するはずでした
が、実際には主要な政党の代表が参加しなかったため、国民的和解を一挙に実現することは
無理でした。スタンレーヴィルのギゼンガは、その時点では未だ生きていると信じられていたル
ムンバの釈放を参加の条件とし、チョンベは会議の場所をエリザベートヴィルにすることを条件
にしました。
 この円卓会議は穏健派のイレオとアドゥラの根回しで開かれたもので、次への会議の準備段
階に過ぎませんでした。ただ、唯一の具体的成果は、モブツが内閣に替わるものとして発足さ
せた行政国務委員会を2月9日付の大統領令によって廃止したことです。カサヴブは、モブツ
のクーデターでその職務を停止されたのでするが、逆にクーデターで生まれたこの行政国務委
員会を大統領令で解散したのです。大統領はそれに代わってイレオを首相とする新しい中央政
府を作り上げました。
 イレオ政府は臨時的なものに過ぎず、一部の大臣のポストは空席のままでした。それは、国
民的和解の実現を待って、主なる政治勢力の代表を閣僚に任命しようとしたからです。それと
共に、ルムンバの流れを汲む革命主義者たちが次第に武装勢力としての力をつけていくのを
見て、体制寄りの諸派は危機感を抱いていました。それが故に、皆が協力して国民的和解を一
日も早く実現したかったのです。
 コンゴの政情安定化を願うアフリカ諸国の圧力もあり、革命勢力に対抗するするカサヴブ、チョ
ンベ、カロンジなどの諸派は、マダガスカルのチラナナ大統領の勧告を受け入れて、その国の
首都タナナリヴで第2次円卓会議を開くことになりました。マダガスカルはいわば、アフリカ諸国
の中では穏健派に属する国であり、そこを会議の場所とすることは、ルムンバ主義者たちには
受け入れ難いことです。
 3月8日から5日間、国民的和解の実現に向けて話し合いが行われました。カサヴブ大統領
は、より多くの参加者の合意が得られるように、中央集権制を弱めて、連邦制に近い制度の導
入を提案しました。チョンベは会議には出席しましたが、財政の鍵を握っていることを武器に、
強気の立場を崩しません。
カサヴブ大統領は、最終的合意に向かって、第3次円卓会議を4月24日にコキラトヴィル(現
在のウンバンダカ)で開催しました。ルムンバ亡き後の革命派のトップであるギゼンガは、今回
も参加しませんでしたが、革命派軍隊の代表を送ります。ベルギー人顧問団を伴って参加した
チョンベは、この会議の参加者を前回のタナナリヴ会議参加者に限るべしと主張し、さらに開会
早々、カサヴブ大統領が外人傭兵、外国人顧問の国外追放のために国連と結んだ合意書の
廃棄を要求しました。他の参加者がこのチョンベの要求を拒否したので、チョンベは会議をボイ
コットして、帰ろうとしました。しかし、空港に着いたチョンベは、そこで軍隊によって身柄を拘束
されてしまいます。無理難題を突き付けるチョンベに民衆が怒ったのです。
 会議の地元であるコキラトヴィルの民衆と軍隊は、政治家たちが紛糾を続けて、会議が進展
しないことに怒り、デモ行動に訴えました。円卓会議が満足のゆく結論を出すまで、参加してい
る政治家を一人たりともこの地から出させないという決意です。
 結局、会議は1ヶ月以上話し合いを続け、各州の権限を拡大した連邦共和制の導入を含む2
1の議決を採択し、一応の決着をみました。チョンベもこの合意を受け入れ、カタンガの分離独
立に終止符を打つことを承諾し、身柄の自由を取り戻しました。しかし、6月22日に釈放され、
エリザベートヴィルに戻ったチョンベは、約束を反故にして、カタンガ政府を継続させるというし
たたかな態度を見せました。

    5―3 アドゥラ政府の誕生
 コキラトヴィルの合意に基づき、7月22日からキンシャサ郊外のロヴァニュム大学で、新しい
政府を作る具体的な話し合が始まりました。この大学はキンシャサの中心部から南に10キロ
余りの、なだらかな丘の上にあり、当時街からは荒れ野で完全に隔離されていました。アクセス
の道路は全て国連軍によって遮断され、政治家たちは外界との接触を断たれて、このキャンパ
スに閉じこめられました。ヴァチカンの教皇選出会議の名称コンクラーベに倣って、この会議は
ロヴァニュム・コンクラーベと呼ばれました。
 会議の最大の課題は、ルムンバ主義者たちを国民的和解の中に参加させることでした。新政
府の首相に選ばれたのは、シリル・アドゥラでした。彼は独立の際にも、ルムンバから外務大臣
のポストを勧められましたが、その時は余りにも激しい政争に巻き込まれることを恐れて、就任
を断りました。彼は、そもそも労働組合運動家としてルムンバのMNCに参加した人で、強力な
指導力を発揮するような人物ではなく、温厚な性格の人でした。MNCの党員でしたが親欧米
派とも言えます。
 従って、アドゥラならルムンバ主義者たちとも話し合いができるというのが、選ばれた大きな理
由でした。一方で、ルムンバなき後のルムンバ派ならば、国民的和解の政府に受け入れられる
という考えもありました。
 組閣人事は難航しましたが、8月2日にようやくアドゥラ内閣ができ上がり、全ての人たちに受
け入れ易い人選でした。それはとりも直さず、ルムンバ政府の枠組みを大筋で引き継ぐことでし
た。
 大臣が26名、担当国務大臣が一5名という大きな政府となりました。ルムンバ政府の時と同
じポストを与えられたものが一0人、イレオ政府から7人、スタンレーヴィル政府から7人が入閣
しました。と言うことはルムンバ主義者たちの名誉回復とも言える人選であり、特にギゼンガ
は、自らはコンクラーベに参加しなかったのですが、第一副首相に、もう一人の左派の大物グ
ベニエは内務大臣に任命されました。
 このようにモブツのクーデター以来、2つの陣営に分裂していた政界が、何がともあれ一堂に
会するようになり、アドゥラ政府は両院合同会議で承認され、その合法性が確保されました。国
際的にも多くの国々から承認され、ソ連を初めとする社会主義諸国もこの政府を承認しました。
 その中でギゼンガはやがて脱落して行きます。これまで社会主義国からの支援を独り占めし
ていた彼は、中央政界における存在価値がなくなったのです。結局、スタンレーヴィルに戻り、
副首相としての職務を放棄しました。明けて1962年1月15日、ギゼンガは副首相の地位を剥
奪され、20日にはルンドゥラ司令官により逮捕されました。

    5―4 武力介入に踏み切った国連軍
 チョンベのカタンガは、結局どこの国からも国家として承認されなかったのですが、その裏で
は欧米諸国から相当な支援受けてきました。ベルギーは人命保護と技術援助という名目で、軍
隊を駐屯させていました。フランスは外人傭兵の供給元となりました。イギリスはローデシア問
題を抱え、コンゴの一角に白人支配の地域が誕生したことに安堵感を覚えていました。
 カタンガ政府は、財政的にもユニオン・ミニエールやカタンガ特別会社(CSK)などの企業から
の税収入と株主としての配当金を独り占めしていました。1960年6月30日から1963年3月
31日までにユニオン・ミニエールから14億8500万ベルギー・フラン、CSKから4億3100万
ベルギー・フランの収入を得ていました。(*9)
 国連は何よりも、コンゴが東西対立の場になることを避けようとしました。それが故にあらゆる
軍事援助が国連を通して行われることを要請したのです。しかし、ハマーショルド事務総長は、
ルムンバがソ連の支援を求めるようになったので、ルムンバへの協力を止め、国連軍によるカ
タンガへの直接介入を断念しました。ハマーショルドは、事態が紛糾を続けることに苦悩し、19
60年8月12日国連スウェーデン部隊を伴って、初めてエリザベートヴィルに乗り込みました。
しかし、話し合いはつかず、チョンベとの間で合意できたことは、次の2点だけでした。すなわ
ち、カタンガ側は国連軍兵士のカタンガへの進駐を認めること、国連はカタンガの内政に介入し
ないと言うことです。このハマーショルドのこの行動は、結果的に各方面から厳しい非難を受け
ました。何よりもルムンバ首相にとっては事務総長がチョンベと交渉し、合意を交わしたこと自
体が屈辱的なことであり、ショックでした。この行動は親欧米的と取られても仕方のないもの
で、国連においてソ連は言うに及ばす、アジア・アフリカ諸国から厳しい批判を受け、事務総長
のコンゴ問題に対する政策の根本的変更を要求する声となりました。
 カタンガ問題に対するこのような優柔不断な国連の立場を決定的に変える事件が起きまし
た。それは他ならぬ1961年1月17日のルムンバの虐殺です。皮肉なことにルムンバの死
は、欧米諸国にカタンガ分離独立を支持する理由を失わせたのです。ルムンバがソ連を初めと
する社会主義諸国の援助を得て、カタンガを制圧し、国家的統一を果たすことが何よりも怖かっ
たのです。そうなれば、国連は初心に戻ってコンゴの国家的な統一を確保する使命を果たさね
ばならず、カタンガの分離独立の解消が国連にとって最大の宿題として残されました。国連のコ
ンゴへの軍事介入は、財政的にも大きな負担であり、ハマーショルド事務総長としても責任を
問われる立場に追い込まれました。
 アドゥラ政府がようやく誕生し、国際的に承認を受けると、国連は1961年8月22日、カタンガ
分離を武力により終止させる作戦を開始しました。インド、スエーデン、アイルランド、エチオピア
などが派遣している国連軍約5千人の部隊がこの作戦に参加しました。これに対するカタンガ
憲兵隊は1万3千人を超える戦力であり、ベルギー将校を初め外人傭兵がその指揮に当たっ
ていました。国連軍の実戦的目的は、エリザベートヴィルを占拠し、外国人傭兵たちをカタンガ
から退去させることでした。この作戦は一応の成果を挙げることができ、チョンベも国連の指示
に屈する姿勢を見せた。外人将校たちも追放されました。
 しかし、国連軍の軍力と統治能力からして、カタンガ全土に軍事的支配を及ぼすことは物理
的に不可能です。一旦姿を消した外人将校たちはまた舞い戻り、地の利を得たカタンガ軍を再
組織して、国連軍のポストに反撃を加えてくるのです。チョンベもキンシャサとの話し合いに、素
直には応じませんでした。
 9月12日になり、国連軍は再度の攻勢を仕掛けました。今度は何が何でも武力によってカタ
ンガを中央政府に屈服させ、チョンベ、ムノンゴ、キヴエなどの政治的指導者を逮捕するという
作戦でした。特にグルカ兵からなるインド軍は街の中心にある郵便局と放送局を攻撃し、カタン
ガ憲兵隊と傭兵たちを標的に激しい銃撃を加えました。しかし、逮捕できたのはキヴエだけで、
今回もチョンベは、一旦降伏の意向を伝えながら、行方をくらまし、徹底抗戦を呼びかけるとい
う戦術を繰り返すのです。その裏にはベルギー、イギリスの現地総領事のサポートがあったこ
とは間違いありません。
 キンシャサに到着していたハマーショルドは、今回の作戦も成功しなかったことにショックを受
け、また国連軍の攻撃により多数の死者がカタンガ側に出たことにより、英国などから国連の
決議と目的に反した行動であると厳しく非難されました。国連軍のこの軍事行動はチョンベ側
から虐殺行為として宣伝され、それが報道機関を通じて、世界中に流されました。

    5―5 カタンガ問題で殉死したハマーショルド
 ハマーショルド事務総長は、現地の国連部隊との認識の差にも悩んでいました。この現地部
隊に対し、今後は自衛のためにしか武力を行使しないよう改めて指示しました。その上で、自ら
チョンベと話し合う決意を固め、英領北ローデシア(現在のザンビア)のンドラという鉱山町まで
赴くことにしました。この町はエリザベートヴィルの南東約200キロ、コンゴとの国境に沿ったと
ころにあります。チョンベは、国連との対決における勝者のような気持ちで、事務総長を待って
いました。
 約束の9月17日、ハマーショルド事務総長を乗せたDC-6型機はキンシャサの空港を午後5
時に離陸しました。キンシャサからンドラまで直線で約1750キロあります。その上、直行する
ためカタンガの上空を飛ぶのは危険なので、カタンガの北側を回り、タンガニイカ湖に出て、南
下する航路をとりました。そのため時間が掛かり、この飛行機がンドラに接近したのは夜中の1
0時10分でした。コントロールタワーとの交信も行われ、着陸許可も出ました。しかし、飛行機
は何時まで経っても滑走路に姿を現さないので、管制官はハマーショルド機を呼び出しました
が、返事はありません。ローデシア当局は周辺の空港に緊急着陸した飛行機がないかを調べ
ましたが、何の確認情報も得られませんでした。空港で待機していたチョンベ一行は、飛行機
が一向に降りてこないので、ハマーショルドが最後の瞬間に変心したのではないか、あるいは
夜明けを待って到着するのではないかと考え、空港を去りました。
 翌朝、情報確認のために時間が費やされ、遭難の可能性を前提に捜査命令が出されたの
は、午後1時でした。そして、空港の西15キロの地点で墜落しているハマーショルド機が発見さ
れ、救助隊が現場に駆けつけました。16名の搭乗者の内ハマーショルドを含む15名の死亡と
国連護衛官1名の生存が確認されました。この護衛官も病院に収容された後、死亡しました。
ンドラ周辺はサバンナ地帯で、なだらかな地平線が続いており、険しい山や丘ありません。調
査の結果も着陸体勢のまま地上に接触したことを示していました。
 スウェーデン出身の政治家で、国連事務総長を8年近くも務め、ノーベル平和賞にも輝いた
ハマーショルドは、ついにカタンガ問題のために命を犠牲にしました。墜落の原因については、
カタンガの空軍機に攻撃された、爆発物が仕掛けられていた、17番目の搭乗者がいた、ハマ
ーショルドが自殺を図った、などの種々の噂が流れていました。
余りにも多くの謎に包まれたこの事故については、ローデシア当局と国連との2つの調査委員
会が詳細にわたり、調査活動を行いました。しかし、決定的な事故の原因を突き止めることは
できませんでした。ただ、遭難機の捜査活動の開始は何故そんなに遅れたのか。夜が明けるま
での時間をローデシア当局は何故何もしないで過ごしたのか。不思議なことが沢山あります。
少なくとも国連の調査団はこれらの点を問題視しています。そして、ハマーショルドの死後も、
チョンベは抵抗を続け、アドゥラ政府との話し合いに応じませんでした。

    5―6 ウタント事務総長のカタンガ作戦
新しい国連事務総長のウタントは、ケネディ政権の支持も得て、前任者の死後3ヶ月経った19
61年12月5日、これまで以上の決断をもって国連軍による3度目の攻勢を仕掛けることにし
ました。その結果、中央政府のアドゥラ首相とチョンベをキトナ基地において、交渉のテーブル
に着かせることに成功しました。そして、12月20日アドゥラとチョンベの間で、分離独立を解消
することにつき合意が成立しましたが、チョンベはエリザベートヴィルに帰ると、カタンガの熱狂
的な支持者の歓迎を受け、またもやこの合意を反古にしました。
 1962年に入り、国連はカタンガの分離独立解消のために、ウタント・プランと呼ばれる、新し
い戦略を打ち出しました。これはカタンガを経済的に包囲、制圧しようとするものでした。単なる
経済封鎖に留まらず、ユニオン・ミニエールに対しカタンガ政府に租税や配当金を支払うことを
封じるものです。さらに、カタンガ原産の銅とコバルトをボイコットする手段まで用意していまし
た。チョンベは、このような経済措置に対して、できる限りの手段と宣伝活動で抵抗を試みてい
ました。
 1963年に入り、ついに国連軍は米国のケネディ政権の支援を取り付けた上で、カタンガに
対して最終的攻撃を仕掛けることにしました。これに対して、カタンガ政府は1月14日ベルギー
のスパーク外相に対し、カタンガの分離独立に終止符を打つことを公約しました。翌15日ユニ
オン・ミニエール社は、キンシャサにおいて外貨収入の全額をレオポルドヴィルの中央銀行(*
10)に集中することに同意する文書に署名しました。
 最後までチョンベのために戦っていた外人傭兵たちもカタンガを去り、チョンベは9200万ベ
ルギー・フランの軍資金を抱えて、スペインに亡命しました。アドゥラ首相からエリザベートヴィ
ル駐在大臣に任命されたイレオが1月23日現地に着任し、ついに2年半にわたったカタンガ分
離独立の歴史は閉じられました。
 このカタンガのために、ルムンバ、ハマーショルドを初め多くのコンゴ人や外国人がその命を
犠牲にし、国連は多大な財政負担を強いられました。国連は、その介入のスタート時にハマー
ショルド事務総長が語った自信に満ちた言葉(p.003照)にも拘わらず、多くの挫折と矛盾を
経験しました。それは、安保理決議と総会の決議の矛盾、事務総長と現地国連代表との意識
の齟齬、東西対立を背景にしたアジア・アフリカ諸国と事務総長との見解の相違、国連軍派遣
の財政的問題などの多くの問題を露呈しました。最後はハマーショルド事務総長自らが現場へ
直接介入しようとしましたが、その直前に飛行機事故で亡くなるという悲劇的な結末を迎えまし
た。今でもンドラ郊外の道端に、ダグ・ハマーショルド国連事務総長の殉死を銘記した石碑を見
つけることができます。
 
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第 6 章 革命派の勢力拡大とその制圧
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