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    1−3 植民地からの解放の夢
  大戦後のコンゴには、アフリカ各地で政治的な高まりを見せたアフリカン・ナショナリズムの
余波が押し寄せてきました。それが、コンゴの人たちの眠気を覚まし、1950年、バ・コンゴに最
初の政治的集団が誕生しました。この地域の文化運動に端を発した政治的活動の集団ABAK
(*4)が、独立の際に初代の大統領となるカサヴブを党首として創立されました。そして、外界
との接触を厳しく制限されていたコンゴ人もおずおずながら独立という言葉を口にするようにな
ったのです。
  ベルギー側から最初にコンゴの自立について公的な発言をしたのは、大学教授のヴァン・ビ
ルセンという人でした。1955年、この教授は、30年間の教育と準備の期間を経てから、コンゴ
に自治を与えるというプランを発表したのです。そんな悠長なプランにさえベルギーの人々は怒
りを露わにし、この権威ある教授を馬鹿呼ばわりしました。未だに父権温情主義をもってこの国
を永久に保護し、そこに居座れるものと信じていたからです。当時のイギリスやフランスがそれ
ぞれの共同体の中で植民地独立の準備をしていたことを考えれば、ベルギーの無為・無策が
非難されても仕方がありません。
  何はともあれヴァン・ビルセンの言葉は、コンゴ人に独立への夢を与えることになりました。「と
にかく、偉いベルギー人の口から独立への道が見えてきたという言葉が聞けたのであり、この
ようなことは初めてであった。これに対してコンゴ側の反応は直ぐに出た。その独立を今直ぐに
も欲しいということである」。(*5)
  その2年後の1957年に最初のコンゴ人の市町村議会選挙が行われ、ABAKO党は圧倒的
勝利を収め、その党首であったジョセフ・カサヴブは、総選挙と自治権を要求しました。それでも
要求したのは自治権であり、間違っても独立ではありません。カサヴブは、アフリカのフランス
領植民地が、フランス連合共同体の枠内ですが、共和国として独立の道を与えられたことで、
大いに勇気づけられたのです。
  アフリカの各地で独立スケジュールが具体化されている情報はひたひたとコンゴにも伝わって
きました。独立を夢見るナショナリズムの波は国民の間に高まり、パトリス・ルムンバも1958
年10月、国民的政党MNC(コンゴ国民運動)の結成に踏み切りました。単にルムンバのバテ
テラ族の部族的紐帯ということでなく、統一国家を目指す、全国的な広がりを持ち得る政党でし
た。
  党結成2ヵ月後の12月に、ガーナの首都アクラで、アフリカ人民連帯会議が開催され、ルム
ンバはコンゴを代表して、この会議に出席することができました。彼の主張する国家的統一とい
う政治的構想は、この会議のアフリカの団結というテーマによって、さらにイデオロギー的に強
化されました。この会議の主催者であるガーナのンクルマ大統領は、すでにその前年の3月に
英国からの独立を達成していただけに、ルムンバはンクルマの思想に大いに感化されたので
す。一方、ンクルマとしても、この時培ったルムンバとの深い連帯感があったので、コンゴの独
立とそれに続く動乱問題について積極的な発言を続け、国連の舞台でコンゴの代弁者としての
役割を果たすことになります。
  年が明けて1959年の1月4日に、レオポルドヴィルで暴動が起きました。ABAKO党は、そ
の日大規模な集会を開くための許可を要求しており、そこで指導者カサヴブが演説する予定で
した。しかし、当局はこの集会を許可しませんでした。集まった数千人の群集は、立ち去ること
を拒み、警官隊の阻止行為に反抗しました。彼らは、現地人街である《シテ》の中にある商店や
教会を破壊し始めました。そうする内に、群衆の数はますます増え、ヨーロッパ人専用の住宅
地に向かう気配を見せました。こうなれば、公安軍の出動を待つしかなく、ジャンセン将軍が指
揮する公安軍の手荒い介入という事態に至ったのです。公式な数字では、50人の死者という
ことでしたが、実際には、数百人の犠牲者が出たとされています。コンゴ側の記録では300人
の死者と2千人の負傷者となっています。ベルギー人がこの暴動を青天の霹靂だと思ったの
は、彼らがコンゴ人の独立への熱望を知ろうとも、理解しようともしなかったからです。
 
     1-4 準備なしでも独立へ
  植民地当局とコンゴの話し合いによって漸進的に独立を達成するというこれまでの構想は、
一挙に吹き飛んでしまいました。レオポルドヴィルでは当局によるABAKO党の指導者たちの
投獄が続き、国内の穏健な政治指導者たちさえ態度を硬化してきました。彼らにも話し合いに
よる平和的な植民地解放が現実には難しいことが分かったからです。
  一方で、本国ベルギーではその4日後の1月8日に、ボードワン国王が一部の大臣の反対を
押し切って、次のような声明を出しました。
  「我々は、不幸な結果を招くような遅滞を生じさせることなく、そして無分別な拙速を避けなが
ら、コンゴの住民を独立に導いていくつもりである」。
  ベルギー政府は、当時フランスがアルジェリアの独立紛争で、軍事的にも政治的にも苦境に
追い込まれているのを間近に見て、コンゴの独立問題とダブらせて、危惧の念を募らせていま
した。フランス本国でも、プラスチック爆弾と呼ばれる爆破装置によるテロ活動が後を絶ちませ
んでした。ベルギーとしては、フランスのような大規模な軍隊をコンゴに送り込むことはできず、
また、世論や社会主義政党、それにキリスト教系組合も軍隊のコンゴ派遣には反対していまし
た。結局、ベルギー政府は、コンゴ国民代表との話し合いによって、独立への道を開くしかあり
ませんでした。国王に続き、エイケンズ首相の率いるベルギー政府も本腰で植民地改革に乗り
出すことを明らかにしました。
  その時の植民地担当大臣ヴァン・ヘメルリックは、このような事態に妥協の道を見いだすべ
く、コンゴに段階的に独立を与える計画を作り上げました。先ずは、市・町・村の行政について、
現地人を教育しながら、権限の委譲を行う。その次には、県のレベル、次いで州のレベルでの
行政の経験を積んでもらう。これらの地方行政機関が現地人によって機能し始めてから、初め
て全国的に民意を代表する立法議会の選挙を行う。それと同時に、中央政府を発足させ、その
行政官には、それまで地方機関での経験を通じ、能力を証明されたコンゴ人を任命する。以上
を4年掛けて漸進的に進めていくという計画でした。
  植民地にいたベルギー人たちは、この計画をあざ笑い、相手にしませんでした。ヘメルリック
大臣がキヴ州のブカヴを訪れた際、そこに集まったベルギー人たちは、自国の大臣にトマトを
投げつけました。レオポルドヴィルでは、この計画に反対するプラカードが、大臣の歩くところに
敷かれていました。白人たちがこの計画に反対すればするほど、コンゴ人は、この大臣が自分
たちのことを真剣に考えてくれ、本当に独立を与えてくれるのではと思いました。
  しかしながら、このヘメルリック大臣がベルギー政界から見放され、国王と首相の信用を失
い、9月には辞任追い込まれるのを見て、コンゴ人たちは、この4ヶ年計画が夢に過ぎず、ベル
ギーが本気で独立を与える気はないのだ、と考えざるを得なかった。
  この大臣の辞任に際して、パトリス・ルムンバのMNCは、どこよりも早く次のような声明を出し
た。「1月13日に、国王や政府が出した声明に盛り込まれていた独立を仄めかす言葉は、単な
る政治的な宣伝でしかなかったことが、ヴァン・ヘメルリックの辞任によって、明らかになった」。
  それに続いて、コンゴの他の政党や団体が、こぞって同じような非難の声明を出し、これで、4
年以内に独立を与えるという計画は、完全に挫折してしまい、ベルギー政府の信用も失われま
した。
  このような状況の中で、ヴァン・ヘメルリックの後任として植民地大臣に任命されたド・シュリヴ
ェールは、前任者より保守的で、実業界の代表者的な人物でした。ところが不思議なことに、こ
の新大臣が4年ではなく、逆に時期を早めて、1年以内に独立を与えるという政策を打ち出した
のです。その突然の様変わりの背景についてジュール・ショメは次のように書いています。
  「このようにスケジュールを早めたのは、一方では、コンゴ指導者たちの要求が次第にその圧
力を高めてきたからということも、もちろんあったであろう。しかし、他方では、ベルギーの政界
の一部と実業界を代表する人々の計算ずくめの策略によるものであったに違いない。これらの
人たちは、こんな言い方をしていた。不幸なことも、ある点では良いこともある。コンゴ人は、今
直ぐ独立をくれという。それなら、彼らが未だ独立というものを役立てる術を知らない内に、即刻
与えるがよい。ヴァン・ヘメルリックが、幹部人事のアフリカ化を少しずつやろうと言っているが、
今ならアフリカ人の幹部職員は一人もいない。彼らは行政組織というものを持ったことがなく、
頼りになるのは公安軍だけであり、その公安軍の将校はベルギー人だけであり、しかもジャン
セン将軍がその指揮を執っている」。(*6)
  これは、当時のベルギー当局者の本音を暴露する言葉でしょうが、すでに1955年以来、植
民地支配の終焉が宣言されているという国際的背景からすれば、全く無責任なやり方で、そん
な独立が結果として破滅的なものとなることを逆に望んでいたのではないかと思われます。
  独立直後に、スターレンスという偽名で、植民地当局のあるトップレベルの人物が、週刊誌
《ラ・ルレーヴ》に発表した次のような一文は、この突如とした政策転換の実体を物語るもので
す。
  「事実、われわれの政策は、臆病な体質、アルジェリア戦争から受ける強迫観念、それにした
たかな策略上の計算という3つの要素を取り入れたものである。ド・シュリヴェール大臣は、直
ちに独立を与えることにしたが、ヴァン・ビルセン教授が提案していた改革については、何の具
体策もなかった。その理由は、大臣がコンゴ人には全く虚偽の、名目上の独立しか与えない考
えであったからである。ベルギー政界の人々は馬鹿正直だから、財界の人々は、自分たちの権
益を危うくする解放運動を最終的に止めさせるためには、一握りのコンゴ人に大臣や国会議員
の肩書き、大勲位の勲章、贅沢な車、高額の報酬、ヨーロッパ人居住地区の豪華な邸宅を与
えれば、十分であると信じ込んでいた」。(*7)
  しかし、こんな馬鹿げた議論がこの植民地解放の最終段階の時点で通用する筈はないし、ベ
ルギー当局は、コンゴ人が選んだリーダーたちの人間性を全くその議論に入れていなかった。
独立の最初の日から、ルムンバの如きリーダーであれば、おもちゃのような権限に満足できな
いことは明白でした。ベルギー人は、これまで温情的な気持ちでしか対応できなかったコンゴ人
に本気で反抗されて、厳しい現実との対決を迫られることになります。
  もう一つ、ベルギー人たちが考えていたケースがありました。それは、カタンガ州の分離独立
です。世界有数の鉱物資源を埋蔵しているこの州は、面積的にはコンゴ全土の17%しか占め
ていませんが、財政収入面では総額の70%近くの寄与をしていました。この州の鉱産物収入
がなければ、中央政府の財政も立ち行かないのです。また、鉱業技術者を初めとする多くの白
人がこの州に住んでおり、彼らにとってカタンガは、経済的繁栄を満喫できる愛すべき第2の祖
国でした。彼らは、すでに相当前からベルギー本国から独立するという、少なくともコンゴの他
の州とは別個に分離独立するというプランを持っていました。そのために、チョンベという人物
に率いられるCONAKATという政治団体と組んで、このプランの準備を行っていたことは、いわ
ば公然の秘密でした。そして、このプランは独立直後に、本当に実行され、ベルギーの軍隊派
遣と共に、コンゴ動乱収束を阻む大きな障害の一つとなりました。
 
    1−5  円卓会議がブラッセルで
  独立の準備のあるなしに拘わらず、1年以内に独立というタイムリミットだけは設定されまし
た。こうなれば、ベルギー当局としては、具体的なスケジュールと独立の内容についてコンゴ代
表と協議しなければなりません。ベルギー当局とコンゴの民族主義諸勢力の代表とが、ブラッ
セルで一堂に会する円卓会議なるものが、1月20日にスタートしました。
  その時点で、最も有力なリーダーであるパトリス・ルムンバはどこにいたのでしょう? 実は、そ
の前年の10月、スタンレーヴィルで騒動を扇動したという理由で逮捕され、投獄されていまし
た。ベルギー植民地当局が、彼を最も危険な指導者と見ていたことは明らかでした。彼は準ヨ
ーロッパ人の扱いをされる《開化民》(*8) という身分でありながら、獄中でひどい扱いを受けて
いました。弁護士を呼ぶこともできず、板の上に毛布なしで寝かされ、その後軍隊のキャンプに
移され、その便所の中に1ヶ月近く閉じ込められていました。自分でベルギーの検事総長に抗
議の書簡を送り、家族や友人が植民地総督に懇願した結果、12月中旬になり、やっと刑務所
に移されました。
  ルムンバは書いています。「この獄中で自分は、世界のどの国でも自由があることが最も大
切なことであり、そのためであれば、人間は何時でも闘い、死ぬことができると思った。私は一
つの道を選んだ。それは、私の祖国に身を捧げることであり、全ての敵を勇気をもって迎え入
れるということである」。
  年が明けて1月18日、ルムンバは法廷に引き出され、判決が下されたのは円卓会議が始ま
った日の翌日の21日でした。6ヶ月の懲役刑で、身柄は支援者たちのほとんどいないカタンガ
州へ送られました。このルムンバのカタンガへの移送のニュースは、円卓会議に参加している
コンゴ代表にも伝わりました。
  22日、円卓会議の全体会議が始まった時、NMCの代表者たちは立ち上がり、抗議の意味
で会場から退席しました。カサヴブを初めとする他の政党の代表たちも、ルムンバ擁護の発言
を行い、ベルギーの社会党代表の動議に基づき、ルムンバの即時釈放と円卓会議への3加が
要請されました。
  ド・シュリヴェール植民地担当大臣は、スタンレーヴィルの総督代理に対し、ルムンバの虐待
とカタンガ移送の状況について説明を求めると共に、ルムンバの身柄を即時釈放し、円卓会議
に出席できるよう指示しました。このことは、ブラッセル当局と現地の行政府との間に何の意思
疎通もなく、現地は自らの判断でルムンバに対し好き勝手な行動をしていたことを意味していま
す。それは植民地時代を通じて行われていたことなのです。
  ルムンバは直ちに釈放され、ルブンバシからブラッセル行きの飛行機に乗せられました。ブラ
ッセル空港で出迎えたコンゴ人たちの中に、V・ネンダカ、A・カロンジなどに混ざり、ジョセフ・モ
ブツの姿がありました。投獄生活で痩せていましたが、それでも精悍な風貌を輝かせているル
ムンバが降りてくるのを待ちきれず、彼らはタラップを駆け上がってルムンバを抱きしめました。
  1月27日、ルムンバは初めて円卓会議に出席し、発言を求めました。水を打ったような静けさ
の中で、バテテラ族の特有のアクセントで、しかし流暢なフランス語で話し出した。「もし、コンゴ
の全政治犯が釈放されなければ、自分の釈放は意味のないことを強調したい。今もなお、数千
人の同胞が捕らえられており、そのことをベルギー政府は把握していない。昨日まで投獄され、
殴打されていた私は今、仲間と共にこの会議に出席している。ただ、私は怨恨を捨てて、この
議事に参加する」。
  当時ジャーナリズムの勉強のために留学していたモブツ青年は、会議に参加する資格はなか
ったのですが、コンゴ側の代表格であったルムンバの秘書のような役割で、あちこちに顔を見
せていました。このモブツ青年がこの物語の主人公に他なりません。
  この円卓会議は2月22日まで続けられましたが、コンゴ代表団が多数の政党の意思を一つ
にまとめること自体が大変なことでした。しかし、独立を6月までに獲得するという大儀を前にし
て、代表者たちは意外とも思える団結力を示しました。結局、時間的制約もあるので、具体的な
問題については、第2の円卓会議に移すことにし、骨組みとなる基本的事項についてのみ合意
を取り付け、それをベルギーの王室評議会に付議して、独立への道を開くことにしました。ベル
ギー側としても奇妙な決議方法であり、王室評議会が政治の場に出てくるのは、久しぶりのこ
とでした。
  その中で最も重要なものは《基本法》でした。これは新生コンゴの国会が、自ら憲法を制定す
るまでの間、その代わりとなるものです。259条からなるこの基本法の内容は、ほとんどベル
ギーの憲法を書き写したようなものでした。従って、それは中央政府と地方行政当局との間、下
院と上院の間、特に大統領と首相の間に、一つの権限を分けて付与していました。ベルギーで
は「国王は統治するが、支配はしない」という原則がありますが、コンゴの元首は大統領です。
ここに大きな差があり、ベルギーの制度をそのまま取り入れたことは、大統領と首相の関係を
曖昧にしてしまいました。その結果、独立直後の政治的混乱の中で、カサヴブ大統領とルムン
バ首相がお互いに相手を罷免するという事態を引き起こしたのです。
  何はともあれ円卓会議の結論は、独立の日を6月30日とすること、その前の5月に立法議会
の議員選挙を行い、独立までに中央政府を組織することでした。そして、4月には、第2の円卓
会議が同じくブラッセルで開催され、ベルギー側は、政府の代表というより、財界、実業界の首
脳が会議を取り仕切りました。この首脳たちは、ベルギーの権益の擁護を第一義的に考え、独
立後のコンゴとの関係の枠作りを一方的に決めた、と言っても過言ではありません。その交渉
の実体は、言うなれば、長老と子供の対決のようなものでした。それでも、国の将来を束縛して
しまうような事柄が、次々と決められました。モブツも今度はMNCの代表に任ぜられ、この会
議に出席しましたが、彼は後になって、この会議の進め方が屈辱的なものであったことを繰り
返し指摘しています。
  5月に入ると国会議員の選挙が行われました。ベルギーは植民地支配の最後の任務として、
このコンゴ最初の総選挙が公正に行われるよう、できる限りの協力を行いました。本国からは
コンゴ全土の選挙区に選挙管理のための行政官が派遣され、暴力や違法の行為のないよう
に、監視の役割を果たしました。結果はベルギー側の希望に反して、穏健派の勢力よりも、民
族主義派の政党が優勢でした。ルムンバの率いるMNCが第一党の地位を占め、下院では総
議席数137の内、41を獲得し、MNCと歩調を同じくする PSAの13を入れると54議席となり
ました。上院でも、PSAと合せて84議席中の23を確保しました。政党数が48もあったことを考
えれば、圧倒的勝利と言えるでしょう。
  ベルギー人や分離独立派のカタンガ人の強い反発にも拘わらず、ルムンバが政界において
これまで以上に指導的地位を占めるのは当然でした。そして、彼を首相候補から外すことは不
可能となりました。かくして、パトリス・ルムンバはコンゴの初代の首相に指名され、ABAKO党
のカサヴブが大統領の座に就くことになりました。ルムンバは組閣に入り、国民的統一を目指
す政府作りが始まりました。
  MNCの兄弟党であるPSA(アフリカ社会党)の党首A・ギゼンガが第一副首相に指名され、モ
ブツは、大統領府担当国務次官に任命されました。それは枢要なポストという訳ではありませ
んが、どんな問題にも介入し、どこにでも出入りできる便利な役職でした。そして、いよいよ独立
の日を迎えることになります。

〔脚注〕
4 Association des Bakongoの略語
*5 Colette Braeckman 著 Le dinosaure -Le Zaire de Mobutu ページ 131
*6 Jules Chome著 "L'ascension de Mobutu"  ページ 21
*7 Jules Chome著 "L'ascension de Mobutu"  ページ 21
*8 開化民


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第 2 章 ジョセフ・デジレ・モブツの生い立ち
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