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第 9 章 モブツ独裁体制の確立に向けて
9−1
 モブツ体制の確立
9−2
 翼賛政党MPRの創設
9−3
 オータンティシテ運動
9−4
 徹底した個人崇拝
9−5
 体制を守る組織と人々
    
    9−1 モブツ体制の確立  
  モブツは5年間国会の機能を停止し、政党活動を禁止しましたが、その一方で国民の政治的
意識を統一し、ファシズム的に国民の総意をまとめ上げるために、翼賛政党を組織したかった
のです。まず政治的空白を埋めるためにも、1964年の8月に発布されたルルアブール憲法を
改正し、自分の体制に相応しい憲法を作ることに取り組みました。この新憲法は1967年の6
月4日から20日間を掛けて、一応国民投票に付され、その絶対的多数をもって承認されまし
た。一応と言ったのは、この広大な国で、この期間に国民投票を民主的に行うのは、事実上不
可能であるからです。恐らく反対票はほとんど用意されていなかったのではと推察されます。
  この新憲法で注目される点は次のようなものです。
  • 政党の数を2つに制限したこと:  独立に際しては部族や地域の要素をベースにして多数
    の政党が結成され、それが政治的混乱を増幅し、ひいてはコンゴー動乱の背景を作ったこ
    とを教訓にして、政党は2つ以上は 認めないことを明記しました。勿論、2つとしたのは独
    裁政治のための単一政党制への批判を避けるためです。しかし、現実には第2の政党の
    結成を全て潰すということになるのですが。
  • 大統領制を成文化したこと:  カサヴブ大統領とルムンバ首相の対立はルムンバの暗殺
    まで発展しました。カサヴブ大統領とチョンベ首相の対立は前者による後者の解任、さら
    にはモブツのクーデターにまで発展しました。モブツ大統領とムランバ首相との関係は対
    立という形ではなかったのですが、外人傭兵とカタンガ軍の鎮圧を巡り、国軍が大統領派
    とムランバ派に分かれて、対立することになり、モブツはムランバの忠誠を疑い、首相を解
    任したのです。その上でモブツが首相を兼務することになり、事実上大統 領制を敷いて
    いました。新憲法はそれを成文化したまでのことです。
  • 選挙制度を改革したこと:  まず2院制を廃止し、一院制としました。その上で特定の重要
    な法律は国民投票により定めることができるようにしました。大統領も従来のように国会、
    州議会の議員による間接選挙で任命されるのでなく、国民投票による直接選挙で選出さ
    れます。そしてフランスのドゴール大統領に倣って、任期を7年と定めました。
  • クーデターによるモブツ体制を合法化したこと:  クーデターにより政権を握り、5年間 国
    会の機能を停止し、大統領令をもって種々の改革を行いました。州の数を21から8つに
    減らし、州知事を官選とし、これまではどちらかと言えば連邦制的な組織であったものを、
    徹底的に中央集権制に変えました。さらにはムランバ首相を解任し、大統領制を敷いたの
    です。これらの既成事実に法的な根拠を与える必要を感じたので、この新憲法の過渡的
    規定により、1970年に新憲法に基づき大統領が選任されるまで、自分が大統領の職務
    を執行することにしました。同時に休眠中の国会は、この憲法の発布と共に解 消され、
    新国会ができるまで大統領が立法権を行使することにしたのです。これにより、1970年
    の総選挙と国民投票まで、思うままの政治を合法的に行なえるようにしました。

     9−2 翼賛政党MPRの創設 
 新体制がまず取り組んだのは、国民の政治意識をモブツ大統領の意に添って統一していく
ことであり、そのためには翼賛政党を立ち上げねばなりませんでした。しかし、そのことは5年
間政党活動を禁止するというモブツの命令とは相反することです。従って、モブツが考えたこと
は「共和国ヴォランティア部隊(CVR)」という組織でした。そのCVRの最初のセミナーが66年
12月に開催され、モブツ体制の政治理念作りが行われました。イデオロギー面ではナショナリ
ズムを強調し、経済面では基幹となる分野での社会主義化という政策が採り上げられました。
政治運動の面では国民大衆の意識を引っ張っていく強力な組織の必要性を説かれました。そ
れは単一政党誕生の下地作りでもあったのです。
  「コンゴーでは、スウェーデン人とシシリア人がと違うのと同様に、違っている人種がモザイク
の模様をなしていた。かくも広大な面積の国土の上で、どのようにして250の種族、450の言
語を統治し、一つにまとめていくのか? 単一政党は、統一のための基盤の層となるもので、ナ
ショナリズムはピラミッドのセメントの役をすることになる。」(CP:191)
  このCVRのセミナーで、モブツはナショナリズムを掲げる旗手として、ルムンバに次ぐ第2の
国家的英雄に祭り上げられました。そして組合活動と青年運動も統一的な枠組みに吸収して
行くことにしました。これで翼賛政党の設立準備ができあがり、CVRは新しい形の政党の母胎
となったのです。
  一方でルムンバの真の後継者たちは、モブツの政権獲得によって生じた政治的空白を何と
か埋めようと、熱い討議を重ねていました。盟主ルムンバがモブツによって国家的英雄に祭り
上げられたことに勇気づけられ、コンゴー国民運動ルムンバ派(MNC・L)のキウェワ議長は、
行動を起こしました。上記セミナーの1ヶ月ほど後の1月17日はルムンバ虐殺5周年に当たり
ます。その記念の行事において、キウェワ議長は、MNC・Lを国民大衆の政治的欲求を民主
的に吸い上げることのできる政党として、名乗り上げようとしました。モブツもこの式典に出席し
ており、もちろんのことながら、キウェワはモブツに前もってその内容を伝えておきました。モブ
ツはそのような声明に敢えて反対しませんでした。それはモブツがこのようなルムンバの後継
者の発言に世論がどんな反応を見せるか、知りたかったのでしょう。キウェワの声明への反応
は直ぐに出てきました。それはむしろ、否定的なものでした。と言うよりも、この否定的な反応の
出所は、元をただせばCVRであったのです。そこには体制側が仕組んだ芝居にキウェワ議長
が乗せられたとも言えます。モブツは自分がナショナリストとしてルムンバの後継者であること
を宣言させながら、一方でルムンバの本当の弟子たちにはコンゴー動乱の政治的責任を押し
付けるという離れ業をやりたかったのです。
  4月に入ると、革命国民運動(MPR)という政党の設立が発表され、5月20日、コンゴー河を
キンシャサから30キロほど遡ったところにある漁村ウンセレで、MPRの設立が宣言されまし
た。このウンセレという村はモブツが1960年9月にクーデターを起こして以来、大学出の若い
スタッフと話し合う時に使っていた場所であり、後になってここに大統領御料地を造り、大統領
別邸を建て、中国の農業専門家の協力を得て、農園を開発したところです。
  このウンセレで、モブツ政治の基盤となるべきウンセレ宣言が読み上げられました。その中で
「ナショナリズムによってのみ、市民は真の政治的、社会的、経済的解放を達成することができ
る」と謳われています。
 この宣言は民主国家コンゴーの建設、国民の福祉の向上を目指すための政治行動の要綱
が美辞麗句で並べられていました。それを聞いた国民はその理想の高さに酔いしれるばかりで
した。一説には、この宣言の構想そのものは、その翌年殺されることになる反乱の首謀者ムレ
レの手になるものとのことです。学生運動の理論家が宣言の草稿を書いたことは間違いありま
せん。
MPRの旗です。革命の火を掲げる闘士
の腕をデザイ ンしたものですが、モブツ
はこれを国旗までに格上げしました。

  曰く、MPRの目指すところは、男女を問わず、コンゴー全国民をあらゆる形の隷属から解放
し、真に社会的、民主的な共和国を建設することにより、国民の進歩を確実なものにすることで
ある。曰く、その目的のために、女性の解放、若い世代の教育と訓練、科学と芸術の向上、保
健衛生環境の改善を図る。アフリカ諸国との関係では、大陸内でのグループ化を推進し、未解
放の諸国民の独立達成を支援する。国際面では国際機関との協力を進め、東西ブロックの対
立については非同盟の立場を採る、などなどです。
  この非同盟主義一つにしても、これがその時点のアフリカで人気のある国際政治に対する立
場だったのですが、これまでアフリカにおける冷戦戦略のために米国がモブツをどんなに利用
してきたか、そしてモブツがその報酬として、どれほど米国の支援を受けてきたかを見てきた人
たちは、如何にそれが空言であるかを理解できたでしょう。ただし、この年の9月にモブツは、キ
ンシャサでOUA元首会議を主宰することになっており、多くの元首に協力してもらうためには、
このような非同盟主義への言及は欠かせないポイントでした。
  一方で、MNC・Lのキウェワ議長は再び野党結成の声を挙げましたが、再びモブツによって
退けられました。その理由は、「同じように革命を目指すのであれば、認められない。第2政党
は全く別の概念で、全く違った理想を掲げ、別のプログラムで行動するものでなければならな
い」というものでした。この詭弁にも等しい理由でキウェワの野党結成は潰されてしまいました。
  MNC・Lの他にも、独立当時存在した数多くの政党が再統合を図って、新党の結成の名乗り
を挙げましたが、いずれも当局の承認を取り付けることができませんでした。こうして新憲法で
は第2政党の結成が規定されていながら、事実上はそれが不可能になるのです。これが、モブ
ツ流のやり方であり、ウンセレ宣言の立派な理想と余りにもかけ離れた現実は、MPR活動の
あらゆる場面で見られることになります。
  学生の政治運動も労働組合の組織も次第に切り崩され、モブツ体制の中に組み込まれてい
きます。表面上は活動の自由を謳いながら、実際上はMPRの中に吸収し、反体制的な動きを
徹底的に潰していくのです。すでに、1966年2月15日にモブツは如何なる分野においても、
ストライキを行うことを禁止しました。
  学生運動についても、コンゴー学生総同盟(UGEC)はクーデター後暫くの間、モブツと良好
な関係を持ち、モブツも彼らに相談し、彼らの協力を求めました。ルムンバを国家的に英雄に
することを決めたのも、彼らに迎合し、自らをナショナリズムのチャンピョンとするためでした。そ
の式典でUGECの代表は大観衆を前に演説する機会を与えられました。CVRの組織を作る際
も、UGECは相談を受け、協力を求められました。そのような接触の中で学生の中の有力な指
導者たちが、いつの間にか体制側に取り込まれ、学生運動はモブツ体制支援のために使われ
るるようになりました。1960年代においてマルクス主義の教義を我がもの顔にしていたこのU
GECの旧リーダーたちも、ウンセレ宣言を初めとして、イデオロギー面でモブツを支え、モブツ
の権力構造の建設を助けたのです。そしてこの若い人材は次々に大臣やMPRの要職に抜擢さ
れていくのです。
  しかしながら、学生の中には権力当局から利用されてばかりいることに危惧を抱いていた者
も少なからっずいて、モブツの独裁体制がますます強化されることを何とか阻止しようとしまし
た。
  そのような学生がついに行動を起こしました。1968年1月のハンフリー米国副大統領のキ
ンシャサ訪問の際に学生は反抗の意思表示を行いました。ハンフリー副大統領はルムンバの
記念碑に花束を捧げることになっていました。しかし、ルムンバ虐殺の裏にアメリカの謀略があ
ったことを信じてやまない、純粋な学生たちは、そのような芝居じみた行事を許すことができま
せんでした。UGECの中心勢力をなすロバニオム大学の学生たちは、この副大統領の行事を
阻止すべく、記念碑の前で抗議行動を起こそうとしました。これで体制側とUGECの協調体制
は終わりになりました。まず責任者たちが逮捕され、UGECは問答無用で解散させられました。
そして、学生たちは一束にしてMPR青年部に編入されることになりました。
 このようにして、MPRは国民の中に浸透していき、モブツ独裁体制の基盤は強固なものとな
りました。ザイール人は生まれながらにして、MPRの党員であり、そこには選択の余地もあり
ません。逆に言えば、党員籍がないと、一寸した証明書も役場で発行してもらえないのです。国
家公務員になれないことはもちろん、党の推薦がなければ、どんな要職にも就けません。学生
は奨学金の申請もできません。家を建てることも、買うことも、市場で物を売ることもできませ
ん。MPRは国民生活を隅々まで支配した、と言っても過言ではありません。やがてあちこちに
MPRの碑が作られ、そこには次のような文章が枠に刻み込まれます。
  「MPRの教義モブティスムとは、我々の指導者の思想、教え、行動である。この教義を理解
するだけでは十分ではなく、それを我々の魂の中に植え付けなければならない。」
  ついにモブツ主義、モブティスムという言葉が使われるようになりました。その目指すところは
何でしょうか。 
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9−3  オータンティシテ運動
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